間一髪
辰は、銀狼から逃げるように身を離し、来た道を引き返した。
左右の檻からは、脂じみた獣の臭いと、闇の奥で光る無数の眼差しが辰に絡みつく。
奥座敷の静けさが、遠い夢のように思える様相だ。
辰が身震いをした、その時だった。
ふいに、空気が張り詰めた。
すぐそばにある檻の奥から、地の底を這うような唸りが響く。それは犬の声というより、飢えそのものが軋む音だった。
辰は足を止める。
ギシ、ギシッ――
太い丸太の柵が、内側から押し歪められる。
バリ、バリバリッ――
爪が木と土を掻き毟る、狂気じみた音。
――まずい
本能が、逃げよと叫んだ。だが、退こうとしたその刹那。
乾いた破砕音とともに、閂が弾け飛んだ。
次の瞬間、闇を裂いて黒い影が躍り出る。
それはもはや犬ではない。痩せさらばえた狼のような、殺意と怨嗟を具現化した獣だった。荒犬は地を蹴るや否や、脇目も振らず、辰へ飛びかかる。
逃げ場はない。辰は咄嗟に身を捻り、後ろへ跳んだ。
だが、足がもつれる。
視界が傾ぐ。仰向けに倒れたその先に、迫る牙。裂けた口。
唾が糸を引き、ぽたりと落ちる。
時間が、やけに遅い。
――喰われる
声は出なかった。生きたまま喰われる。鋭い牙に噛み裂かれ、鋭い爪に八つ裂きにされる。それは、折檻さえ生温いと思えるような苦痛を辰に齎すたろう。
覚悟など、出来る筈もない。辰はただ目を見開き、己が身にふりかかる災厄を待つより他になかった。
その瞬間。横合いから、影が割り込んだ。
犬の糞を片付けていた、あの無口な男だった。たった一歩で間合いを詰め、荒犬の首輪の鎖を掴み取る。
「ガァァッ!」
荒犬が空中で身をよじる。だが、男は一切怯まない。
荒れ狂う獣を、まるで使い古した道具を片付けるかのような無造作さで、その巨体を地へ叩き伏せた。
荒犬は牙を剥き、腕に喰らいつこうと暴れる。しかし、締め上げられた鎖が喉を絞り、咆哮を押し潰す。
膝で胴を押さえ込み、さらに力を込める。
ただそれだけの動き。だが、そこには一切の無駄がなかった。
辰は地に膝をついたまま、その光景を見上げていた。
――強い!
ただそれだけが、胸に残る。
しばしのせめぎ合いののち、荒犬はついに力を失い、低く唸るだけの塊となった。男は息を乱さぬまま、獣を引きずるようにして檻の奥へ押し戻す。外れた閂を拾い、力任せに打ち直した。それから、ゆっくりと振り返る。辰を見た。
何も言わぬ。だがその目は、確かに辰の無事を量り、そして――ここに居るな、と告げていた。
遠くから、どやどやと足音が近づく。
「おい、ノブ吉! 何の騒ぎだ!」
「荒犬か! 無事か、ノブ!」
酒を飲んでいた男たちの声だ。男――ノブ吉は男たちには一瞥もくれず、辰だけを見ていた。
そのことに、何故だろうか、心臓が大きく跳ねた。その昏い眼差しの奥に、亡き母が抱いていたものと同じ、深い沈黙を見た気がした。
やがて、男は重い口を開く。
「……行け」
低く、掠れた声。土の底から響くような声だった。
辰は弾かれたように立ち上がる。
礼をすることも、返事をすることも出来ない。ただ、その場を離れる。
背後では、荒犬の唸りと、男たちのざわめきが混じり始めていた。
先ほど男たちが酒を汲み交わしていた場所を過ぎ、さらに坂を下る。一度も振り返らずに、駆けのぼる。
――ノブ吉
呼ばれていた名だけが、耳に残る。
あの腕。あの力。あの、物言わぬ瞳。
辰は知らず、握りしめた拳に力を込めていた。
あの男のことが、なぜか頭から離れなかった。




