絆の芽生え
「……咳を殺そうとしては、なりませぬ」
意を決して発した声は、ひどく掠れていた。無理もない。半年もの間、頑なに言葉を封じていたのだから。
日左衛門は、弾かれたように顔を上げた。驚愕に大きく見開かれた瞳が、目の前の辰を捉える。
「……兄者……? 今、兄者が……?」
辰は、日左衛門の怯まぬ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「咳を殺そうとすれば、身体が逆らいます。気を巡らせ、地へ逃がすのです」
辰は、日左衛門の冷え切った手に、己の手を重ねた。震える手を、自らの喉元へと導く。
「喉に熱が来たら、意識をそこから引き剥がす。……丹田に、その重石を置くように。それから、それを下へ下へとおろします。大地の底まで、一本の根を張るのです。苦しみはすべて、その根を通して捨てればよい」
雷に打たれたように固まっていた日左衛門が、首を傾げる。
「……根を、張る……?」
「はい。喉を塞ぎ、咳を殺そうとすれば、五臓が逆らう。 咳は、地の底へ逃がすのです」
――丹田、五臓。本来であれば、辰の知り得る言葉ではなかった。この銀狼屋へ連れられて来てから、日左衛門の枕元で御医師や老女、女房たちが交わしていた言葉を聞き、覚えた言葉だ。
己が暗闇の中で掴み取った「音を殺す体感」を、若君にも分かりやすく、何より「お偉い御医師の言うことと同じくらい確かな、正しい術なのだ」と説得力を持たせて安心させるために。辰は覚えたての難しい言葉をあえて選んで使っていた。
辰は日左衛門の手を、今度は己の臍の下へと当てさせ、ゆっくりと、音もなく息を吸い込んだ。その、微塵の揺らぎもない身体の動きに、日左衛門は見入っている。
「……兄者は、どうしてそのようなことを知っているのですか。御医師も、主人も、そんなことは仰らなかった」
日左衛門の無垢な問いに、辰は答えに窮する。
記憶の底から、生家での日々がよみがえる。
辰の身体は丈夫だ。それでも時には、病を得た。喉を震わせるたびに、母は眦を決した。
咳ひとつするたびに、死に瀕するほどの折檻を受けた。呻けば、咳き込めば、さらに打たれる。生き延びるためには、息そのものを殺すしかなかった。
暗い納屋の隅で、痛みに耐えながら、どうすれば「音」をこの身体から消し去れるかを、死に物狂いで考え抜いた末の――それは「知恵」などではなく、生き延びるために刻まれた「悪足掻き」の結実であった。
「……わたしの、いたところでは、音を立てることは許されませんでした」
辰は、過去の凄惨をすべて胸の奥へ削ぎ落とし、ただ事実だけを短く告げた。だが、その声の冷徹な静けさに、日左衛門は言葉以上の「痛み」を感じ取ったようだった。
「……兄者も、お辛かったのですね」
日左衛門の小さな手が、辰の腕に触れた。
愛されて、守られて、それでもなお死に瀕している日左衛門。
愛されず、疎まれ、それでもなお健やかに生き延びてきた辰。
二人の間には、底が見えぬほど深い断絶がある。けれど今、その深淵の上に、一本の細い橋が架かった。
「若君。今から、わたしの呼吸に合わせてください。……わたしが、若君の根になります」
辰は日左衛門を抱きかかえるようにして座らせ、その薄い背を、己の胸をぴたりと合わせた。
日左衛門の、今にも途絶えそうなほど、細い呼吸。
辰の、揺るぎない呼吸。
「……吸って。……止めて。……重石を、さらに下へ」
辰の導きに従い、日左衛門はゆっくりと、大地に根を張る感覚を掴もうとしている。
それは、主人が強いた「調教」でも、雪乃が願った「神仏の奇跡」でもない。影として生きる二人が、暗闇の底で分かち合う「生きる術」であった。
辰の背に預けられた日左衛門の身体から、強張りが抜けていく。春が訪れ、雪が解けるように。
このまま、喉を焼く渇きも、胸を突き上げる衝動も、辰の深く揺るぎない呼吸に同調するうちに、不思議と静かな凪へと変わって欲しいと願う。
「……ふう……はあ……」
日左衛門は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、血走った赤みではなく、潤んだような透明な光が戻っている。彼はそっと辰の腕から離れると、座り直して、傍らに跪く辰をじっと見つめた。
「……不思議です。兄者の温もりに触れていると、喉の奥の火が、消えていくようでした」
日左衛門の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。それを目にするのは、随分と、久し振りだった。やつれた頬に差した微かな赤みが、夕映えの美しさを帯びている。
「ありがとう、兄者。……兄者がいてくれて、本当に良かった」
その真っ直ぐな言葉が、辰の胸の奥底、氷に閉ざされていた場所に触れた。
――辰がいて、良かった
母に恨まれ、この銀狼屋では「不浄な控え」として、その存在を呪われていた自分。健康であることさえ罪だとされる半生。
それが今、この小さな主君の一言で、価値を与えられた。
辰は込み上げる熱いものを必死に抑え込み、ただ深く、深く、畳に額を擦りつけるようにして頭を垂れた。
――……この子の、根になれるなら
それこそが、自分の生まれた意味なのだと。
主人が望んだ「予備」でも、雪乃が憎んだ「異物」でもない。この日左衛門を守るために、自分はこの丈夫な身体を授かったのだと、辰は初めて己の運命を抱きしめた。
「……若君のお目見え、必ずや、お守りいたします」
意図せず零れ落ちたのは、命を賭した誓いの言葉。
日左衛門は深く頷いた。その瞳に映るのは、頼もしい「兄」の姿に他ならない。
外では、蝉の声が夕闇に溶け始めていた。
逃げ場のない夏の熱気は相変わらずだったが、奥座敷を満たしていた絶望の澱は、二人だけの秘密の誓いによって、静かに、しかし確かに、払拭されていた。




