一家
翌日、奥方が奥座敷を訪れた。
日左衛門は大喜びだった。母がいれば、辰など日左衛門の眼中になくなる。
それは、ありがたいことこの上ない。このまま、自分を控えの間に下がらせてくれれば言うことはない。けれど、そう、うまくはいかないものだ。
日左衛門は厚着をさせられ、縁側の座布団に座らされている。そわそわと落ち着かぬ様子で内庭を見つめる我が子を、奥方は微笑ましそうに見守っていた。
やがて、主人が白い仔犬を抱えて現れると、日左衛門は歓声をあげた。
「銀狼!」
仔犬は主人の腕の中で身をくねらせ、ちぎれんばかりに尾を振っている。
まだ垂れた耳も目も大きく、鼻先も脚も尾も短い。むくむくと膨れた毛玉のようだ。
中庭に下ろされると、四つの足をもつれさせながら内庭を駆け回り、甲高い声で「きゃん」と鳴いた。
「銀狼、おいで!」
日左衛門が呼ぶと、仔犬は小さな主人の呼び声に応え、転げるように主人のもとへ駆け寄る。
縁側へ飛びつこうとして、うまく上がれず、何度も前足をかけては滑り落ちる。小さな爪が縁側に擦れ、柔らかそうな前脚に似つかわしくない、かちかちと硬い音を立てた。
日左衛門は思わず身を乗り出した。次の瞬間、胸をおさえ、激しく咳き込む。
奥方が顔を曇らせ、その背を擦る。主人は手際良く仔犬を抱き上げると、日左衛門の咳が治まるのを待ってから、その腕に預けてやった。
仔犬は日左衛門の胸に飛び込むと、湿った鼻を日左衛門の頬に押しつけ、喜色満面の顔を舐め回した。
「はは、銀狼、わしを覚えていてくれたのか!」
老女が慌てて日左衛門を窘める。
「若君、お顔を近づけすぎては……」
「大丈夫だ!」
日左衛門は笑って聞き流し、白い毛玉を撫で回す。
仔犬は日左衛門の膝の上で、腹を見せて転がり、短い脚をばたばたさせている。
――これが、銀狼屋の若君の躾か?
辰は白けた目で、その光景を見ていた。愛想を振りまく獣を、ただ甘やかしているだけではないか。
思う存分、仔犬を愛でた後、日左衛門は母の方を向いた。屈託なく微笑み、仔犬を差し出す。
「母さまも撫でますか? 大丈夫ですよ。わしの銀狼は、とても賢いのです。母さまを噛んだりいたしません」
奥方は困ったように微笑み、夫の顔を仰ぎ見る。夫が頷くのを見て、膝でにじり寄り、そっと手を伸ばした。
仔犬は奥方の指先に鼻を押しつけて、くんくんと鼻を鳴らす。撫でられると、うっとりと目を細めた。
やがて奥方が手を引くと、仔犬は続きを催促するように、ちょんと前足で奥方の繊手に触れた。それを見て、日左衛門はけらけらと笑った。
「銀狼、お前、母さまにまで甘えるのか! まったく、もう! 仕方のない奴め!」
日左衛門が仔犬の顎の下を擽るように撫でると、仔犬は伸び上がり、日左衛門の顔を舐める。
主人と奥方は、我が子と仔犬の戯れを見守りながら、顔を見合わせ、微笑みを交わした。
そこには、一分の隙もない「一家」の姿があった。
辰は身震いした。
ここでは誰も辰を打たない。罵りもしない。ただ、辰の存在そのものがそこには無いかのように、大人達の関心も慈しみも、辰の上を虚しく通り過ぎて、日左衛門へ集結してゆく。
その完璧に完成された仲睦まじい光景を傍から見ているうちに、辰の胸のうちは、しんしんと冷えていくのだ。
「兄者!」
不意に呼ばれ、辰は我に返る。
「銀狼の賢いところを見せてあげます!」
鞠を求められ、辰は無言でそれを差し出した。
日左衛門が、細い腕を精一杯振って鞠を中庭へ投じた。
「銀狼! 行け、取ってこい!」
放たれた鞠が冬枯れの芝の上を弾むと、仔犬は弾かれたように飛び出した。
まだ自分の足の長さを測りかねているのか、走るたびに短い後ろ脚が前脚を追い越してしまいそうになる。丸い尻を左右に激しく振り、耳を後ろに寝かせ、懸命に獲物を追う。
一度、土が盛り上がった場所に足を取られ、それこそ、まるで鞠のように、無様に前転した。
白い腹を天にさらし、短い四肢を空中でばたつかせる。
「あっ」
日左衛門が声を上げ、隣で奥方が小さく息を呑む。
だが、仔犬はすぐに起き上がると、何事もなかったかのように再び駆け出した。
鞠に追いつくと、それはもう、獲物を仕留める猟犬の顔だ。
まだ乳歯の残る小さな口を精一杯に開き、ふかふかの鞠をがぶりとくわえ込む。鼻先が鞠に埋もれ、視界が塞がっているはずなのに、仔犬は迷わず縁側へ向かって引き返してきた。
仔犬は縁側の下まで来ると、一度だけ「くぅ」と喉を鳴らし、くわえていた鞠をぽとりと、日左衛門の足元へ落とした。
日左衛門は手を叩いて喜んだ。
「よくやった! えらいぞ、銀狼!」
日左衛門が手を差し伸べると、仔犬は自力で縁側をよじ登って来た。日左衛門はさらに歓声をあげる。仔犬を抱き上げ、その湿った鼻先に自身の鼻尖を押し当てた。
仔犬はちぎれんばかりに尾を振り、小さな舌を出して「はあはあ」と荒い息をつく。
その様子は、いかにも「役目を果たしたぞ」とでも言いたげな、名犬の片鱗を覗かせるものだった。
日左衛門は膝に乗せた仔犬の顔を包み込み、誇らしげな笑顔を辰へ向けた。
「どうです? わしの銀狼は、すごいでしょう!」
辰は、冷めた目でそれを見ていた。
日左衛門の言う通り、この仔犬は凄いのだろう。そして、この仔犬をこのように躾けた主人もまた凄いのだろう。
主人が銀狼屋の秘奥を駆使し、この幼い獣に「誰が真の主か」を叩き込んだ。だから、銀狼は日左衛門の一声で、それが天命であるかのように馳せ参じる。
日左衛門は、何も為していない。
日左衛門は、何もできない。何もせずとも、すべてが手に入る。
獣の忠義までもが、あつらえ物のように、日左衛門の元へ届けられる。
辰は、日左衛門に甘える銀狼の喉鳴らしを聞きながら、俯いた。
自分という「御守り」も、この「銀狼」も、結局は日左衛門という輝ける「お日様」に捧げられた供物に過ぎないのだ。
この仔犬と辰は、同じ列に並ばされている。
この仔犬は、主を持ち、血を持ち、役目を持つ。
――じゃあ、辰は?
その答えを、敢えて口にしようとは思わなかった。
どうせ、誰も聞いてはいないのだから。




