根の役目
「……冷やし水を持って参りました。さあ、若君」
障子を開けて戻ってきた宿直の女房は、畳の上に座り直している日左衛門の顔を見て、小さく息を呑んだ。女房の目から見ても、さっきまでの死相のような青白さが消え、微かな生気が戻っているらしい。
女房は束の間の戸惑いの後、辰をねめつけた。用が済んだなら、早く下がれ。そう言いたいのだろう。
辰が拝礼して引き下がろうとした、その時。日左衛門が辰の袖をつかんで引きとめた。面食らう辰と女房をよそに、日左衛門は老女を呼び寄せ、こう言い放った。
「ばば、今宵は兄者に添い寝をして頂く。良いな?」
「若君、それはなりませぬ!」
女房が鋭い声を上げたが、日左衛門は首を横に振る。
「兄者がそばにいてくださると、胸の痛みが引くのだ。頼む、ばば」
日左衛門は切々と訴える。それは、若君の言い渡しではなく、幼子の我儘でもない。病と闘う若君の、必死の懇願だった。
老女は困惑しつつも、消耗した若君の心を安らかにする
ことを優先した。老女の差配により、その夜、辰は日左衛門のそばへ侍ることを許された。日左衛門はたいそう喜んだ。その夜、辰と日左衛門は身を寄せ合い、安らかに眠った。
これを機に、辰と日左衛門は、切っても切り離せぬ仲となった。その一方で、辰への風当たりは俄に強くなった。
女房たちはそもそも、若君が主人から賜った『ご利益のある御守り』を、不浄のものとして忌み嫌っている。それなのに、若君がその「御守り」にすぎないはずの辰を片時も手放そうとしないのだ。反感を買わぬはずがない。
女房らは辰に憎悪の目を向けた。辰に与えられる食事は冷え切った残飯に変えられ、彼が使った椀は「穢れが移る」と庭の隅に放り出された。廊下ですれ違う際、女房たちは一斉に袖で鼻を覆って足早に去り、背後でこれみよがしに辰を罵った。夜になれば「若君の身代わりならば、この程度の労役は当然」と、夜通しの井戸組や薪割りを押し付けられることすらあった。
女房たちは、辰に嫌がらせをしたつもりだったのだろう。ところが、その程度のことで、辰は痛痒を覚えなかった。
もとより、人並みの扱いなど期待していない。ただ、己のこの境遇を、日左衛門にだけは決して知られぬよう、細心の注意を払った。お目見えという一大事を前に、このような瑣末事にまで心を煩わさせてはならないと思った。日左衛門が辰の待遇を知れば、きっと驚き、憤るだろうから。
ある夕暮れ。異変を聞きつけて奥座敷を訪れた雪乃は、我が子が母である自分ではなく「控えの子」の温もりばかりを求める姿に、言葉にならぬ衝撃を受けたようだ。
雪乃の寂しげな横顔を見て、老女も胸を痛めたのだろう。人目を忍んで日左衛門の側に歩み寄ると、皺の刻まれた手を若君の華奢な肩に置き、噛んで含めるように苦言を呈した。
「若君、せっかく母君がお越しになられたのですよ。あのお労わしいお顔を御覧になったでしょう。母君の御心を、どうか思いやって差し上げてくださいませ。辰にばかり心を預け、お縋りになっては、母君のお立場がございませぬ」
日左衛門は返事をしなかった。しかし、華奢な肩がびくりと跳ねるのを、辰は見逃さなかった。
それでも、日左衛門は膝の上で小さな拳を白くなるほど握りしめ、老女の痛切な眼差しから頑なに顔を背けていた。
己の振る舞いが母を悲しませていることを、日左衛門は察しているだろう。母を悲しませることを、日左衛門は望まない。それでも、日左衛門はもう、母に甘えてはいられないのだ。
お目見えの日まで、残らされた時間はほんの僅か。
母の愛に縋っていても、咳は止められない。今の彼にとって、お目見えの時を、咳に呑まれずに乗り越えること。それが何よりの大事になのである。
それもこれも、母を思うが故なのだろう。
国守の前で醜態をさらせば、母に生涯消えぬ最悪の恥をかかせることになる。日左衛門は主人より刷り込まれてきた。
母の心を守り、救うためには、母の意に背いてでも、「兄者」の手を離すわけにはいかぬのだ。
日左衛門は涙を堪えるように奥歯を噛み締め、頭を振った。そうして、老女の諫言をを拒絶していた。
日左衛門は、ただひたすらに、辰が側にいることだけを頑なに求めた。
周囲の大人たちには、我が儘で薄情な拒絶に見えているかもしれない。だが、日左衛門は必死なのだ。これは彼にとって、負けられない戦いなのである。
その健気な心中を正しく理解しているのはきっと、今は自分だけなのだろうと、辰は思うのだった。
日左衛門が辰に傾倒すればするほど、日左衛門を取り巻く人々は辰を疎み、邪険にした。
だが、辰の心は毛ほども動じなかった。この小さな主君の「根」になれるなら、いかなる仕打ちも、吹き抜けるそよ風に過ぎなかった。
お目見えの前夜。日左衛門は幼子のように辰に添い寝を強請り、辰の温もりに包まれて、深い眠りに落ちた。ただ一人の「兄」の体温だけを頼みの綱として、日左衛門は息をする。
辰は、上下する小さな胸の鼓動を掌で感じながら、一晩中、その「根」を支え続けるように一睡もせず祈り続けていた。
そして、ついにお目見えの日を迎えた。
城へ上がる正装に身を包んだ日左衛門は、その重みに青褪めながらも、毅然とした態度を保っていた。これには主人も文句のつけようがないようだった。
しかし、大人たちの目が離れた、ほんの一時。日左衛門は辰にだけ、幼い素顔を曝け出す。
「……精一杯、やってきます」
心細げに辰を見上げる。重々しい装束の内で、日左衛門の小さな身体は、硬く強張っている。辰の呼吸法を必死になぞろうとしているのは分かったが、その真面目さが、かえって幼い身を追い詰めているようで
見ているだけで胸が締め付けられた。
「でも、本当は、怖いのです。兄者……言ってくれませんか。日左衛門なら、大丈夫だと」
辰は、主君の小さな手を力強く握りしめた。その冷え切った指先に、己の体温のすべてを分け与えるように。
「……若君なら、大丈夫です。決して、お独りではありませぬ。……咳が出ぬよう、ここで一心に祈っております」
大丈夫だ、と。口にしながらも、辰の胸の奥には、若君とは異なる暗い不安が渦巻いていた。もしあの呼吸法が、城の威圧感の中で通じなかったら。もし無理に堪えようとして、細い呼吸の緒が切れてしまったら。
――いっそ、国守様の前で大いに咳き込み、恥をさらしてしまえばいい
銀狼屋の体面など、この際どうでもよかった。そんなもののために、若君が無理をして、その小さな身体を内側から壊してしまうことの方が、辰にとってはよほど恐ろしかった。
だが、そんな本音を漏らせば、武家の嫡男として決死の覚悟で戦おうとしている若君の矜持を傷付けてしまう。だから辰は、ただ揺るぎない「根」として、日左衛門を励ますしかなかっま。
日左衛門は一度だけ深く頷き、主人の後を追って屋敷を後にした。日左衛門にとって、その一言は神仏の加護よりも確かな、恐怖の暗闇を照らす唯一の灯火だったのだ。それほどまでに、彼はこの「兄」の言葉に、己の命のすべてを賭けていた。




