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月兎取月  作者: 銀ねも
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母の想い

 

 老女が「滅相もございませぬ、姫様」と必死になだめるが、その声さえも激しい戦慄わななきに震えていた。


 障子の一枚隔てた向こう側で、辰は石のように立ち尽くしている。


 日左衛門は、母が泣くのは自分のせいだと思い、無理をおしてこの文をしたためた。けれど、雪乃もまた、息子が苦しむのは己の呪われた質のせいだと、自分を責めさいなみながらいている。

 互いを想う情愛が、皮肉にも互いを傷つけ、深みに追いやっていく。その救いのないすれ違いは、あまりに切なかった。


ーー……やはり、今、渡さねば


 このままでは、二人は己の愛に焼き尽くされてしまう。

 辰はそう決心し、辰は音もなく膝をつく。障子に指をかけようとしたその時。老女の、裂帛れっぱくの気合すらこもった決然たる声が届いた。


「……姫様。このままでは若君の御命おんいのちが持ちませぬ。いっそ、御台みだい様へ文を出されてはいかがでしょうか」 


 雪乃の嗚咽おえつが、ぴたりと止まった。


「……お姉様に?」

「左様でございます。御台様は、姫様をことのほか慈しんでおいでです。お目見えの儀、若君の御体裁ごていさいが整うまで今しばらくの猶予をいただけるよう、御屋形おやかた様へおり成しを願うのです。さすれば、旦那様も……」

「……なりませぬ、ばば」


 雪乃の声は、震えながらも断固としていた。


「そんなことをすれば、旦那様はどう思われる。妻が実家の威光を借り、夫の差配をくつがえしたとなれば、旦那様は二度とこの銀狼屋でおもてを上げられなくなります。それは、それだけはなりませぬ。私は……私は、この家に嫁いだ女なのです」


 雪乃の言葉は、自分自身に言い聞かせる呪文のようだった。


「旦那様が仰る通り、あの子は銀狼屋の嫡男ちゃくなん。いつまでも私の腕の中に隠しておくわけにはいかないの……。たとえ、あの子の胸が焼けつくことになろうとも」


 暫しの間、老女は言葉を失っていた。雪乃に強いられる悲壮な覚悟を前にして、かける言葉もないのだろう。


「おいたわしや、姫様……」


 老女の影が、雪乃の影を包み込むように重なる。雪乃は老女に抱かれ、わらわのようにすすり泣いていた。やがて嗚咽は次第にぎ、あたりはしんと静まりかえる。


 不意に、雪乃が低く、湿り気を帯びた声で呟いた。


「……ねえ、ばば。あの子を見ていて、思わない? ……あの、辰という子を」


 辰の心臓がどくりと跳ねた。雪乃の声調には、もはや抑揚というものがなかった。


「あの子は、旦那様が私に万一のことがあった時のためにと、端女はしために産ませた控え……なのに、どうして」


 畳をきりりと掻きむしる、凄惨な音がした。


「どうして、あの子だけがあんなに健やかなの。冬の寒さにも、夏の盛りにも、一度として揺らぐことなく……。私の血が、あの子を病ませているというの? 私が命を削る思いで産み落とした日左衛門が、あんなに、あんなに苦しんでいるというのに。あの子は平然と、まるで引っくり返りのたうつ虫を眺めるような目で、日左衛門の悶絶を見下ろしていた!」


 雪乃は慟哭どうこくする。どす黒い情念が滴る、おどろおどろしい叫びであった。


「辰のように、丈夫な体に産んであげられたら。……いっそ、あの子のその健やかなを、中身をすべて日左衛門に分け与えられたら……! どこの馬の骨とも知れぬ女の血を引く子が平然と息をし、私の愛しい子があえぎ苦しんでいるなど……ああ、神仏はなんと残酷なことをなさるのか!」

「姫様、滅相もございませぬ。それは……それを仰っては」


 老女の声に明らかな怯えが混じるのも構わず、雪乃は続けた。


「山伏は言いました。あの子の存在が、日左衛門の助けになると。病を癒すのだと。……けれど、私にはわからない。あの子のあの忌々しいほどの息災が、日左衛門の『蒲柳の質』を、より惨めに際立たせているようにしか思えない……っ!」


 雪乃の絶叫が、伽藍がらんの如き夜の静寂を切り裂く。それはもはや悲しみではなく、祈りの形をした呪詛であった。雪乃は激しく咳き込み、老女はただひたすら、その背をさすり続けていた。


 辰はその壮絶な影絵を、ただ立ち尽くして眺めていた。


ーー辰は知っている。自分がこの家にとって何者なのか


 懐の文を強く、胸に押し当てる。


 この文を渡せば、雪乃の苦しみは癒えるのか。それとも、日左衛門の優しさが、彼女の罪悪感をさらに煽り、さらなる奈落へ突き落とすのか。


 暗闇の中で辰は、己がこの優しい母親を、その健やかさゆえに内からむしばむ「病」であるという逃れられない運命を、まざまざと突きつけられていた。

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