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月兎取月  作者: 銀ねも
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転機 ※加筆修正

 辰が奥座敷に戻ると、日左衛門はすでに深い眠りに就いていた。

 その枕元には、宿直(とのい)として居残った女房が控えている。

 彼女は戻ってきた辰を睨(ね)めつけると、声を押し殺し、されど刺すような鋭さで囁いた。


「やっと戻りましたか。若君は今しがたようやくお休みになられたばかり。これよりはわたくしが夜のお伽を務めますゆえ、お前は己の部屋へ戻りなさい。身の程を弁えぬ足音で、ゆめゆめ若君を起こし奉るな」


 女房は、早く立ち去れと言わんばかりに顎(あご)で戸口を示した。辰を日左衛門の傍に一瞬たりとも近づけたくないという、強い嫌悪の圧であった。


 愚図愚図とその場に留まったところで、どうにもならない。辰は言われた通り息を殺して部屋を退がるしかなかった。去り際に一瞬だけ見つめた、日左衛門の寝顔。もはや、辰の帰りを待つ気力も残っていなかったらしい。白粉を刷いたような横顔は、夜の闇の中でいっそう透き通り、今にも儚く消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。


 文は確かに届けたと、そう伝えれば、あの青白い頬に赤みが差すだろうかと、辰はそんなことを考えた。


 翌朝、朝靄(あさもや)が座敷を白く染める頃。雪乃が日左衛門を訪ねてきた。


 辰は一礼して控えの間へと下がり、襖の隙間からその気配を窺った。


 昨夜のあの凄惨な慟哭(どうこく)が嘘のように、雪乃の声は穏やかで、日左衛門の小さな手を、その繊手で優しく包み込んでいるようだった。


 雪乃が去った後、日左衛門が辰を呼び寄せた。昨日の憔悴が尾を引いていることは明らかだったが、日左衛門の表情は晴れやかだった。


「兄者……! 昨夜は、ありがとうございました。母さま、文を読んでくださったそうです。それで、わざわざ、お礼にいらしてくださいました。母上は、まこと、お優しい御方です」


 日左衛門は、枯れた喉で懸命に、辰への感謝と母への敬慕を口にした。


 雪乃は、辰が文を届けたことを表立っては知らない。だが、日左衛門との会話の中で、彼女は明確に悟ったはずだ。隙間に挟まれていたあの文を運んだのが、自分が昨夜、忌々しいと呪詛を吐きかけた「控えの子」であったことを。知ってなお、雪乃は何も言わず、ただ日左衛門の母として穏やかに振る舞ってみせた。沈黙の裏には、息子への狂おしい愛があるのだろう。それは、辰の胸の奥に冷たい楔のように打ち込まれる。


 その日、日左衛門には束の間の休息が与えられた。張り詰めていた糸が緩み、奥座敷にはかつての平穏が戻ったかに見えた。


 しかし、無情にも翌日には、ふたたび「訓練」が再開された。


 日左衛門は、以前にも増して懸命に取り組んだ。母の涙を拭うため、父の期待に応えるため、小さな胸を張り、唇を紫に変えてまで呼吸を殺した。だが、心根の強さがそのまま身体の強さになるわけではない。堪えれば堪えるほど、一度溢れ出した時の咳き込みは激しさを増し、日左衛門の体力は目に見えて削り取られていった。


 一方、主人もまた、焦燥の淵に立たされていた。


 彼は密かに医者を呼び寄せ、あるいは薬種問屋から高価な唐薬(からぐすり)を取り寄せ、執拗(しつよう)なまでに日左衛門に与えさせた。


「これを飲め。肺を鎮める特効の薬だ」


 届けられる薬はどれも苦く、日左衛門の細い喉を焼き、時には胃を荒らして激しい吐き気を催させた。


 主人は医者に「咳を止める術(すべ)」を問い詰め、ある時は「喉を焼く強い酒を飲ませれば麻痺するのではないか」とまで常軌を逸したことを口にし、老女から「それでは若君の御命が持ちませぬ!」と必死に諌められる始末であった。


 いかに獰猛な猟犬であっても、その手一つで完璧に調教し、縦横無尽に平伏させてきた名高き「犬飼」としての自負が、主人にはあるのだろう。命ある獣を統べ、お家の芸として極めてきた男だからこそ、己の血を引く息子の、たかが「咳」一つすら自分の命令(しつけ)で制御できぬという理不尽に、人知れず狂わされているのだ。


 その歪な執着が、日左衛門をさらに追い詰めていく。


 辰は、ますます痩せ細っていく主の背中を見つめながら、己の健やかな胸に手を当てた。主人が血眼になって探し求めている「咳をせぬ身体」は、今、目の前の自分の内側に、当たり前のように存在している。


 この無為な健やかさを、日左衛門様に分け与えることが叶うならば。


 届かぬ薬石(やくせき)の山を眺めながら、辰は痛切なまでの渇望に駆られていた。


 お目見えの日が、刻一刻と迫っていた。


 庭の蝉時雨(せみしぐれ)は勢いを増し、屋敷中がその羽音に急かされるように、殺気立った準備に追われている。


その日の訓練も、日左衛門が過呼吸に近い咳き込みで意識を失いかけ、打ち切りとなった。主人が苦々しげに立ち去り、雪乃もまた、新たな薬の調合のために老女たちを引き連れて奥へと下がった。

 

 張り詰めた空気が残る奥座敷には、横たわる日左衛門と、その枕元にぴったりと張り付く女房、そして座敷の隅にひっそりと控える辰だけが残された。

 

 女房は、油断なく刺すような監視の目を辰に向けている。辰を若君の視界にすら入れたくないという、強固な拒絶の意志だった。

 

 しかし、その静寂を破ったのは、日左衛門の弱々しい声だった。

 

「……兄者」

 

 名を呼ばれ、辰はわずかに顔を上げる。日左衛門は横になったまま首を巡らさせ、辰の姿を探しているようだった。女房の眉が不快げに跳ね上がる。

 女房は日左衛門の狭い視界をさらに遮るように身を乗り出し、彼を宥めにかかった。

 

「いけません、若君。お体に障ります。どうぞそのまま、今は目を閉じてお休みなされませ。わたくしが、ずっとお側に……」

「……兄者、どこにいるのです、兄者……そばに、そばに来てください、兄者……」

 

 女房がいくら宥めても、日左衛門は譫言のように、兄者、兄者と繰り返すばかり。


 ここで女房が日左衛門の願いを頑なに拒めば、かえってその心を乱し、息までも乱しかねぬと、そう考えたのか。女房は悔しげに唇を噛み締め、辰を睨めつけた。

 

「……ならば、冷やし水を取りに参ります。その間だけ、若君のお側を許します。ゆめゆめ、余計な動きをなさるな」

 

 女房は辰を威嚇しながら立ち上がると、まるですぐに戻るという圧をかけるように、わざと大きな音を立てて部屋を退出していった。


 蒸し返るような昼下がり、一時の静寂。


 奥座敷には、横たわる日左衛門と、その傍らで団扇(うちわ)を動かす辰の二人だけが取り残される。


「……兄者」


 日左衛門が、力なく呟いた。その顔は、一月前よりも一回り小さく削げ、肌は不気味なほどに白い。彼は天井を虚ろに見つめたまま、独り言のように言葉をこぼした。


「……咳を、殺す術はないのでしょうか。父様には、気を引き締めよと叱られるばかりで……。でも、いくら苦い薬を飲んでも、何の効き目もないのです。喉の奥に、どうしても、忌々しい熱が迫り上がってくるのです。それを飲みくだそうとしても、胸が張り裂けそうになって……」


 日左衛門の細い指が、胸元の衣をぎゅっと掴む。


「お城へ行けば、犬たちがいる。叔母上様や、若君、姫君も。……楽しみだった。けれど、今は……。お城へ行くのが、恐ろしい。わしが咳をひとつするたびに、母さまの顔から血の気が引いていくのが、何より恐ろしい……」


 日左衛門の目から、一筋の涙が耳元へと流れていった。


「……どうすれば、良いのだろう。この、呪われた身体は」


 日左衛門の絶望が、辰の胸にも落ちる。そして、何かが音を立てて砕け散った。


 辰は言葉を返してはならない。辰は、この家の「控え」であり、影であり、声を持たぬ獣であるべきだ。あの銀狼のように。


 だが、目の前で命を削りながら「答え」を求めているこの幼い主君を、これ以上、沈黙で突き放すことはできなかった。

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