183話 ルナの懺悔*
独房は静かだった。
石壁。
鉄格子。
冷たい床。
いつもなら、この静寂は嫌いではない。魔法理論を整理するには、むしろ都合がいいぐらいの環境だった。
だが今は違う。左手から外された絆の指輪。それと同時に、封じられていた記憶が次々と蘇ってきた。
◇
(私は……。)
ルナはゆっくりと目を閉じた。
最初に浮かんだのは、学院へ入学して間もない頃。
魔法の理論を超えた先を教えてくれた唯一の相手。
それがアベルだった。
あの時の彼のヒントがなければ今の自分はないと言っても過言ではない。あの後、彼を探し回った。でも、結局会って話をすることはできなかった。彼が教えてくれた新しいアプローチで、自分の研究がどんどん進むようになり、忙しくなってしまったというのもある。だけど…
(あの時間は……楽しかった。)
心から、そう思えた。
◇
研究に没頭して徹夜を繰り返した日。
気が付けば机の上には魔道保温ポットに入った温かい飲み物と軽食が置かれていたことがあった。誰が持ってきたのかなど考えもしなかった。
同僚の研究者が、黒髪の1年生からの差し入れだと言っていた。前の発言が間違っていなかったか心配して様子を見に来たらしい。当時はあまり考えもしなかったが、よく考えてみるとマユミが転入する前までは黒髪の1年生はアベルしかいなかった。研究の邪魔をしないよう、何も言わずに置いていってくれていた。
(私は…受け取るだけだった。)
◇
ルナは小さく拳を握る。
記憶はさらに続く。
学院祭。
(私は…あの人の優しさを、知識としてしか見ていなかった。)
◇
場面が変わる。
王都防衛戦。崩れかけた戦線をアベルは1人で立て直して見せた。初めてみる魔法と剣技を組み合わせた攻撃技術に私は目を奪われた。その後も自分が安心して詠唱できたのは、前でアベルが敵を引き受けてくれていたからだった。
◇
ドラゴン戦でも同じ。自分たちが長い詠唱を必要とする最大火力を放てたのも、アベルが前線で時間を稼いでくれていたからだ。
(全部……。全部、あの人が支えていた。)
そして、最も見たくなかった記憶。
ドラゴン戦の終盤。
転移スクロールで私達はアベルを置き去りにした。
眩い光。
アベルだけが戦場へ残される光景。
あの瞬間、自分は何をした。
何もしなかった。
せめて支援魔法の一つでも、僅かだけど残っていたポーションを置いていくことも、出来ることはあった筈なのに。
何一つ。
(私は……研究者である前に、ヒトとして失格。)
◇
さらに記憶は続く。
今回の行軍。
アベルへの理不尽な扱い。
疲弊しきった身体。
石を投げられても反撃しない姿。
倒れても休ませてもらえない姿。
全部、見ていた。
全部、理解していた。
なのに、魔力ポッドに魔力を貯めてもらうのに、なんの罪悪感も持たなかった。彼1人でやっていたなんて知らなかったけど…。いや、知っていたとしても、あの時の私なら止めなかったかも知れない。ただ、魔力ポッドに魔力が溜まっていくのが嬉しかった。これで研究が進められると……。今になって考えれば、あれが彼のスタミナをどれだけ根こそぎ奪っていたのか、想像するだけで申し訳なさでいっぱいになる。
◇
ルナは膝を抱えた。
冷静でいることだけが取り柄だった。
感情より理論。
情より合理性。
そう思って生きてきた。
だが。
今、理論は一つの答えしか導き出さない。
(アベルという存在がいなければ、私は今の私にはなれていない。)
魔法研究も
知識も
成長も
その土台には、いつも彼がいた。
なのに、自分は一度でも、その恩に報いただろうか。
答えは、すぐに出た。
(……ない。)
◇
ルナは静かに顔を伏せる。
「謝りたい……。」
小さな声だった。
「私は……あなたを何だと思っていた?
まるで実験動物のモルモットか何か?
……違う。もっと酷い扱いをしていた。」
知識ばかりを求め、目の前にいた、一人の少年の苦しみには気付こうともしなかった。
兵士達が伝えてくれた情報に基けばアベル単独での生存確率は0.1%未満……絶望的な数字だった。
「謝罪も……感謝でさえも……伝えられないのか。」
その言葉とともに、一筋の涙が頬を伝う。
理屈では説明できない痛み。
その正体を、ルナは初めて知った。
それは恩人を失った者が抱く、どうしようもない罪悪感。
魔導士ルナは、誰にも聞こえない独房の中で、静かに懺悔を続けていた。




