悪い予感
半年が過ぎた。
日左衛門の蒲柳の質は相変わらずだ。
快方へ向かう兆しはなく、病臥と小康を繰り返す。祈りも、薬も、手向けられる手当も、すべては同じ場所を空虚に巡っているばかりだった。何ひとつ変わらぬまま、ただ季節だけが容赦なく巡る。
このままでよいのか。
誰も口にせぬその問いだけが、座敷の隅に澱のように溜まっている。それでも日左衛門だけは、小康がわずかに長引くことを「兄者の御利益」と信じて疑わなかった。
日左衛門は、変わらない。
辰を見れば顔をほころばせ、まるで疑いもなく「兄者」と呼び慕う。言葉を返さぬ辰を咎めず、ただ親しげに語りかけるその無邪気さは、辰を戸惑わせる。
――愛されて育てば、こうなるのか。それとも、こういう子だからこそ、愛されるのか
答えは出ない。ただ、胸に蟠っていたあのざらついた不快は、いつの間にか薄れていた。
代わりに残ったのは、うまく名のつかぬ感情だった。
この子は本来、このような薄暗い奥座敷ではなく、日の下にいるべきなのではないか。風の通る庭で、犬と戯れ、皆の慈しみに包まれながら、ただ笑っているべき存在なのではないか。
暗い土の中で芽吹くことのない種のような自分とは、あまりに違うのだと、認めざるを得なかった。
やがて季節は、重苦しい湿りを帯びた夏へと移ろっていた。
縁側の風鈴が、湿った風に揺れ、か細く鳴る。
このところ、日左衛門の容態は凪のように落ち着いていた。辰は日左衛門の傍らに侍り、そのとりとめもない話に静かに相槌を打つ。
それは、平穏な日常の光景であった。
しかし、この日の辰には、拭いきれぬ気掛かりがあった。
奥向きの女たちがいつになく忙しない。老女は表向き、にこやかに日左衛門の世話を焼いているものの、日左衛門の目が離れると、神妙な顔をしているのを辰は見逃さなかった。
――何か、よくないことが起こるのか
その予感は的中した。
廊下を軋ませる足音とともに、主人と奥方が揃って奥座敷を訪れたのだ。
日左衛門は笑顔を輝かせ、歓声を上げた。
「母様、父様! 来てくださったのですね!」
仔犬のようにはしゃぎ、両親を仰ぎ見る日左衛門。だが、辰は背筋が冷えるのを感じた。
目に入れても痛くないはずの愛息を前にして、両親の顔には一片の笑みもない。主人の表情は、研ぎ澄まされた刃のように険しく、奥方の面差しには、今にも崩れ落ちそうな悲壮が張り付いていた。
「日左衛門。折り入って話がある。こちらへ」
主人の声は、いつになく低く、硬かった。
日左衛門は辰に「なんだろう」と囁き、首を傾げる。病みがちな身に、床を離れて居住まいを正せと命じられることなど、これまで一度もなかった。
日左衛門は起き上がり、座した両親の前へ進み出る。
――控えの間にさがるべきか
許されるなら、今すぐにでもこの場を去りたかった。
辰にとって、この家特有の「仲睦まじさ」を特等席で見せつけられるのは、なかなかに堪える所業であった。疎外感という名の、鈍い痛みが胸を衝く。
辰は、救いを求めるように老女の様子を窺った。しかし、老女は血の気が引いた顔で唇を噛み締め、畳の目を凝視するばかりだ。
動くに動けない。辰は仕方なく、その場で居住まいを正した。
逃げ場のない夏の熱気が、重苦しく座敷に澱み始めていた。
奥方――雪乃は蒼白な面差しで数珠を握り、祈るように視線を落としている。その指先が、目に見えて震えていた。
辰が一目で気づくその異変に、母想いの日左衛門が気づかぬはずもない。
「母さま? いかがなされました? もしや、お加減が思わしくないのでは?」
雪乃がはっとして、顔を上げる。愁眉を寄せる息子へ微笑みを返そうとして、しかし唇は震え、歪に崩れた。今にも零れ落ちそうな感情を隠すように、慌てて袖を口元に寄せる。
「……大丈夫よ。ありがとう」
押し殺した声で、それだけを答えた。
日左衛門はなおも物言いたげな顔をしたが、主人が重々しく咳払いをしたことで、弾かれたように父の方へと向き直った。
「この度、緋ノ川の御屋形様より、お召しがあった」
主人は重々しく言い渡す。
「お前も七つ。近く城へ上がり、御屋形様にお目見えすることとなった」
「……お城へ?」
日左衛門の瞳がきらりと光り、頬が紅潮する。
「では、叔母上さまや若さま、姫さまにも、お会いできるのですか?」
日左衛門の声が、鞠のように高く弾む。
「もしや、城の犬たちにも……?」
犬をこよなく愛する日左衛門にとって、それは何より嬉しいことなのだろう。日左衛門は歓喜し、勢いよく辰を振り返る。
「すごい……兄者、すごいぞ! お城には、たくさんの犬たちがいるのです! 銀狼屋が手塩にかけて育てた、賢く勇ましい犬たちが! 父様、兄者も一緒に行けますか? 兄者、わしと一緒に、お城へ行きたいですよねっ?」
その声音は、純粋な歓びに満ち溢れていた。
病床の外にある世界を、ようやく手にできると信じて疑わぬ響き。
期待に満ちた、真っ直ぐな瞳が、辰の胸を鋭く刺した。
――行けるはずがない
辰は答えに窮し、深く頭を垂れた。
華やかな城門を潜り、国守の御前に並ぶ。そんな場所に、自分のような素性の知れぬ者が入り込む隙間などあるはずもない。
主人にとっても、雪乃にとっても、自分は奥座敷の隅に隠しておくべき「不浄」だ。もし自分が城へ上がれば、それは一家にとっての恥晒しであり、何より自分自身が、その「場違いな姿」を突きつけられて惨めな思いをするだけだ。
日左衛門の隣で、泥に塗れた石ころが転がるかのように、立ち尽くす自分。
想像するだけで、吐き気がするほどの疎外感が込み上げる。
辰は、主人の顔色を窺うことすらできず、ただ畳の目を見つめて沈黙を守った。




