010話 侯爵令嬢クラリスの商談*
野盗襲撃事件から数日。
学院はすっかり平穏を取り戻していた。
生徒たちは演習の感想を語り合い、教師たちは護衛の対応を評価する。
表向きの報告では、
「レオニス殿下の的確な判断により被害は最小限に抑えられた」
という結論でまとまっていた。
護衛を増員したこと。
迅速な指揮を執ったこと。
どちらも事実だったからだ。
誰も、森から現れた黒衣の青年について詳しく語ろうとはしなかった。認識阻害の加護によって、皆の記憶が曖昧になっていたのである。
ただ一人。
侍女エマだけは違った。
今でも時折、窓の外を見つめては思う。
――また、会いたい。
あの優しい瞳の人に。
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その頃、学院中央棟では商学科との合同講義が開かれていた。
貴族にとって経済もまた武器である。
特別クラスの面々も参加している。
「今日の課題は市場分析です。」
教師が一枚の紙を配る。
「王都近郊で不足している商品を調べ、利益を出せる事業を考えてください。」
生徒たちは顔を見合わせる。
剣や魔法と違い、正解のない課題だった。
「難しい……。」
「値段なんて分からないわ。」
そんな中、一人だけ静かに紙へ書き込み始める少女がいた。
クラリス・ローゼン。
王国有数の大商会を抱えるローゼン侯爵家の令嬢だった。
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「できました。」
開始からわずか十分。
教師が驚く。
「もうですか?」
「はい。」
提出された用紙を見た教師は絶句した。
市場価格。
輸送費。
保管費。
季節変動。
利益率。
さらには隣国との為替差まで計算されている。
「……完璧です。」
教室がざわめく。
「さすがローゼン家の侯爵令嬢……。」
「別格だ。」
クラリスは照れる様子もなく席へ戻った。
彼女にとっては当たり前だった。
幼い頃から数字に囲まれて育った。
商売とは利益だけではない。
人と人を繋ぐものだと父から教えられてきた。
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講義後、レオニスがクラリスへ歩み寄る。
「素晴らしい分析だった。」
「ありがとうございます。」
「ぜひ私が会長になる次期生徒会にも力を貸してほしい。」
「喜んで。」
クラリスは微笑む。
レオニス殿下は経済にも理解がある。
そう思っていた。
「そうだ。」
レオニスは続ける。
「近いうちに学院祭がある。」
「はい。」
「僕はそこで商会との共同事業を考えている。」
クラリスの目が輝いた。
「面白そうですね。」
「成功すれば学院の名声も上がる。」
「ぜひ協力させてください。」
レオニスは満足そうに頷いた。
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一方、一般クラスでアベルはミリアから受け取った依頼書を眺めていた。
「あの薬草……。」
高難度迷宮《黒霧の迷宮》の隠し通路に生えていた希少薬草をミリアが研究に必要だと言っていた。
「多少見つけにくい程度で割と簡単に手に入るはずなんだけどな。」
まあ、頼りにされるのは悪い気もしない。
(今日の放課後になら採りに行けるかな。)
その程度の気持ちだった。
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放課後の早い時間にいつもより多めに採取してカゴに入れて帰ってきた。学院裏門から錬金棟に向かう途中
「待って下さい。」
声を掛けられた。
振り返ると、一人の少女が立っていた。
クラリスだった。
「え?」
アベルは少し驚く。これまでミリア以外の特別クラスの生徒から話しかけられることはほぼなかった。
「あなた。」
クラリスはアベルの籠を見る。
「薬草採取ですか?」
「まあ。」
「売る予定は?」
「いや。」
首を振る。
「知り合いに頼まれただけだから。」
クラリスは少し考え込む。
「もし余るなら、私が買い取ります。」
「買う?」
「品質次第ですが、公定取引価格の1.5倍で。」
アベルは思わず目を丸くした。
薬草はその種類ごとに商会に納品するときの公定取引価格が決まっていて、冒険者側がふっかけて価格を上げることは禁止されている。そのため、商会からギルドに特別な依頼でもかけて採取を依頼する様な希少薬草でもない限りは、買い取る方が値段を釣り上げる必要はないはずとアベルは思っている。
「高くない?標準価格でいいよ。」
「高くありません。」
クラリスは即答する。
「希少薬草は鮮度が命です。」
「……。」
「採集できる人間が少ない以上、それだけの価値があります。」
少ない?というところに若干の引っかかりを覚えるも、なるほど、とアベルは感心する。
「でも、薬草なんだから怪我や病気のための薬にするんだよね?俺が儲かってもそのせいで薬が値上がりして買えなくなる人が出たりしない?」
「……そ、それは。」
想定外の盲点を突かれて言葉を失うクラリスだった。
「だから、標準価格でいいよ。でも余ったらね。」
「わかりました。それでお願いします。私は商科棟にいますので。」
二人はそれだけ話して別れた。
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その様子を、少し離れた場所からレオニスが見ていた。
(……何を話していた?)
クラリスが直接一般クラスの生徒と話すなど珍しい。しかも相手はアベル。
胸の奥が僅かにざわつく。
だがすぐに首を振る。
(偶然だ。)
クラリスが商売の話でもしたのだろう。
そう自分に言い聞かせた。
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アベルは依頼された希少薬草をミリアへ渡す。
「こんなに!」
彼女は大喜びだった。
「ありがとう!でも、これだけあるなら貴重な薬草を私ばかりが使うのは申し訳ないね。」
「じゃあ。」
アベルはクラリスとの約束を思い出した。
「ミリアさんが必要な分以外は売ってくるよ。」
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数十分後。
クラリスは薬草を見て目を見開く。
「……これは。」
一枚葉を取り、香りを確かめる。
「完璧です。」
鮮度。
品質。
傷一つない。
「約束どおり、公定取引価格で買い取らせて頂きます。」
「助かる。」
「いえ。こちらこそ。」
クラリスは微笑む。
「良い取引でした。」
商人らしい笑顔だった。
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アベルが去った後。
クラリスは薬草を見つめながら小さく呟く。
「不思議な方ですね。」
希少薬草の価値を知らないわけではないはずなのに値段を吹っかけようともしないばかりか、利益よりも弱者のことを考えて行動する。
(損得で動かない人ですか……。)
商人ばかりに囲まれて育った彼女にとって、それは新鮮だった。
一方、アベルは手に入れた代金を見て苦笑する。
「思わぬ臨時収入になったな。」
ゲーム知識のおかげで採れるだけ。
価値までは考えていなかった。
そんな彼の背中を、校舎の窓からレオニスが静かに見つめていた。
アベル。
黒衣の男。
そして、少しずつヒロインたちと交差し始める運命。
まだ誰も、その小さな縁が未来を大きく変えていくことを知らなかった。




