187話 エリスの懺悔*
独房の中。
エリスは冷たい石床へ静かに膝をつき、胸の前で両手を組んでいた。
着ていた聖衣は魔王の瘴気に耐えきれず、ボロボロになってしまったため、落ちていた布を被って服の代わりにしている。
いつものように祈ろうとした。
けれど、祈りの言葉が出てこない。
絆の指輪を外した瞬間から、心の中を埋め尽くしているのは神への祈りではなく、一人の青年に関する記憶だった。
(私は……。)
静かに目を閉じる。
思い浮かぶのは、まだ自分が聖女ではなかった頃。
神殿の診療所。
瀕死の少女を前に、自分は必死に治癒魔法を繰り返していた。何度詠唱しても、魔法は最後まで届かない。
あと少し。
あと少しなのに、魔力が足りない。少女の命は、自分の手の中から零れ落ちようとしていた。
(助けられない……また、私は救えない。)
絶望しかけた、その時だった。後ろから、静かな声が聞こえた。
アベルさんだった。
私に魔力を貸すと言ってくれた。聞いたこともない方法で成功する保証もなかったけど、それでも目の前の少女を救える可能性があるなら、と迷わず頷いた。
次の瞬間、背中へ伝わる温もり。
そして、信じられないほど膨大な魔力。
まるで大河のような魔力が、自分の中へ流れ込んできた。その力を受け、自分は初めて最後まで上級聖魔法を完成させることができた。黄金色の光が少女を包み、苦しそうだった表情が穏やかになっていく。あの瞬間、自分は初めて、聖女の奇跡を起こした。
その結果、少女は助かった。そして、気が付けば、アベルさんはもう姿を消していた。礼も受け取らず、名前を名乗ることもなく、何事もなかったように、ただ静かに去っていった。
その日の夕暮れ。
礼拝堂で祈った。
また、あの人に会えますように、と。
(私は……あの日、本当に嬉しかった。)
1人の少女を救う事が出来た。聖女候補とは名ばかりで見習い治癒師として長年燻っていただけの私が、ちゃんと誰かの役に立てた、と実感できた。
そのことがきっかけで、魔力容量も伸びていき、今では色々な聖魔法が使えるようになった。ずっと夢だった聖女にもなれた。
でも、もしあの時アベルさんに出会えていなければ、手伝って貰っていなければ…、きっと私は今でも聖女にんてなれていなかった気がする。
涙が頬を伝う。
それなのに……再会してからの自分は、どうだったか。
診療所で使っていた希少な薬草が手に入らなくなった事を、私達はアベルさんのせいにして責め立てた。薬草が枯渇したのは王家から出た奇妙な依頼が原因だと礼拝に来ていた冒険者が教えてくれていたのに、その事はすっかり忘れて、アベルさんに辛辣な言葉を投げかけた。
それにも関わらず彼は何も言わなかった。自分の採取場所まで教えてくれた。なんで言い返さなかったのかはわからない。でも、アベルさんの…あの暗く悲しい全てを諦めたような目を思いだす。彼はきっとわかっていた。もしも自分が言い返しても私達が聞く耳を持たないと…。
アベルさんが教えてくれた薬草の群生地は、とても診療所のシスターやボランティアが取りに行ける場所ではなかったので、結局アベルさんが時折持ってきてくれる薬草に頼らざるを得なかった。あんなに酷い事を言ったのに、それでも時間を見つけては皆のために薬草を届けてくれた。乱獲で取れなくなった場所に植栽もしてくれたと聞いた。『もう少ししたら、また自分達で採取できるよ』って言って。そんな人が私利私欲のために、薬草を独占するなんてする筈がないのに…。どうして、私は…。
王城で神杖の塔に同行してほしいと頼まれたときも、自分は断った。レオニスの判断に従うことが正しいと信じて。あんな自己保身のために私達を平気で売るような男の為に、私はアベルさんを捨てたのだ。
討伐隊でもそうだった。
食事も与えられず、
休息もなく、
傷だらけになっていくアベルさん。
何度も治療する機会はあった。
せめて声を掛けるぐらいはできたはずだ。
それでも…
何もしなかった。
レオニスがあれを必要だと判断している。そう思い込み、自分の目で見た現実から目を逸らした。
私は聖女になりたかった。
誰よりも命の大切さを尊み、
病気や怪我で苦しむ人たちを救いたかった。
そのはずなのに……
苦しむ恩人に手を差し伸べようとすら思わなかった。
身体が震える。
胸が苦しい。
あの日、
アベルは自分を信じてくれた。
「できる」と、
自分以上に信じてくれた。
だから聖女になれた。
なのに。
自分は一度でも、アベルを信じただろうか。
苦しむ姿を見ても、
傷付く姿を見ても、
最後まで、
レオニスを信じ続けた。
恩人ではなく、
自分を聖女にしてくれた人ではなく、
別の誰かを。
「ごめんなさい……。」
震える声が漏れる。
「私を聖女にしてくださったのは、あなたでした。
夢を叶えさせてくださったのも、
あの少女を救ってくださったのも、
全部……あなたでした。」
涙が止まらない。
「それなのに私は……
あなたが苦しんでいる時、
一度も手を差し伸べませんでした。
そんな私が聖女などと……
烏滸がましいにも程があります。」
額を石床へつける。
「感謝の言葉も…
謝罪の言葉も…
もう……伝えられないのですね。」
あの日。
礼拝堂で祈った。
また会えますように、と。
その願いは叶った。
けれど、自分はその再会を無駄にした。
恩人へ何一つ恩返しができないまま、
全て失ってしまった。
エリスは嗚咽を堪えることもできず、静かな独房で泣き続けた。
そこにいるのは聖女ではない。
なにもできなかった一人の少女だった。




