執着
男たちが去った後、辰は薪の陰から這い出した。抱えた鞠は、汗でじっとりと湿っている。
辰は銀狼を探し求め、犬舎の奥へと足を進めた。
鼻をつくのは、左右に並ぶ檻から漂う獣の臭い。耳に届くのは、生肉を食らう猛犬たちの獰猛なうなり声。まさに、食うか食われるかの「修羅の庭」であった。
太い丸太を組んだ檻の中、荒々しく猛々しい猛犬たちがうごめいている。獲物に喰らいつき、主人の鞭に耐えてきた獣たちの、野性の気迫が漲る。
その殺伐たる「修羅の庭」のどん詰まりに、一目で特別とわかる清らかな一角があった。
掃き清められ、丁寧に磨かれた杉材で囲まれたその檻は、まだ新しい。床には湿気を防ぐ上げ床が組まれ、冬の柔らかな陽光が差し込む。清潔な藁が敷かれ、血のついた革紐も鉄輪もない。
その中で、真白い毛玉のような仔犬が、退屈そうに前脚を舐めていた。
――銀狼だ
先ほどまで男たちが「牙を抜かれた」と嘲笑していた、愛くるしいばかりの仔犬。
この「銀狼」は、名犬の血を引きながら、猛犬の群れではなく、日左衛門のために咲く花として、丹精込めて仕立てられているのだ。
――「蹴鞠犬」か
男たちの言葉を思い返し、辰はその特別な仔犬の前に立つ。
仔犬は誰に教わるでもなく、優雅な所作で座り、辰を見上げる。
純白の毛並み。よく躾けられた瞳には、知性というよりも、迷いのない冷徹な光すら宿っている。
この犬は、隣の檻で唸る獣たちのように、泥と血に塗れることは一生ないのだろう。
それは、奥座敷に「御守り」として据え置かれる、辰自身の姿に似ていた。
だが、決定的な違いがある。この白き獣は、主から惜しみない慈愛を受けている。一方の自分は、主の身代わりに穢れを吸い、捨てられるだけの形代に過ぎない。
――鞠を檻に入れ、さっさと戻ろう
辰は檻のそばまで近付き、日左衛門から託された鞠を格子の隙間から差し入れる。
仔犬は伏せて、じっと辰を見つめる。動こうとしない。
――わからないのか?
「……ほら、若君からだ。寂しがるからと」
声に出すと、その滑稽さが際立った。
辰は仔犬が喜んで飛びつくと思った。しかし銀狼の反応は予想を裏切った。
仔犬は低く伏せ、喉の奥で微かに「ぐるる……」と唸る。侵入者を拒む「番犬」の鋭さだ。
じりじりと格子に近づき、辰が差し入れた鞠を前脚で引き寄せる。しかし、噛んで振り回すのではなく、大切そうに自分の座布団の奥へ押し込む。
その後、仔犬は鼻先を格子の外に突き出した。
――噛まれるかも
辰は手を引く。仔犬は鼻をひくひくさせ、入るべきでない者かどうかを確かめるように匂う。そしてぶるりと身震いし、布の山へ顔を押し付ける。辰の匂いをその匂いで塗り潰すように。
気に入りの匂いで満たした後、仔犬は再び座り、辰を見据えた。
――何を下敷きにしているのか?
檻の中を覗くと、小袖や手拭いが敷き詰められている。そのうちの一つに、日左衛門が袖を通していた小袖があった。
辰の凝視が癪に障るのか。仔犬は唸り、むくりと起き上がる。獣の匂い、藁の匂い、そして微かに甘く苦い日左衛門の匂い。仔犬はその残り香の上に座り、宝物を守る番犬のように辰を威嚇する。
――これは、わしのものだ。お前のような他所者が触れてよいものではない
背筋に薄寒いものが走る。
「……そうか。お前は、若君の犬だものな」
その言葉は、辰自身にも当てはまる。
――いや、辰よりこいつの方が、ずっと利口だ
愛くるしい姿は、日左衛門を喜ばせるための上辺に過ぎない。銀狼は、牙を抜かれたのではない。日左衛門を守るためだけに、その牙を研ぎ澄まされているのだ。
銀狼は歯を見せず、静かに唸る。本気で噛む犬ほど、歯は見せぬ──と、以前、日左衛門が聞き齧った知識をひけらかしていたのを思い出す。
辰は溜息を飲み込み、静かにその場を離れた。自分も銀狼も、若君に捧げられた「供物」であることに変わりはない。ただ、この白い獣は、その役割を深く、残酷に理解しているようだった。
辰が背を向けた途端、銀狼の唸りは止む。振り返っても動かない。ただ、辰の背をじっと見据える。
排除すべき敵か、同じ檻の中の同類か。
その視線を背中に感じ、辰は一度も振り返らず、その場を去った。




