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月兎取月  作者: 銀ねも
34/45

無垢

 その後も、日左衛門は力の限り鞠を放り、仔犬はそれを一心不乱に追いかけた。中庭の冷気に鼻を湿らせ、真白な胸を誇らしげに張っている。


 ある折、仔犬は鞠をくわえたまま、ふと辰を見上げた。一瞬だけ、千切れんばかりに振られていた尾が止まった。


 混じりけのない黒い瞳が、じっと辰を見据える。

 それは、辰の在り方を見定めるようでもあり、ただの獣の気まぐれのようでもあった。


 やがて主人が仔犬を抱き上げ、引き上げようとしたとき、

 日左衛門はあからさまに顔を曇らせた。


「もう、行ってしまうのですか」


 仔犬は主人の腕の中で、まだ遊び足りぬとばかりに四肢をばたつかせている。

 短い脚を交互に動かし、縁側の方を振り返っては


「きゃん!」


 と甲高く鳴いた。

 日左衛門は、たまらず座布団から身を乗り出した。


「まだ、大丈夫です。わしは、今しばらく」


 言いかけたところで、喉が震えた。

 堪えきれぬ咳が、小さく漏れる。

 奥方の細い手が、すぐさまその背へ添えられた。


「もう、よろしいでしょう。今日はこれまでに」


 奥方の声は穏やかだったが、そこには母としての、有無を言わせぬ響きがあった。

 日左衛門は、主人や老女には時として聞き分けのない振る舞いをする。

 だが、奥方が相手となれば話は別である。

 その顔はみるみる悲しげに歪んだ。


「……銀狼」


 仔犬は主人の腕の中から、なおも日左衛門を見つめている。

 濡れた鼻先をひくつかせ、名を呼ぶように鳴き続けた。

 日左衛門は、白く細い指で自身の膝をぎゅっと掴んだ。


「大丈夫です。わしは、まだ平気です。もっと遊びたいのです。だって、次はいつ、銀狼に会えるか……わからない、から」


 強がってはいるが、その呼吸はすでに浅い。肩がかすかに上下していた。


 そんな日左衛門の様子を眺めつつ、辰は思う。


 ――一応、わかってはいるんだ


 この小康は、束の間の凪であり、いずれまた、病の荒波に揉まれることになるであろうと。


 御守りの御利益を信じていても、それを盲信する、愚かな子ではないということだ。


 日左衛門の悲痛な訴えを聞き、奥方は柳眉を寄せた。


「日左衛門……」


 その横顔は、先ほどよりもなお青白く見えた。


 日左衛門は、母の心痛と心労を誰よりも早く察したようだった。


 しばし黙り込み、それから胸の奥に何かを押し込めるように

 小さく息を吐いた。


「……わかりました。母さま、もう大丈夫ですよ」


 主人は何も言わず、ただ重々しく頷いた。


 仔犬は庭へ下ろされると、なおも名残惜しげに縁側の下を行きつ戻りつしていたが、主人の下知に従い、庭の奥へと消えていった。


 次いで、奥方が奥座敷を去った。あたりは急に静かになった。


 日左衛門は、しばらく庭の奥の方を見つめていた。

 もう、白く小さく丸い、あの仔犬の姿は見えない。それでも、冬枯れの庭をじっと見つめている。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……銀狼」


 声はほとんど風に紛れるほど小さかった。

 老女はそれを聞こえぬふりをして、そっと日左衛門のそばへ膝をついた。 


「若君」


 柔らかな声で呼ぶ。

 日左衛門は、はっとしたように振り向いた。


「ばば」

「御手をお洗いになりましょう。銀狼を撫でておいででしたから」


 日左衛門は自分の手を見た。

 細い指のあいだに、白い犬の毛がいくつか絡んでいる。


「……うん」 


 常にはない幼い素直さで、日左衛門は頷く。老女は湯桶を引き寄せた。かすかな湯気がたちのぼっている。井戸水に湯を混ぜてあるのだろう。


「こちらへ」


 日左衛門は素直に手を差し出した。

 老女はその手を取って、水へそっと浸す。


「冷たくはありませんか?」

「ううん」


 日左衛門は首を振った。老女は静かに細い指先を擦り、犬の毛を流してやる。


「銀狼は、寂しがっていないだろうか」


 ぽつりと日左衛門が言った。

 老女は少しだけ手を止め、それから何でもないことのように答えた。


「平気ですよ」

「でも……急にいなくなったから」

「犬舎には仲間もおります」


 老女はそう言いながら、濡れた手を布で拭いた。


「それに、あの子は賢い犬です。若君のお顔も匂いも、ちゃんと覚えております」


 日左衛門の肩が、わずかに持ち上がる。


「……ほんとう?」

「ええ」


 老女は当たり前のように頷いた。


「次にお会いになれば、すぐに駆け寄って参りますよ」


 日左衛門は、少しだけ口元を緩めた。

 しかしすぐに、また庭の方へ目を向ける。


「……次は、いつだろう」


 老女は答えなかった。

 代わりに立ち上がり、控えていた小袖を手に取る。


「若君、お召し物を替えましょう」


 日左衛門は驚いたように顔を上げた。


「え、もう?」

「犬の毛がついております」


 老女は袖口を軽く払った。

 白い毛が、いくつか畳に落ちる。


「このままでは母君に叱られてしまいますよ」

「母さまは、叱らないだろう」

「わたくしが叱られます」

「叱らないってば。お優しい方だもの」


 日左衛門はくすりと笑い、ようやく立ち上がった。

 老女は手際よく小袖を解き、温かいものに替えさせる。


 その間も、日左衛門の視線は時折、庭へ向いた。


 仔犬が彼のもとへ戻ることを、まだ、心の何処かで期待しているのかもしれない。


 老女はその様子を見ていたが、何も言わなかった。

 新しい袖を整えながら、ただ静かに言う。


「さあ、少しお休みになりましょう」


 日左衛門は小さく頷いた。

 けれどその目は、まだ庭の奥を探していた。

 暫くして、手元に残った使い古しの鞠に目を落とし、ぽつりと呟いた。


「……銀狼は、この鞠を気に入ったようだった」


 そう言って、鞠をきゅっと抱きしめる。顔をあげた日左衛門の視線が、辰へと向けられた。ぎくりとする辰の前に、日左衛門は鞠を差し出す。


「兄者、これを銀狼に届けてあげてください。寂しくなったら、これで遊ぶようにと。わしの匂いがついていれば、銀狼も安心するでしょう」


 ――安心?


 辰は、喉元まで出かかった溜息を奥歯で噛み潰した。


 滅多に会わぬ主人との数刻の戯れを、犬がそこまで恋しがると、本気で思っているのか。


 犬を犬舎へ戻すのは、休息と次の訓練のためだ。

 寂しいなどという甘い情を、犬飼は決して許さない。

 犬もまた、それを望まぬよう仕込まれているはずだ。


 だが、辰を見上げる日左衛門の瞳には、一点の曇りもなかった。

 自分の優しさが、この世の隅々まで届くとでも信じているような。

 あるいは、自分の愛が万物に等しく注がれていると、疑いもしないかのような、残酷なまでの無垢。


 辰は鞠を受け取った。日左衛門の体温がまだ残っている。


 辰は立ち上がり、立ち尽くした。


 鞠をどこへ届ければよいのか、見当がつかなかった。

 この屋敷で辰が知っているのは、奥座敷と控えの間、それに自分が寝起きしている小部屋くらいのものだ。

 犬舎がどこにあるのかさえ、まだ知らない。


 辰は振り返り、老女に目を向けた。


 老女は日左衛門の肩へそっと羽織を掛けながら、辰にちらりと視線を寄こす。


 ――銀狼は、どこへ?


 そう尋ねなければならなかった。しかし、言葉が出てこない。そこで、この屋敷に来てから、一度たりとも、口を利いていないことを思い出した。


 辰の無言の疑問に、老女はあっさりと答えた。


犬舎いぬやですよ」


 それから少し顎をしゃくった。


「裏手に降りる坂があります。そこを下りればすぐです」


 辰は頷き、歩き出そうとした。

 すると老女が呼び止めた。


「辰」


 振り返る。

 老女は鞠を持つ辰の手をちらりと見た。


「犬の側へ行ったら、戻った折に着物を替えなさい」


 辰は黙っている。

 老女は当たり前のことのように続けた。


「犬の毛や獣の垢は、若君のお体に障ります」


 言いながら、日左衛門の肩をそっと抱いた。


「奥へ戻る前に、水場で手を洗うこと。若君にお仕えするその手で、獣に触れてはなりませぬ」


 辰は小さく頭を下げた。


 老女の言うことはもっともだった。辰もまた、若君の身に触れる道具のひとつなのだから。


 老女はそれ以上何も言わない。

 すでにその意識は、咳をこらえている日左衛門へ向いている。

 辰は静かに障子を開け、外へ出た。


 冬の空気が頬を刺した。


 鞠を握る掌だけが、まだわずかに温かい。

 辰はその温もりを振り払うように、庭を横切った。

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