173話 殿
谷全体へ戦いの音が響き渡る。
剣戟。
爆発。
魔物の咆哮。
そして、絶え間なく押し寄せる魔王軍。
討伐隊は必死に応戦していた。
◇
「右翼が押されています!」
「左翼も突破されそうです!」
兵士たちの報告が次々と飛び込む。レオニスは周囲を見回した。魔王軍の数は想定以上。しかも統率まで取れている。
このまま戦えば…
(勝てない。)
その結論だけは明確だった。
「全軍!」
レオニスが声を張る。
「一時撤退する!」
兵士たちが息を呑む。
「谷を抜ける!隊形を維持したまま後退だ!」
「「「はっ!」」」
すぐに部隊は一箇所に集められ動き始めた。
だが、魔王軍も逃がすつもりはない。追撃部隊が一斉に距離を詰めてくる。
「まずい!」
「追いつかれます!」
◇
レオニスは振り返る。そして、迷いなく口を開いた。
「アベル。」
「はい。」
「殿を任せる。」
その場が静まり返る。
殿 ー 最後尾で敵を食い止めながら撤退する役目。
最も危険で、生還率も低い。
◇
マユミの顔色が変わる。
(そんな……今のアベル様は明らかに以前とは違う。ドラゴンと戦っていたときのような圧倒的な力を全くと言っていいほど感じない。それなのに、この数を一人で止めるなんて無茶よ。)
チョーカーの拘束を振り切ってマユミが思わず声を上げる。
「一人では無理です!私も残ります。」
言った瞬間。首元のチョーカーが鈍く光る。
「発言を許可した覚えはない。」
レオニスが冷たく言うと全身へ気絶しそうな程の激痛が走る。
「っ……!」
膝をつきそうになる。
「持ち場へ戻れ。」
「……はい。」
身体は命令に逆らえなかった。
メアも無意識に一歩踏み出そうとする。だが…
「メア、隊列を守れ。」
それだけで止まり、無表情のまま隊列へ戻っていく。
アベルはその二人を見る。そして、小さく笑った。
「心配しなくていい。すぐ追いつく。」
優しい声だった。
だが、その言葉を信じられる者は、この場には誰一人いなかった。
「他は部隊護衛を優先する。殿はアベル一人だ。敵の狙いが勇者である以上、それが最善だ。」
アベルは静かに目を閉じた。勇者の力は弱っていて、身体も限界に近い。
それでも…
「……了解しました。」
短く答えた。
◇
討伐隊は後退を始める。
兵士、
ヒロインたち、
補給部隊。
全員が谷の出口へ向かって走る。
最後尾には、ただ一人。アベルだけが残った。
◇
短聖剣を握る。
正面には魔王軍。
その数はますます増えて今や千を超えていた。
アベルは静かに息を吐く。
「さて。少しだけ……時間を稼ぐか。」
その瞬間、魔王軍が一斉に雪崩れ込んできた。
勇者は、たった一人でその奔流を迎え撃つ。




