砂上の楼閣
雪乃の細い腕に抱かれながら、日左衛門は苦悶していた。肺を抉るような激しい咳の末に、小さな身体が大きくのけぞり、ついに血を吐き崩れた。迸った鮮血は、雪乃の白い衣の胸元を、見る間に、あまりにも鮮やかな紅に染め上げていく。
母の着物に縋り付いていた幼い指先が、ふつりと力を失ってだらりと垂れ下がる。そのまま、日左衛門は魂が抜けたかのように、ぐったりと意識を失った。
一瞬の静寂の後、耳を劈く怒号と悲鳴が、奥座敷の空気を震わせた。
「若君!」
「しっかりなされませ、若君!」
女房たちが雪崩を打って駆け寄り、日左衛門の身体を雪乃の腕から引き剥がすようにして抱き起こす。母の温もりから強引に引き離された日左衛門の周囲を、女房たちが幾重にも囲んだ。切迫した指図が、まるで火の粉のように暗がりに飛び交う。
「誰か、早う、御典医を!」
「お顔色が……! 誰か、早う、お口を拭う清浄な布を!」
混乱の渦中で、ある者は日左衛門の喉元を緩め、ある者はその細い手首を握りしめて必死に脈を求めた。
畳の目に吸い込まれていく紅は、辰の目には、恐ろしいほどに美しく、鮮烈な色に映った。生臭い鉄の匂いが立ち込めるなか、奥座敷は一瞬にして、生きながらにして堕ちた阿鼻叫喚の地獄の様相を呈した。
その凄絶な喧騒の真ん中で、雪乃だけが、時が止まったかのように茫然と虚空を見つめていた。
我が子を抱いていた腕は、温もりを失った形のまま、空を掴んで止まっている。あまりの衝撃に、雪乃の心は現世から切り離され、深い霧の底へと沈み込んでいるようであった。
だが、ふいにその瞳が、一点に縫い留められた。
そこには、口の周りを真っ赤に染め、死人のように蒼白となった日左衛門の顔があった。雪乃は、その幽かな視線を、ゆっくりと己の胸元へ落とす。今しがた我が子が吐き出した、生々しくも温かな紅の染みが、じわり、じわりと、白き衣に染み渡っていた。
日左衛門の血色を奪ったその「紅」が、今、己の胸にある。
その残酷な符合を理解した瞬間、雪乃の瞳から光が完全に失せた。唇を激しく戦かせ、何かを叫ぼうとしたが、喉の奥からは気息の漏れるような音しか響かない。
数拍ののち、雪乃の身体からすべての生気がふつりと断ち切られた。叫び声を上げることすら叶わず、雪乃は糸の切れた人形のごとく、その場に卒倒した。
女たちの働きを差配していた老女は、雪乃が倒れるやいなや、血相を変えて駆け寄った。
「姫様! お気を確かに、姫様!」
老女は、自身の膝が砕けるのも構わず床に突き、雪乃を抱きとめた。その腕には、主を死の淵から引き戻そうとする執念が、骨身を軋ませるほどの力となって込められている。
「なりませぬ、なりませぬぞ……!」
それは、いつもの穏やかな老女の声ではなかった。最愛の娘を奪われまいとする母の、剥き出しの絶叫となっていた。
血の気を失い、ぴくりとも動かぬ雪乃の頬を、老女は震える手で何度も、何度も叩き、擦る。自身の体温をすべて移そうとでも言うかのように、雪乃の冷え切った手を己の胸に押し当て、なりふり構わずその名を呼び続けた。
振り乱した白髪が雪乃の顔にかかり、老女の形相は、周囲の女房たちが息を呑み、立ちすくむほどに凄絶であった。
「これなる方々、何をしておいでか! 若君をお寝かせして! 早う、奥方様もお床へ! 湯を、温かき湯を早う! 御典医はまだか、誰か見て参れ!」
老女の咆哮に弾かれたように、女房たちが一斉に動き出す。
雪乃は、老女と数人の女房たちに抱きかかえられ、奥の私室へと引き取られていった。
阿鼻叫喚の地獄へ変じた奥座敷において、辰は独り、座敷の隅で途方に暮れていた。




