167話 アベルの焦り
夜の森は静かだった。
焚き火の明かりは遥か後方で、アベルは一人、外周警戒を続けていた。風が木々を揺らし、虫の鳴き声だけが耳に届く。
(異常なし……。)
そう思った矢先。
ガサリ。
茂みが揺れた。現れたのは二体のウルフ型魔物。夜目の利く魔物は、迷うことなくアベルへ飛び掛かってくる。
「……来るか。」
短聖剣を抜く。
一歩踏み込み一閃。一体目の首を斬り飛ばす。
続けて身体を反転させ、二体目の胸を貫く。
二体はそのまま地面へ倒れ込んだ。
「ふぅ……。」
アベルは剣に付いた血を払う。
問題ない。そう思った。
しかし、
「……?」
どこか違和感があった。いつもより息が上がっている気がする。たった二体。普段なら息を整える必要すらない相手だった。
(疲れてるだけか……。)
学院祭のためのミスリルゴーレム討伐。
その後のアルセリア王国での事件解決。
その間、ほとんど休めていないのだから当然だ。
そう自分へ言い聞かせる。
◇
さらに一時間後。今度はオークが三体。アベルは正面から迎え撃つ。
剣を振るうが、
「っ!」
一体目を斬った瞬間、腕へ重さが残った。以前なら、そのまま流れるように二体目へ移れた。ほんの僅か。その一瞬だけ動きが止まる。その隙にオークの棍棒が肩を掠めた。
「ぐっ……!」
傷は浅い。それでも、いつもの調子なら余裕で避けられたはずの一撃だった。
◇
三体を倒したあと、アベルは静かに右手を見る。
震えている。
(違う。疲労だけじゃない。)
身体が重い。魔力の巡りも鈍い。勇者の力が、以前ほど湧き上がってこない。木へ背中を預け、静かに目を閉じて思い返す。
心当たりと言えそうなのは、学院祭最終日にマユミと無理やり成立させた従魔契約。
(……あれか。)
あの時、アベルは勇者の力を限界以上に引き出した。本来なら契約が成立しない状態だったのを、自らの命を削る覚悟で力を注ぎ込んだ。結果としてマユミは助かった。
だが、その代償が残っていたのだ。アベルは拳を握り勇者の力を意識して引き出そうとしてみる。
拳に白銀の光は宿った。しかし、以前のような圧倒的な奔流はない。まるで器そのものが小さくなってしまったかのようだった。
「……まずいな。」
小さく呟く。
これから向かう相手は魔王軍。そして魔王。
今のままでは到底届かない。
遠くで再び魔物の唸り声が響くなか、アベルはゆっくり立ち上がった。
不安はある。
焦りもある。
それでも足を止めることはできない。
「……今できることをやるしかない。」
短聖剣を握り直し、再び夜の森へ歩き出す。
勇者の力は確かに弱まっていた。だが、その事実を知る者は、まだアベルただ一人だけだった。




