亀裂
その時だった。
「遊びではない」
低く、鋭い一声が落ちた。
奥座敷の空気が、凍りついたかのように静まり返る。
「これは銀狼屋の嫡男として、主君に忠誠を誓うための、極めて重き儀式である。粗相は万死に値する。……ゆえに日左衛門。城におる間、決して咳をしてはならぬ。身を揺らすことも、苦悶の表情を浮かべることも、一切許さぬ」
日左衛門は、きょとんとした顔で父を見上げた。
生まれてこの方、わがままを言っても、言葉を遮っても、ただ微笑んで頭を撫でてくれた父。その慈愛の記憶が、目の前の、己に無理を強いる冷徹な男と結びつかないのだろう。それはそうだ。この半年しか知らぬ辰だとて、そうだった。
「……でも、父様。ばばも母様も、苦しい時は我慢しなくてよいと。我慢をすれば、余計に胸が痛むのだと、いつも……」
日左衛門は全てを言い切れず、口を噤む。父の眉間に刻まれる皺の深さが、彼を萎縮させていた。日左衛門は途方に暮れた様子で、雪乃を見た。
言葉にせずとも、その顔は雄弁だ。
いつも、そう仰ってくださるでしょう?
そう言っている。
雪乃は、愛しい我が子の潤んだ瞳を受け止め、必死に夫の方へと顔を向ける。その唇が、何事か訴えようとわずかに戦き、開かれた。
「……旦那様。この子は、まだ……」
だが、主人は一言も発さず、鋭い眼光ひとつでそれを遮った。
夫の瞳にある、逃れられぬ宿命をその身に浴びた。
言葉よりも重い沈黙が、雪乃の喉を塞ぐ。言葉が引き千切られる。
日左衛門を庇おうとした母の手が、力なく畳へと落ちる。
雪乃は絶望を呑み込むように、深く、深く、畳の上に顔を伏せた。
辰は息を呑み、日左衛門の様子を窺った。
日左衛門は愕然としていた。
己を庇おうとして、母が叱られた。優しく高貴な母が、頭を下げさせられた。
その事実はどの怒声よりも鋭い楔を打ち込んだのだ。
自分を守ろうとした母の盾が無残に砕かれるのを目の当たりにし、日左衛門の瞳から甘えが消えた。
残ったのは、得体の知れない恐怖。そして、母を窮地に追いやってしまったという、底知れぬ罪悪感だろう。
「それは内の理だ!」
さらに追い打ちをかけるように、父の怒号が日左衛門を打ち据えた。
日左衛門の細い肩が大きく跳ねる。
雪乃は袖で口元を覆った。息を呑む音は、悲鳴そのものだった。
「御屋形様の前で、病に身を縒り、咳を撒き散らすなど、銀狼屋の恥さらしよ。病弱な犬飼など、緋ノ川には不要なのだ。お前のその一つ一つの咳が、この銀狼屋の面目を潰すと心得よ」
叩きつけるような言葉だった。
言葉は苛烈だが、その声はどこか切迫している。
「……不要と見なされれば、それで終いだ」
最後の一言は、ほとんど吐き出すようだった。
主人の瞳にあるのは、怒りというよりは、追い詰められた獣のような切迫だった。
雪乃は何も言わない。ただ、数珠を握る指だけが激しく震えている。
日左衛門は呆然としていた。先ほどまで胸の内に灯っていたであろう喜びの灯火が、踏み躙られ、消えてゆく。
じわりと、目頭に涙が浮かぶ。
日左衛門にとって、父とは世界のすべてを許してくれる温かな陽だまりであったはずだ。それが今、見たこともない恐ろしい牙を剥き、彼を食らおうとしている。守ってくれるはずの腕が、今は自分を拒む鉄柵に見えるのだろう。
「もはや、甘えは許されぬ」
低く、重く、父は畳み掛けるわ
「お前は銀狼屋の嫡男として、御館様の御前に座るのだ。できぬなら、その名はここに置いて去れ」
「……はい……」
日左衛門は、震える喉から辛うじて返事を絞り出す。涙を零すまいと、膝の上で白くなるほど拳を握りしめる。その姿は、あまりにも小さく、儚い。
その隣で、辰はただ、深く頭を垂れていた。
――辰は、丈夫だ。
どれだけ怒鳴られても、心臓が跳ねても、息は乱れない。胸が潰れることもない。そうでなければ、とうの昔に死んでいる。
――日左衛門は、違う
横になっていても、心臓は早鐘を打ち、息が乱れる。ともすれば、胸が潰れてしまう。
身心の苦痛に喘ぐ幼い主の隣で、己の健やかな五体が、分不相応なものとして、重く感じられた。
庭では蝉が狂ったように鳴いていた。
逃げ場のない熱が、じわじわと奥座敷を侵食してゆく。
誰も、この熱から逃れられぬ。




