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176話 残された痕跡

 翌朝。


 洞窟の外は薄い霧に包まれていた。

 昨夜の喧騒が嘘のように静かである。


 レオニスは地図を広げ、周囲を見回した。


「まずは状況を確認する。兵士長、数名を昨日の戦場へ斥候に出せ。」

「承知しました。」


 その場にいた兵士たちの空気が僅かに重くなる。

 魔王軍がまだ残っている可能性は十分にあるため、危険な任務だった。


「……私が行きます。」

「私も行かせてください。」


 2人の若い兵士たちが静かに手を挙げた。


「よし。ただし、敵影を確認したら戦わずに直ぐに戻れ。また、勇者の生死に関する痕跡も確認してくるように。」


(死体が残されている可能性は低いと思うが。)


「「はっ。」」


「彼らが戻り、敵軍が居ないようなら速やかに魔王城への移動を再開するから、各自準備をしておくように。」



 兵士達は気配を消しながら慎重に山道を戻っていく。

 足音を殺し、木々の陰を縫うように進む。

 昨日の戦場へ近付くにつれ、空気が変わった。


 鼻を突く血の臭い。

 焼けた土。

 そして、

 静寂。


     ◇


 谷へ辿り着いた兵士達は思わず息を呑んだ。


「これは……。」


 そこには無数の魔物の死体が転がっていた。


 ゴブリン。

 オーク。

 魔族の兵士。


 昨日押し寄せていた魔王軍の大半が、その場で息絶えている。


 折れた武器。

 抉れた岩壁。

 深く刻まれた斬撃の跡。


 その全てが戦いの激しさを物語っていた。


(これを全部……あのアベルが。)


 兵士は思わず喉を鳴らす。


 この数を、

 たった一人で。


 しかし、肝心のアベルの姿は、どこにもなかった。


 兵士達は周囲を慎重に探す。


 谷の奥。

 岩陰。

 倒木の裏。


 どこにも見当たらない。


     ◇


 その時、岩肌の近くで1人の兵士の足が止まる。


「……っ。」


 突然現れた巨大なクレーター。そしてその中央。

 そこには大量の血痕が残っていた。

 まるで、誰が倒れ伏したかのように。


 人の身体ほどの大きさで血が広がっている。その周囲には、あと4つほどの同じサイズの血跡まで残されていた。これが全てアベルのものだとすれば大量出血死はもはや不可避だろう。だが、その周囲に遺体はない。


 兵士は青ざめた表情で周囲を見回す。


(魔物に……。)


 最悪の想像が頭をよぎる。魔族に遺体を持ち去られたか、あるいは魔物に食べられてしまったか。


 あるいは、すぐ側の地面の裂け目から谷の奥へ落ちた可能性もあった。だが、谷底は暗くどこまで深いのか全く検討がつかない。ここに落ちた場合、転落死は確実だろうと考えられた。


     ◇


 兵士達が見つけられる痕跡には限りがあり、これ以上の長居は危険だと判断した。兵士達は最後にもう一度だけ戦場を見渡す。


 積み重なる魔物の死体。アベルの姿はなし。


「……戻らなければ。」


 踵を返し、全速力で洞窟へ向かった。

 


 数十分後。


 洞窟へ戻った兵士達は息を切らしながら報告する。


「報告します!戦場には……クレーターにような窪みに大量の魔物の死体がありました!」


 その場がざわつく。もう1人の兵士が息を整えながら報告する。


「ですが……。」


 兵士は一度だけ目を伏せる。


「勇者の姿はありませんでした。残っていたのは……。」


 兵士は唇を噛み締める。


「大量の血痕だけです。ヒトが倒れたような跡でした。」


 洞窟の中は、重苦しい沈黙に包まれた。

 誰も、その先を口にはしなかった。

 いや、口にできなかった。


 アベルが生きているのか、それとも――

 その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

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