静寂の牢獄
その日から、奥座敷は静寂の牢獄と化した。
夏の熱気が、締め切った障子の内にじっとりと蔓延する昼下がり。
日左衛門は、城へ上がる際の正装――糊のきいた重い麻の裃を纏い、畳に座していた。裃の重さに身を強張らせるその正面、わずか一尺の距離に、主人が盤石のごとく構えている。
雪乃は、夫の隣にひっそりと控えていた。
「……三刻。一指も動かすな。呼吸は等しく。何があろうと、音を漏らすな」
主人の低い声が、重苦しく響く。日左衛門は、青ざめた顔で小さく頷いた。
辰は、少し離れた柱の影に座すことを命じられていた。「御守り」をそばに置くことを日左衛門に許したのはせめてもの温情なのやもしれぬ。
一刻、また一刻と、砂が落ちるように時間が過ぎる。
滴る汗が、日左衛門の額からこめかみへ、そして首筋へと這う。麻の布地が肌を刺すが、身じろぎひとつ許されぬ。
主人は時折、雪乃の横顔を流し見た。
主人は、雪乃を「息子の変調をはかるものさし」としていた。同じ病を抱え、その苦しみを知り尽くしている母親ならば、誰よりも早く限界の兆しを悟るはずだと。雪乃が血相を変え止めに入れば、それは日左衛門が限界に達した証左となる。
やがて、日左衛門の喉が、ぴくりと蠢いた。
蒲柳の質を抱える腑が、夏の湿りに悲鳴を上げ始める。喉元をせり上がる病みの塊。一度でも吐き出せば、それは連鎖して激しい咳き込みとなる。
日左衛門は、それを執念で飲み下した。
顔色が変わる。喉がひきつる。細い肩が、小刻みに震え出す。
それでも、声は漏らさぬ。
それでも瞳が潤み、視界が滲む。喉の震えを腹の底へ押し殺す。顔面は鬱血したかのように赤らみ、拳を握る白い指先が震えていた。
苦しい。助けて
声にならない悲鳴が、日左衛門の瞳から溢れ出す。
雪乃は身を乗り出し、日左衛門のもとへにじり寄ろうとする。我が子の苦痛に共鳴するかのように、彼女の顔もまた歪んでいた。
しかし。
「……ならぬ」
主人の冷徹な一言が、雪乃を縫い止めた。主人は、日左衛門の苦悶を承知の上で、あえて突き放している。
「……あ……、ああ……」
雪乃は言葉にならない悲鳴を漏らし、口元を両手で押さえて蹲った。
主人は、足元で震える妻の絶望を一瞥した。その瞳がわずかに揺らぐ。しかし、それは瞬きの間に消え失せていた。
次いで、冷ややかな目を日左衛門に向ける。母の無残な姿を、あえて日左衛門の網膜に焼き付けるように言葉を重ねる。
「日左衛門。見よ、お前の不甲斐なさが母をこれほどまでに苦しめている」
その冷たい声が、日左衛門の白濁しかけた意識を無理やり引き戻す。主人は、逃げ場を失った息子へ、最後の一太刀を浴びせるように告げる。
「お前がここで咳をすれば、御台様のお顔に泥を塗ることになる。さすれば、御台様の妹御であるお前の母が、礼儀を知らぬ、不甲斐なき子を育てたと世に謗られよう。……それでも、無様に吐き出すか?」
その言葉は、いかなる鞭よりも深く幼子の心を打った。
最愛の母の名を出され、日左衛門はなおさら、喉の奥を無理に封じ込める。
喉が焼け付く。吐き出せぬ苦痛が胸を突き上げ、内側から押し潰す。頬は引き攣り、瞳からは意思に抗って涙が溢れ、畳に点々と暗い染みを落とした。
それはもはや稽古ではない。自らを内から蝕む、自傷の所業に等しかった。
「……まだだ。呼吸を乱すな。音を漏らすな」
主人の声は、地を這うように低い。
日左衛門の喉仏が、ひきつけを起こしたように跳ねる。
一度でも口を開けば、すべてが崩れる――そのことを、彼は本能で知っていた。奥歯を噛み締め、喉の奥を閉ざし、耐える。
日左衛門の意識が、薄氷のようにひび割れていくのが、目に見えるようだ。
それでも、日左衛門は耐えた。
彼の見つめる先には、一心に祈る母の姿がある。代われるものなら代わってやりたい。彼女の沈黙はそう叫んでいる。
だからこそ、倒れることは許されない。自分のせいで、母が頭を下げたことを、彼は気に病んでいる。
あの様な母の姿は、二度と見たくはない。その一念だけが、崩れゆく小さな身体を支えているのだろう。
「……動くな。銀狼屋の嫡男が、それしきの苦しみに屈するか」
主人が言う。もはやそれは教えではない。逃れられぬ呪縛であった。
小さな背が、音もなく激しく波打つ。水から引き上げられた魚が、必死に生を求めるようなその無残な姿を、辰はただ見つめることしかできない。
辰は、あまりにも易易と息をしている。日左衛門が命を削って守るその一息を、自分は何の苦もなく繰り返している。その健やかさが、今この瞬間、この小さな主への冒涜にすら思えた。
「……っ、…………ふ……」
日左衛門は死に物狂いで堪えている。しかし、もう、限界だった。
日左衛門の体が、大きくのけ反る。意識が途切れかける、その刹那――。
「時、至れり。……控えよ」
主人の声が落ちた。その瞬間、日左衛門は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。堰を切ったように、胸の内をそのまま吐き出すほどの激しい咳が溢れ出した。
「日左衛門! 日左衛門!」
雪乃がなりふり構わず駆け寄り、激しく震える小さな我が子を抱き寄せる。
主人はそれを一瞥したのみで、何も言わずに立ち去った。その背にあるものが、父としての苦渋か、あるいは職人の冷徹か――辰には判じかねる。
辰は、地に伏して咳き込む主の指先を、ただ見つめていた。白く、細く、折れそうな指が、血を滲ませるほどに畳を掻いていた。
庭では、蝉が狂ったように鳴き続けている。
逃げ場のない夏の熱が、血の匂いを孕んだ座敷を、容赦なく満たしていった。




