表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月兎取月  作者: 銀ねも
44/45

慟哭

 足早に廊下を戻りながら、辰は己の鼓動の強さに、今さらながら愕然がくぜんとする。


 どれほどののしられても、どれほどうとまれても、自分の心臓は図々しいほどに力強く、温かい血を全身に送り続けている。その健やかさこそが、今のこの家では日左衛門をむしばむ病に等しいのだと、辰はまざまざと突きつけられていた。

  奥座敷に戻ると、日左衛門は蒼白な面にかすかな笑みを浮かべて礼を言った。

 苦労して身を起こし、一筆ごとに命を削るようにしてふみをしたためると、震える手で丁寧に畳み、辰に託した。


 「これを……母さまに。……今、届けてほしい。わしの身を案じられ、きっと、眠れぬ夜を過ごしておいでだろうから」


  日左衛門は「今」を強調した。夜が明けるのを待つべきだと言える者は、この場にはいない。


 辰は日左衛門の文を懐に入れ、再び暗い廊下へと踏み出した。奥座敷に控えていた女房が、衣擦れの音を立てて辰の後に続く。

 彼女は廊下の板敷きに膝をつくと、手燭てしょくをひったくるように掴み、立ったままの辰の足元へ、それを無造作に突き出した。


 「……若君がこれほどに仰せなのです。不束ふつつかな貴方でも、道くらいは見失わずに歩けるでしょう?」


 低い位置から放たれる声には、隠しきれないさげすみが混じっている。辰が腰を落として手燭を受け取ろうとするのを、女房は濁った眼差しで見据え、捲し立てるように道順を告げた。


 「この先、突き当たりを右へ。三つ目の角を左に曲がれば、奥方様の居所へと続く回廊に出ます。……せいぜい、迷うて若君の御心を無下にせぬよう。この暗がりですもの、身の程を知らぬ足が、どこへ迷い込むか分かったものではございませんしね」


  女房はそれだけ言い捨てると、辰の返事も待たずに座敷へと消えた。

 一人残された辰の手の中で、手燭の炎が心細げに揺れている。辰は教わった通りに歩を進めた。


 板張りの廊下に、辰の足音だけが鋭く、孤独に響いていた。


 ゆらめく灯火ともしびで足元の暗闇を払いながら、辰は思う。


 周囲に当たり前のように慈しまれ、愛を疑わぬ日左衛門。その傲慢なまでの無邪気さに触れるたび、己の境遇との差に胸がうずき、惨めさに目を逸らしたくなるのは事実だ。


 されど、あれほど日左衛門を寵愛していた主人が、てのひらを返したように息子を追い詰め、その心身を削る様を間近で見ていると、はらわたが煮えくり返るような心地がした。屈託のない笑みを目障りだと思うのに、それが消え失せ、打ちのめされる姿を、「いい気味だ」などとは、どうしても思えなかったのだ。


  ようやく辿り着いた雪乃の居所の前には、控えているはずの女房たちの姿がない。老女が、雪乃の乱心に近い嘆きを案じ、人払いをしたのであろう。


 奥の部屋から、雪乃の途切れがちな嗚咽おえつが漏れていた。


 ーー……これ以上近づけば、灯りで気づかれる


  辰は手燭の火を消さぬまま、廊下の隅にそっと置いた。


 遠ざかる微かな光が、自分の影を長く、廊下の先へと伸ばしていく。背後に残した灯りが、まるで自分を監視する誰かの視線のように感じられた。


  辰は己の影から目を背け、忍び足で障子に近付く。

 闇の中、障子のさんの白い線を辛うじて頼りに、中の気配を判ずるべく耳を澄ませた。

  室内から、老女の低い声が聞こえてくる。


 「……姫様、それほどにお泣きあそばしては、お体に障ります。……旦那様は、あまりに、あまりに非道ひどうなことを……」


  老女の声には、もはや隠しきれぬ殺気にも似た憤りが混じっていた。


 「蒲柳ほりゅうの質を抱えた若君に、あのような無体な仕打ち。……お家のため、銀狼屋の面目のためと仰せなれど、そのために大切なるご嫡男をこの手で損ねて、何が家門でございましょう。ご自身の面子めんつを守るために、我が子の命を削り取って、それで満足とされるなど、もはや人の親のなすわざではございませぬ」


 老女は、雪乃の背を摩りながら、血を吐くように続けた。


 「……若君を地獄へ追いやり、姫様をこれほどまでに辱めて、何が銀狼屋の当主か。わたくしには、あの方がお家の守護神ではなく、家を滅ぼす禍つ神に見えてなりませぬ」


  老女の烈しい言葉が室内に響く。本来ならば、あるじを貶めるその不敬を、雪乃は厳しく咎めねばならぬはずであった。

 だが、雪乃は力なく首を振るばかりで、老女の言葉を遮る気力すら残っていない。


 「……ああ、ばば。私は、どうすればよいの? もう、わからないの。私が……私が、あの子を丈夫に産んであげられなかったばかりに。私のこの、呪われた質を継がせてしまったばかりに、あの子はあんな地獄を見なければならないなんて……!」 

「姫様、そのような……」


  老女の慰めを遮り、雪乃はむせび泣く。


 「旦那様の仰る通りだわ。銀狼屋に、病弱な世継ぎなど不要なのです。あの子が苦しむのは、すべて私の罪。……私が、あの子を死出の淵へ追いやっているも同然なのよ……!」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ