174話 戻らない勇者
谷を埋め尽くす魔王軍。
その最前線へ、アベルは静かに立っていた。
短聖剣を握る右手は震えている。
(前世の締切前の修羅場よりは、ちょっと厳しいかもな…)
勇者の力は戻らない。
身体も限界だった。
それでも。
「ここは通さない。」
その一言だけを残し、前へ踏み出す。
最初に飛び込んできたオークの首を一閃で断つ。
二体目。
三体目。
短聖剣は迷いなく敵を斬り伏せていく。
だが。倒しても倒しても、敵は減らない。一方で谷の奥からは、新たな魔物が押し寄せてくる。まるで終わりが見えなかった。
◇
「勇者一人だ!」
「押し潰せ!」
魔族の号令が響き、無数の矢が降り注ぐ。
アベルは身を翻し、辛うじて急所を避ける。
それでも肩を掠め、腕を裂き、脚にも一本が突き刺さった。
「っ……!」
膝が揺れるが、それでも倒れない。
◇
短聖剣へ勇者の力を流し込むと白銀の光が身体全体を包み込む。以前なら谷全体を照らしたその輝きも、今は淡く弱々しい。
「はぁぁぁっ!」
渾身の一撃。数十体をまとめて薙ぎ払う。
だが、その直後
⸻息が切れる。
胸が焼けるように痛い。
(足りない。力が……。)
◇
遠くでは討伐隊が後退を続けていた。
兵士の一人が思わず振り返る。
「まだ戦ってる……。」
別の兵士も唇を噛んだ。
「一人で、あの数を……。」
「殿とはいえ、無茶だ……。」
しかし誰も足を止められない。隊長命令は絶対だった。
◇
隊列の中で、マユミは歩みを止めようとした。
だが、チョーカーが首元で鈍く光る。
「っ……。」
激痛が全身を貫き、身体が命令に逆うことを許さない。歯を食いしばりながら、それでも涙だけが頬を伝った。
一方のメアは、命令通り無表情のまま歩き続けている。チョーカーがなければ真っ先にアベルの元へ駆け出していただろう。だが今は、その意思すら封じられていた。
◇
谷ではアベルがなおも剣を振るっていた。
十体。
二十体。
三十体。
魔物の死体が積み重なっていく。しかし、その身体も限界だった。
そして、ついに…
ガキンッ!!
短聖剣が敵の大剣を受け止め切れず、大きく弾かれた。体勢が崩れる。そこへオークの棍棒と魔族の槍、ゴブリンの刃が一斉に襲い掛かった。
「がっ……!」
鮮血が舞い、アベルの身体が吹き飛ぶ。そしてそのまま岩壁へ激突した。落ちて地面に足がつくと膝が折れた。そのまま倒れ込むアベル。手をついてなんとか立ち上がろうとするが、脚が動かなくなっていた。次第に視界が赤く染まる。
◇
「終わりだ。」
魔族の指揮官が剣を掲げる。
「勇者を討ち取れ!」
数十体の魔物が一斉に襲い掛かった。
その瞬間、谷全体を凄まじい土煙が包み込む。
轟音。
岩が崩れ、
木々が倒れ、
勇者の姿は完全に煙の中へ消えた。
◇
やがて、土煙の向こうから、魔王軍の歓声が響き渡る。
「勇者は死んだ!」
「討ち取ったぞ!」
その声は谷全体へ木霊した。一方、撤退を続ける討伐隊にも、その歓声は風に乗って届く。
兵士たちは顔を見合わせた。マユミはその場で崩れ落ちた。無表情のメアにも涙が溢れ出す。
「まさか……。」
「本当に……。」
誰も続きを口にできない。
ただ、重苦しい沈黙だけが隊列を包んでいた。




