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月兎取月  作者: 銀ねも
32/45

見せつける

 母に添い寝をしてもらった翌日から、日左衛門の容態は目に見えて持ち直した。


 熱は下がり、咳も減り、浅かった呼吸にわずかな深さが戻る。

 老女は安堵の溜息をつき、奥向きの女たちは「峠を越えましたな」と小声で囁き合った。


 日左衛門本人は、それらすべてを、当然のこととして受け止めていた。


「兄者がいてくれたおかげで、すっかり良くなりました。ありがとう、兄者」


 そう言って屈託なく笑う顔には、無邪気な好意と、周囲の献身を吸い上げることを当然とする無自覚な傲慢が、矛盾なく居並ぶ。


 辰は何も言わなかった。言えることなどない。自分はただ、そこに据えられていただけだ。日左衛門が勝手に衰弱し、勝手に持ち直した。それだけのこと。そもそも、この小康がいつまで続くのかなど、誰にもわからない。


 ――何が「すっかり良くなった」だ。どうせ、また、底へ落ちるに決まってる


 辰は心の奥で、ひっそりと毒づいた。


 日左衛門の快復は、辰にとって望ましくない変化ももたらした。日左衛門は、以前にも増して四六時中、辰を側に置きたがるようになったのだ。四方山よもやま話に相槌を打つだけでは満足せず、退屈を訴え


「兄者、一緒に遊びましょう」


 と上目遣いに強請ってくる。


 日左衛門は、畳の上でとんとんとまりを弾ませては、辰にも同じようにやらせた。それに飽きると、今度は鞠を壁へ当てて跳ね返そうとする。それを、老女が慌てて制止する


「いけません、若君。お身体に障ります」

「ばば、いちいちうるさいぞ! わしはもう大丈夫だと言っておろう!」


 日左衛門は眉を吊り上げ、老女をなじった。脆弱な身体に似つかわしくない強情さは、いかにも銀狼屋の主となるべく育てられた貴種らしい。


 ーー赤子のように、母親に抱かれて眠ったくせに


 だが、老女が「母君も案じておられます」と諭すと、日左衛門はしばらく口を尖らせたのち、やがて不承不承ふしょうぶしょううなずいた。


 我儘を押し通す稚気と、身内の労苦を察して矛を収める理知。その使い分けが小賢しく、鼻につく。


 結局、二人は座ったまま、鞠を転がし合うことになった。


 辰が鞠を転がすと、日左衛門はそれを受け止め、また転がし返す。ただ、それだけの遊びだ。こんなもの、赤子でもできる。それなのに、日左衛門は頬を紅潮させ、声を上げて笑っている。


 ――くだらない


 内心では辟易しながら、辰は無機質な「御守り」になりきって、黙って日左衛門の遊び相手に徹した。




 あくる日、主人が日左衛門の奥座敷を訪れた。


 辰は控えの間へと下げられる。


 障子越しに、日左衛門の笑い声が漏れてきた。


 明るく、楽しげで、少し浮かれた高い声。時折、父の言葉を遮ってさえいる。日左衛門にとって、父とは決して自分を叱らぬ、ひたすら甘えを許してくれる慈父じふであるらしい。


 やがて主人が去り、辰は呼び戻される。


 奥座敷に入ると、日左衛門は頬を上気させ、目を輝かせていた。


「兄者、明日、よいものを見せてあげましょう!」


 弾む息とともに、言葉が転がり出る。


「わしの銀狼ぎんろうです。銀狼というのは、ご先祖様が御殿様に献上した名犬で、わしの銀狼はその直系なのです。初代は素晴らしい犬で、命を賭して主君をお守りしたのですよ」


 誇らしげに語られる、銀狼屋の由緒。六歳になった嫡男にのみ許される、純白の仔犬。


 病弱な日左衛門に代わり、彼の父が仔犬の世話をし、躾を施しているそうだ。その絶対的な特権を、彼は誇らしげに語る。


「わしは、銀狼屋の嫡男ですから」


 胸を張る日左衛門。その言葉が、辰の胸に不快なおりを沈ませる。


 ――また、それか


 辰は何も言わず、面壁の地蔵のごとく凝然ぎょうぜんとしていた。


 老女は微笑みを絶やさず相槌を打ち、若君の言葉を丁寧に拾い上げている。日左衛門はやがて、反応のない辰ではなく、熱心に耳を傾ける老女の方を向いて話し始めた。


「母上のお加減はいかがだろう。ご都合がよろしければ、母上にもお見せしたい」


 辰は、辛うじて溜息を呑み込んだ。


(なら、辰は控えの間に置いておいてくれ。奥方様だって、辰の顔なんか見たくないだろうに)


 そもそも、辰は仔犬など見たくもなかった。


 日左衛門は、いつも辰にこれ見よがしに与えられたものを見せつけ、それでも飽き足らず、さらに見せつけようとする。


 心底、うんざりだった。

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