無垢
その後も、日左衛門は力の限り鞠を放り、仔犬はそれを一心不乱に追いかけた。中庭の冷気に鼻を湿らせ、真白な胸を誇らしげに張っている。
ある折、仔犬は鞠をくわえたまま、ふと辰を見上げた。一瞬だけ、千切れんばかりに振られていた尾が止まった。
混じりけのない黒い瞳が、じっと辰を見据える。
それは、辰の在り方を見定めるようでもあり、ただの獣の気まぐれのようでもあった。
やがて主人が仔犬を抱き上げ、引き上げようとしたとき、
日左衛門はあからさまに顔を曇らせた。
「もう、行ってしまうのですか」
仔犬は主人の腕の中で、まだ遊び足りぬとばかりに四肢をばたつかせている。
短い脚を交互に動かし、縁側の方を振り返っては
「きゃん!」
と甲高く鳴いた。
日左衛門は、たまらず座布団から身を乗り出した。
「まだ、大丈夫です。わしは、今しばらく」
言いかけたところで、喉が震えた。
堪えきれぬ咳が、小さく漏れる。
奥方の細い手が、すぐさまその背へ添えられた。
「もう、よろしいでしょう。今日はこれまでに」
奥方の声は穏やかだったが、そこには母としての、有無を言わせぬ響きがあった。
日左衛門は、主人や老女には時として聞き分けのない振る舞いをする。
だが、奥方が相手となれば話は別である。
その顔はみるみる悲しげに歪んだ。
「……銀狼」
仔犬は主人の腕の中から、なおも日左衛門を見つめている。
濡れた鼻先をひくつかせ、名を呼ぶように鳴き続けた。
日左衛門は、白く細い指で自身の膝をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫です。わしは、まだ平気です。もっと遊びたいのです。だって、次はいつ、銀狼に会えるか……わからない、から」
強がってはいるが、その呼吸はすでに浅い。肩がかすかに上下していた。
そんな日左衛門の様子を眺めつつ、辰は思う。
――一応、わかってはいるんだ
この小康は、束の間の凪であり、いずれまた、病の荒波に揉まれることになるであろうと。
御守りの御利益を信じていても、それを盲信する、愚かな子ではないということだ。
日左衛門の悲痛な訴えを聞き、奥方は柳眉を寄せた。
「日左衛門……」
その横顔は、先ほどよりもなお青白く見えた。
日左衛門は、母の心痛と心労を誰よりも早く察したようだった。
しばし黙り込み、それから胸の奥に何かを押し込めるように
小さく息を吐いた。
「……わかりました。母さま、もう大丈夫ですよ」
主人は何も言わず、ただ重々しく頷いた。
仔犬は庭へ下ろされると、なおも名残惜しげに縁側の下を行きつ戻りつしていたが、主人の下知に従い、庭の奥へと消えていった。
次いで、奥方が奥座敷を去った。あたりは急に静かになった。
日左衛門は、しばらく庭の奥の方を見つめていた。
もう、白く小さく丸い、あの仔犬の姿は見えない。それでも、冬枯れの庭をじっと見つめている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……銀狼」
声はほとんど風に紛れるほど小さかった。
老女はそれを聞こえぬふりをして、そっと日左衛門のそばへ膝をついた。
「若君」
柔らかな声で呼ぶ。
日左衛門は、はっとしたように振り向いた。
「ばば」
「御手をお洗いになりましょう。銀狼を撫でておいででしたから」
日左衛門は自分の手を見た。
細い指のあいだに、白い犬の毛がいくつか絡んでいる。
「……うん」
常にはない幼い素直さで、日左衛門は頷く。老女は湯桶を引き寄せた。かすかな湯気がたちのぼっている。井戸水に湯を混ぜてあるのだろう。
「こちらへ」
日左衛門は素直に手を差し出した。
老女はその手を取って、水へそっと浸す。
「冷たくはありませんか?」
「ううん」
日左衛門は首を振った。老女は静かに細い指先を擦り、犬の毛を流してやる。
「銀狼は、寂しがっていないだろうか」
ぽつりと日左衛門が言った。
老女は少しだけ手を止め、それから何でもないことのように答えた。
「平気ですよ」
「でも……急にいなくなったから」
「犬舎には仲間もおります」
老女はそう言いながら、濡れた手を布で拭いた。
「それに、あの子は賢い犬です。若君のお顔も匂いも、ちゃんと覚えております」
日左衛門の肩が、わずかに持ち上がる。
「……ほんとう?」
「ええ」
老女は当たり前のように頷いた。
「次にお会いになれば、すぐに駆け寄って参りますよ」
日左衛門は、少しだけ口元を緩めた。
しかしすぐに、また庭の方へ目を向ける。
「……次は、いつだろう」
老女は答えなかった。
代わりに立ち上がり、控えていた小袖を手に取る。
「若君、お召し物を替えましょう」
日左衛門は驚いたように顔を上げた。
「え、もう?」
「犬の毛がついております」
老女は袖口を軽く払った。
白い毛が、いくつか畳に落ちる。
「このままでは母君に叱られてしまいますよ」
「母さまは、叱らないだろう」
「わたくしが叱られます」
「叱らないってば。お優しい方だもの」
日左衛門はくすりと笑い、ようやく立ち上がった。
老女は手際よく小袖を解き、温かいものに替えさせる。
その間も、日左衛門の視線は時折、庭へ向いた。
仔犬が彼のもとへ戻ることを、まだ、心の何処かで期待しているのかもしれない。
老女はその様子を見ていたが、何も言わなかった。
新しい袖を整えながら、ただ静かに言う。
「さあ、少しお休みになりましょう」
日左衛門は小さく頷いた。
けれどその目は、まだ庭の奥を探していた。
暫くして、手元に残った使い古しの鞠に目を落とし、ぽつりと呟いた。
「……銀狼は、この鞠を気に入ったようだった」
そう言って、鞠をきゅっと抱きしめる。顔をあげた日左衛門の視線が、辰へと向けられた。ぎくりとする辰の前に、日左衛門は鞠を差し出す。
「兄者、これを銀狼に届けてあげてください。寂しくなったら、これで遊ぶようにと。わしの匂いがついていれば、銀狼も安心するでしょう」
――安心?
辰は、喉元まで出かかった溜息を奥歯で噛み潰した。
滅多に会わぬ主人との数刻の戯れを、犬がそこまで恋しがると、本気で思っているのか。
犬を犬舎へ戻すのは、休息と次の訓練のためだ。
寂しいなどという甘い情を、犬飼は決して許さない。
犬もまた、それを望まぬよう仕込まれているはずだ。
だが、辰を見上げる日左衛門の瞳には、一点の曇りもなかった。
自分の優しさが、この世の隅々まで届くとでも信じているような。
あるいは、自分の愛が万物に等しく注がれていると、疑いもしないかのような、残酷なまでの無垢。
辰は鞠を受け取った。日左衛門の体温がまだ残っている。
辰は立ち上がり、立ち尽くした。
鞠をどこへ届ければよいのか、見当がつかなかった。
この屋敷で辰が知っているのは、奥座敷と控えの間、それに自分が寝起きしている小部屋くらいのものだ。
犬舎がどこにあるのかさえ、まだ知らない。
辰は振り返り、老女に目を向けた。
老女は日左衛門の肩へそっと羽織を掛けながら、辰にちらりと視線を寄こす。
――銀狼は、どこへ?
そう尋ねなければならなかった。しかし、言葉が出てこない。そこで、この屋敷に来てから、一度たりとも、口を利いていないことを思い出した。
辰の無言の疑問に、老女はあっさりと答えた。
「犬舎ですよ」
それから少し顎をしゃくった。
「裏手に降りる坂があります。そこを下りればすぐです」
辰は頷き、歩き出そうとした。
すると老女が呼び止めた。
「辰」
振り返る。
老女は鞠を持つ辰の手をちらりと見た。
「犬の側へ行ったら、戻った折に着物を替えなさい」
辰は黙っている。
老女は当たり前のことのように続けた。
「犬の毛や獣の垢は、若君のお体に障ります」
言いながら、日左衛門の肩をそっと抱いた。
「奥へ戻る前に、水場で手を洗うこと。若君にお仕えするその手で、獣に触れてはなりませぬ」
辰は小さく頭を下げた。
老女の言うことはもっともだった。辰もまた、若君の身に触れる道具のひとつなのだから。
老女はそれ以上何も言わない。
すでにその意識は、咳をこらえている日左衛門へ向いている。
辰は静かに障子を開け、外へ出た。
冬の空気が頬を刺した。
鞠を握る掌だけが、まだわずかに温かい。
辰はその温もりを振り払うように、庭を横切った。




