慟哭
足早に廊下を戻りながら、辰は己の鼓動の強さに、今さらながら愕然とする。
どれほど罵られても、どれほど疎まれても、自分の心臓は図々しいほどに力強く、温かい血を全身に送り続けている。その健やかさこそが、今のこの家では日左衛門を蝕む病に等しいのだと、辰はまざまざと突きつけられていた。
奥座敷に戻ると、日左衛門は蒼白な面に微かな笑みを浮かべて礼を言った。
苦労して身を起こし、一筆ごとに命を削るようにして文をしたためると、震える手で丁寧に畳み、辰に託した。
「これを……母さまに。……今、届けてほしい。わしの身を案じられ、きっと、眠れぬ夜を過ごしておいでだろうから」
日左衛門は「今」を強調した。夜が明けるのを待つべきだと言える者は、この場にはいない。
辰は日左衛門の文を懐に入れ、再び暗い廊下へと踏み出した。奥座敷に控えていた女房が、衣擦れの音を立てて辰の後に続く。
彼女は廊下の板敷きに膝をつくと、手燭の柄をひったくるように掴み、立ったままの辰の足元へ、それを無造作に突き出した。
「……若君がこれほどに仰せなのです。不束な貴方でも、道くらいは見失わずに歩けるでしょう?」
低い位置から放たれる声には、隠しきれない蔑みが混じっている。辰が腰を落として手燭を受け取ろうとするのを、女房は濁った眼差しで見据え、捲し立てるように道順を告げた。
「この先、突き当たりを右へ。三つ目の角を左に曲がれば、奥方様の居所へと続く回廊に出ます。……せいぜい、迷うて若君の御心を無下にせぬよう。この暗がりですもの、身の程を知らぬ足が、どこへ迷い込むか分かったものではございませんしね」
女房はそれだけ言い捨てると、辰の返事も待たずに座敷へと消えた。
一人残された辰の手の中で、手燭の炎が心細げに揺れている。辰は教わった通りに歩を進めた。
板張りの廊下に、辰の足音だけが鋭く、孤独に響いていた。
ゆらめく灯火で足元の暗闇を払いながら、辰は思う。
周囲に当たり前のように慈しまれ、愛を疑わぬ日左衛門。その傲慢なまでの無邪気さに触れるたび、己の境遇との差に胸が疼き、惨めさに目を逸らしたくなるのは事実だ。
されど、あれほど日左衛門を寵愛していた主人が、掌を返したように息子を追い詰め、その心身を削る様を間近で見ていると、腸が煮えくり返るような心地がした。屈託のない笑みを目障りだと思うのに、それが消え失せ、打ちのめされる姿を、「いい気味だ」などとは、どうしても思えなかったのだ。
ようやく辿り着いた雪乃の居所の前には、控えているはずの女房たちの姿がない。老女が、雪乃の乱心に近い嘆きを案じ、人払いをしたのであろう。
奥の部屋から、雪乃の途切れがちな嗚咽が漏れていた。
ーー……これ以上近づけば、灯りで気づかれる
辰は手燭の火を消さぬまま、廊下の隅にそっと置いた。
遠ざかる微かな光が、自分の影を長く、廊下の先へと伸ばしていく。背後に残した灯りが、まるで自分を監視する誰かの視線のように感じられた。
辰は己の影から目を背け、忍び足で障子に近付く。
闇の中、障子の桟の白い線を辛うじて頼りに、中の気配を判ずるべく耳を澄ませた。
室内から、老女の低い声が聞こえてくる。
「……姫様、それほどにお泣きあそばしては、お体に障ります。……旦那様は、あまりに、あまりに非道なことを……」
老女の声には、もはや隠しきれぬ殺気にも似た憤りが混じっていた。
「蒲柳の質を抱えた若君に、あのような無体な仕打ち。……お家のため、銀狼屋の面目のためと仰せなれど、そのために大切なるご嫡男をこの手で損ねて、何が家門でございましょう。ご自身の面子を守るために、我が子の命を削り取って、それで満足とされるなど、もはや人の親のなす業ではございませぬ」
老女は、雪乃の背を摩りながら、血を吐くように続けた。
「……若君を地獄へ追いやり、姫様をこれほどまでに辱めて、何が銀狼屋の当主か。わたくしには、あの方がお家の守護神ではなく、家を滅ぼす禍つ神に見えてなりませぬ」
老女の烈しい言葉が室内に響く。本来ならば、主を貶めるその不敬を、雪乃は厳しく咎めねばならぬはずであった。
だが、雪乃は力なく首を振るばかりで、老女の言葉を遮る気力すら残っていない。
「……ああ、ばば。私は、どうすればよいの? もう、わからないの。私が……私が、あの子を丈夫に産んであげられなかったばかりに。私のこの、呪われた質を継がせてしまったばかりに、あの子はあんな地獄を見なければならないなんて……!」
「姫様、そのような……」
老女の慰めを遮り、雪乃は咽び泣く。
「旦那様の仰る通りだわ。銀狼屋に、病弱な世継ぎなど不要なのです。あの子が苦しむのは、すべて私の罪。……私が、あの子を死出の淵へ追いやっているも同然なのよ……!」




