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014話 届かない背中

「惜しいな。」


 静かな声だった。

 それでも、リシアの身体は反射的に動いた。


 木剣を構え、声の主へ振り向く。

 夕日に照らされた黒い外套。

 深く被られたフード。

 顔は霞がかかったように判然としない。

 けれど、その立ち姿だけで分かった。


(あの時の……。)


 迷宮で自分を救ってくれた人物。間違いない。

 胸が高鳴る。


 だが、それを表情には出さず、リシアは静かに礼をした。


「先日は……ありがとうございました。」


 黒衣の青年――アベルは首を傾げる。


「?」


「迷宮で、助けていただきました。」

「ああ。」


 それだけ答える。特別なことをしたという自覚はない。たまたま近くにいただけだ。


「命の恩人です。」

「大げさだよ。」


 アベルは苦笑した。


「先生たちもすぐ来てたし。」


 そのあっさりした態度に、リシアは少しだけ目を丸くする。


 本当に、見返りなど求めていない。

 英雄になりたいわけでもない。

 感謝されたいわけでもない。

 だから名乗らなかったのだ。

 そんなことが、自然と理解できた。



 しばらく沈黙が流れる。


 先に口を開いたのはアベルだった。


「さっきの剣、少し力み過ぎかな。」


 リシアの瞳が揺れる。


「……力み?」

「うん。」


 アベルは近くに落ちていた木の枝を拾った。


「ちょっといい?」

「もちろんです。」


 構える。


 枝を剣に見立てる。


「ヴァルク流だよね。」

「ご存知なのですか。」

「昔、本で読んだことがある。」


 嘘ではない。ゲームの追加ディスクに収録されていた始祖の剣術書を、彼は何度も読み込んでいた。


「この剣って。」


 枝をゆっくり振る。


「踏み込みの瞬間に腰を完全に止めるでしょ。」

「はい。」

「それが長所でもある。」


 一撃が重い。人間相手なら理想的だ。


「でも。」


 枝を横へ倒す。


「大きい相手には衝撃を全部受けちゃう。」


 リシアの呼吸が止まる。


 それは…まさにアイアンゴーレム戦で起きたことだった。


「拳を受けた瞬間。」

「…………。」

「踏ん張れなかったでしょ。」


 図星だった。


 あの一撃。

 身体が吹き飛んだ。

 受け流せなかった。


「どうして……。」


 思わず漏れる。


「どうして分かるんですか。」

「そういう相手と戦ったことあるから。」


 さらりと言う。

 事実、高難度迷宮ではもっと巨大な魔物と何度も戦っている。だから自然と身についただけだった。



 アベルは枝を軽く回した。


「力を逃がすんだ。」


 肩。

 腰。

 膝。

 全部を少しずつ動かす。


「全部止めるんじゃなくて。」

「流す。」


 枝が空を切る。


 ただそれだけなのに。


 リシアには、川の流れを見ているように感じられた。


「…………。」


 美しい。あの日見た剣だ。


「やってみる?」

「はい!」


 返事は即答だった。



 リシアは木剣を構える。


 言われた通り身体の力を抜く。


 振る。


「違う。」

「はい。」

「肩に力入ってる。」

「はい。」


 もう一度。


「今度は腰。」

「……はい。」


 何度も。

 何度も。

 繰り返す。


 不思議だった。

 厳しい言葉ではない。

 怒鳴られることもない。

 それでも、一言一言が驚くほど分かりやすい。


「肩の力を抜いて。」

「はい。」


『剣は振り下ろすんじゃない。相手へ届けるんだ。』

「はい。」


 ある瞬間、木剣から風を切る音が消えた。


「そう。」


 初めて褒められた。


「今の感じ。」


 その一言だけで。

 胸が熱くなる。



 一時間ほど経った頃、アベルは満足そうに頷いた。


「今日はここまでかな。」


 リシアは息を切らしながら、それでも笑っていた。


「……ありがとうございました。」

「うん。」

「お名前を伺っても?」


 アベルは困ったように笑う。


「名乗るほどじゃないよ。」


 そう言って背を向ける。

 迷宮へ向かって歩いていく。


「待ってください!」


 リシアが思わず呼び止める。


「また……。」


 その言葉に、アベルは振り返らないまま答えた。


「ここにはよく来るから。」


「!」


「会ったら、また。」


 それだけ言い残し、黒い外套は迷宮の闇へ溶けていった。



 一人残されたリシアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 木剣を握る。


 さっきまでとは違う。

 身体が軽い。

 力が自然に流れる。


「これが……。」


 ヴァルク流の先。


 父も教えてくれなかった世界。


 いや、父も知らないのかもしれない。


 胸の奥に、小さな憧れが生まれる。

 そしてそれは彼女の中に生まれた初めての願望。

 剣士として一人の剣士に追いつきたい。

 その背中を追い掛けたい。

 そして肩を並べて共に戦いたい。

 そんな願いだった。



 同じ頃、生徒会室ではレオニスが満足そうに資料を閉じていた。


「リシアも落ち着いてきたようですね。」


 側近の報告に頷く。


「ああ。」


 (ゲーム通りだ。危機を乗り越え、努力を始める。)


 あとは決闘イベントをこなせば、リシアルートは順調に進む。そう信じて疑わなかった。


 その頃すでに、リシアの剣は、ゲームには存在しなかった”黒衣の剣士”によって、少しずつ変わり始めていることも知らずに。

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