妻の拒絶
一歩、後ずさる。
このままこの場を立ち去り、何も聞かなかったことにしたかった。
けれど、脳裏に浮かぶのは、枯れた喉で「母さまが泣いていた」と、己の苦しみよりも母の涙を案じていた日左衛門の姿だ。あの子が、痛む体で必死に筆を走らせた想いだけは、ここで握りつぶしていいものではない。
辰は、震える指先で懐から文を取り出した。
声をかける勇気はなかった。今の雪乃の目に自分が映れば、彼女をさらに狂わせ、日左衛門の優しささえも、怨みに変えてしまうかもしれない。それでは、あまりにやるせない。
辰は息を殺し、極限まで気配を消して、障子の隙間にその文をそっと差し込もうとした。ちょうど、その時。
廊下の先から、床板をきしませる重い足音が近づいてくる。
――……誰か来る
辰は手にした手燭を掌で覆い、迷わず濡れ縁から夜の庭へと飛び出した。着地の音を殺し、太い松の木陰に身を寄せる。
その足音が雪乃の座敷の前に差し掛かった瞬間、あれほど激しかった雪乃の泣き声が、ぴたりと止んだ。
まるで、恐ろしい獣の気配を察した小鳥が、息を殺して固まったかのような、異様な、拒絶の静寂。
辰は木陰から顔を出し、目を凝らす。障子の前に佇む影の正体を見極め、はっと息を呑んだ。
――……あの男だ
銀狼屋の主はしばし、障子の前で静止していた。手にした灯が、白々(しらじら)と障子を照らしている。雪乃と老女は来訪者の存在に気づいているはずなのに、ただ重苦しい沈黙だけが場を支配していた。
主人が障子に手をかけようとした瞬間、障子が音もなく開く。そこに立ち塞がったのは、灯を背負い、鬼のような凄みを湛えた老女であった。
「……何用でございますか、旦那様」
低く、地を這うような声だった。主人は一瞬、気圧されたように動きを止めた。
「……雪乃の様子を見に来た。それと、日左衛門の容体も……」
「奥方様は、先ほどようやく寝入られたばかりにございます。若君も、奥の間で御医師の薬が効き、今は夢の中にいらっしゃいます」
老女は一歩も引かない。その体は、愛娘と若君を外敵から守る盾そのものであった。
「……少し、顔を見るだけだ。通せ」
「なりませぬ。旦那様のお顔をご覧になれば、奥方様は再び、あのお労しい光景を呼び起こしてしまわれましょう。……それでも、と仰せになりますか」
主人の指先が、障子の桟をきりりと鳴らした。
こちらの背を向ける、その表情は見えない。だが、木陰から伺う辰には分かった。主人は怒っているのではない。老女の――否、その向こうにいる雪乃の拒絶に、深く打ちのめされているのだと。
当主としての差配が、父親としての不器用な慈愛が、この奥向きではただの「非道」としてしか受け取られない。その孤立無援の痛みが、男の背をわずかに微動させていた。
「……明朝、また来る」
主人はそれだけ絞り出すと、踵を返した。
老女はその背を見送ることなく座敷に戻り、障子をぴしゃりと閉じた。
「……日左衛門。お前が立たねば、この家は、雪乃は……お前の母はどうなるのだ」
数歩歩いたところで、主人はふと足を止め、廊下の先に蟠る闇を見つめて拳を握りしめた。彼は誰に宛てるでもなく、震える声でそう呟いた。
銀狼屋を背負う重圧と、壊れていく妻を救うには病弱な息子を強大に育てるほかないという、ねじれた父親の切実さが、その短い呟きに血を吐くように滲んでいた。
静寂が戻った庭で、辰は灯を覆っていた手をそっと退けた。
手燭の小さな炎が、再び夜を頼りなく照らす。
――……ここの主ですら、入れてもらえないのか
懐にある日左衛門の文が、鉛のように重く感じられた。
辰は忍び足で再び座敷に近付くと、障子の隙間から、畳の端に白い紙をわずかに滑り込ませた。
それから、すぐに踵を返した。手燭を拾い上げると、揺れる炎が再び辰の影を壁に長く映し出す。
辰は冷え切った回廊を、何かに追い立てられるように、一心不乱に駆け抜けた。
雪乃の嘆きが、耳のうちで木霊している。
――辰の父さまは、寅の字だ
そう叫びたかった。しかし、それは叶わない。きっと、雪乃は信じないだろう。名もなき女の不義理と断じるに違いない。辰の母でさえ、願っても信じきれなかったのだから。
それでも、辰だけは信じねばならない。
――あの男は日左衛門の父さまだ。辰の父さまじゃない
自室へ戻る廊下で、辰は激しく脈打つ己の鼓動を感じていた。
あまりに健やかで、あまりに力強い、この鼓動。
それが、暗い奥座敷で死を待つように横たわる日左衛門への、そして彼を愛しすぎるがゆえに狂っていく雪乃への、消えない罪悪感のように響き続けていた。
庭では、夜になっても蝉の声が微かに尾を引いている。
湿った夏の夜風が、辰の頬を冷たく撫でて通り過ぎていった。




