邪魔者
日左衛門は天井を仰いだまま、浅い呼吸を繰り返していた。胸の奥に蟠る不快感があり、咽は鑢目を呑まされたかのように痛むらしい。そう、夢現のうちに訴えていた。
枕許には老女が座り、薬湯を下げた後も、日左衛門の容態から目を離さずにいる。
「……ばば」
咳の合間に、日左衛門か細い声で老女を呼ぶ。日左衛門は止まらぬ咳によって疲弊し、上体を起こすことさえままならない。
老女はすぐさま、日左衛門の顔を覗き込んだ。
「はい、若君。いかがなされました?」
日左衛門は潤んだ目で老女を見上げ、問いかけた。
「ばば、昨夜は、よう眠れたか」
「ええ。若君のおかげで」
老女は微笑む。だが、その目の下には、長い夜を越えた末に落ちた翳りが、色濃く残っていた。
日左衛門は色を失った唇をわずかに開く。何か言いかけて、また閉ざす。彼らしくもない、躊躇いの仕草を見せた。
老女の顔色が変わる。
「若君? 喉が痛みますか? 胸が苦しいのですか?」
老女が控えの間を振り返る。使いを出して医者を呼ぶつもりだろう。
日左衛門は弱々しく、それでいてはっきりと頭を振った。
「わしは、平気だ。それより……母さまのお加減は、いかがだろう?」
老女が、ほんの一瞬だけ目を瞠った。その僅かな動揺を、日左衛門は見逃しただろう。しかし、辰は見逃さなかった。何せ、手持ち無沙汰なのだ。病魔と闘う日左衛門と、日左衛門の世話をする老女。彼等のいる光景を、ただ眺めることしか出来ないから。
――日左衛門の「母さま」
そのひとを、辰は見たことがない。日左衛門の話では、彼の母もまた病弱で、一年の多くを床に臥して過ごしているという。
あれは二日前だったか、三日前だったか。日左衛門は誰に問われるでもなく、元気になったら何をしたいかを、意気揚々と語ったことがあった。
「わしの不例が治ったら、母さまのお見舞いに伺いたいのです。わしの健やかな姿をご覧になれば、母さまは安堵なされましょう。さすれば、母さまのご不例も、きっと快方へ向かわれるはず。ねぇ、兄者? きっと、そうなりますよね?」
整えられたな言葉には、何の根拠もない。理屈ではなく、そうであってほしいという切実な願望だった。日左衛門は辰よりもはるかに多くの言葉を知っているが、辰よりずっと幼いように思われた。そうであることを許されている。そう思うと、息が詰まる。
辰は曖昧に首肯しながら、内心では「早く寝てくれ」と念じていた。一度呼ばれれば、後は一刻も早く、さがらされることを願うばかりだった。
辰が逸らした視線の先に、老女がいた。日左衛門を見守る老女の眼差しには、肯定にも否定にも振り切れぬ、やり場のない切なさが滲んでいた。
日左衛門の無邪気な願いとは裏腹に、現実は非情である。
辰がどれほど傍に据えられていても、日左衛門の病相は一向に上向かなかった。それどころか、奥向きに仕える女たちの囁きを拾い集めれば、彼の母の方も同じように、あるいはそれ以上に衰弱していることが察せられた。
日左衛門の病は母譲り。誰もが知っているその事実を、この屋敷では誰も口にしない。火を見るより明らかな絶望を、互いの目に触れぬよう、皆で密かに覆い隠しているかのようだった。
老女は冷たい水に浸した布を絞り、丁寧に日左衛門の額へ置くと、穏やかな声で応えた。
「今朝は、落ち着いておられますよ。お顔の色も、昨日よりずっと、よろしいようで」
「そうか」
辰にも方便とわかるその言葉を、日左衛門は額面通りに受け取り、安堵に胸を撫で下ろした。
「ばば……そろそろ、ばばも疲れる頃ではないか。ずっとわしの側にいては、ばばが倒れてしまう」
言葉は理屈を選び、懸命に整えられている。だが、寝具の端をぎゅっと握りしめるその指先が、何より本音を語っていた。
「母さまにお越しいただければ、ばばも少し休める」
老女は日左衛門をじっと見つめた。その思いやりの奥に潜む幼い甘えを、この老女が見逃すはずも、切り捨てるはずも無かった。
「……では、母君にお知らせしてまいりますね」
老女が身を引くと、控えの間から呼ばれた年嵩の女が、音もなく座敷へ入ってきた。
手慣れた所作で日左衛門の枕元を整えながら、ちらりと辰に目を向ける。
声は出さない。ただ、目配せと、ほんの僅かな顎の動き。
――さがれ、ってことか?
辰はその合図を読み取り、従おうとした。ところが、日左衛門の細い指が、辰の袖を縋るように摘み、辰を引き止めた。
「待って、兄者……母さまがいらっしゃるまで、ここにいてください……どうか」
弱々しい手を振り払う術も、権利も、辰は持たない。年嵩の女も、何も言えないようだ。辰は仕方なく、また「御守り」として日左衛門の傍らに据えられた。
しばらくして、廊下から衣擦れの音が近付いてくる。
日左衛門の汗を拭っていた年嵩の女は、すっと立ち上がり、辰に声をかけた。
「こちらへ」
有無を言わせぬ声調きに促されるまま、辰は部屋の隅へと這い下がる。柱際、屏風の陰。人の目に触れぬ場所へと身を移し、そこに座した。
ーー奥方様に、辰を見せぬためだ
辰がそう悟ったとき、障子が静かに開いた。
障子を開けた老女が身を引くと、ほっそりとした女人が座敷へ入って来た。白い衣の裾が畳を滑り、日左衛門のもとへ向かう。
日左衛門が薄らと目を開けた。
「母さま……」
苦い薬草の匂いを纏う女人は、床に伏す日左衛門の傍らで、崩れ落ちるように膝をついた。差し出された小さな手を、華奢な両手で包み込む。
「……お加減は」
問いかけるその声は、日左衛門に負けず劣らず、か細く震えていた。
それに応える日左衛門の声は、畳に落とすと跳ね返り彼を喜ばせる、鞠のように弾んでいた。
「さっきより、楽になりました。母さまのお加減は、いかがですか?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
女人は慣れた手つきで日左衛門の額を検じ、胸の音を聴き、布団を整える。一切の無駄のない所作が、この親子が繰り返してきた「病の日々」の何より雄弁に物語っていた。
そんな親子の様子を屏風の陰から覗き見ながら、辰はひとりごつ。
――このひとが、奥方様……日左衛門の「母さま」か
ひと目でそうだと分かった。日左衛門を見つめる白面は、日左衛門と瓜二つであった。
日左衛門は、母の手に触れられるたび、擽ったそうに忍び笑う。
呼吸は依然として浅く苦しげだが、母が来てくれたという事実だけで、満たされているようだった。
父に与えられた「御守り」の存在など、今はもう意識の外にある。
しばらくして、日左衛門はふうと長く息を吐く。案じる母の顔を見上げ、おもむろに口を開いた。
「……母さま」
「なあに」
「お疲れでは、ありませんか」
日左衛門の髪を撫でていた奥方の手がぴたりと止まる。
日左衛門の声は、これまでにない、緊張を帯びていた。
「布団を、もう一組敷かせましょうか。夜は冷えますし、お戻りの際に、冷たい風に当たられては、お体に障ります。こちらでお休みになれば……ばばも、安心しますし」
日左衛門は切々と訴えた。母を案ずる孝行息子として、必死に体裁を保とうとしているが、その裏にあるものを、母が読み違えるはずもない。
日左衛門は、母に添い寝してほしいのだ。
けれど、それをそのまま言えるほど、日左衛門はもう幼くない。少なくとも、日左衛門自身はそのつもりなのだろう。
奥方は、くすくすと含み笑う。日左衛門は首を竦めた。怯えた亀が甲羅に籠るように、布団に隠れた。
奥方はすかさず、布団を日左衛門の顎の下まで引き下げる。布団に潜っていては、息が苦しくなるからだろう。ほんの些末に思えることでも、日左衛門にとっては一大事になりかねない。それくらい、辰にもわかる。
奥方は悄気返る日左衛門の額を撫でて、微笑んだ。
「そうね。それが良いわね」
日左衛門の青白い頬に赤みが差し、無邪気な笑顔を彩った。それを見つめる彼の母の笑みは、慈愛に満ちている。
心温まる親子の交歓は、辰の心を凍りつかせた。
ーーなんだ、これ
辰は知らなかった。母に甘える子も、子を甘やかす母も、いずれも。そんなものが、この世に存在することさえ、知らなかった。
凍りついた心が、音を立ててひび割れる。
ーーわからない
辰は息を殺し、座敷に据えられた無機質な御守りになりきろうと努めるしかなかった。そうしなければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
ーーいやだ
日左衛門は、母が頬に添えた掌に頬擦りをして、うっとりと目を細める。それから、はっとしたように老女の方を見た。その頬の赤みが増した。
「ばば、大儀であった。もう良い、休め」
童の口から転び出たとは思えぬ、仰々しい物言いは、照れ隠しだ。幼子のように母に甘えた様子を老女に見られて、恥ずかしいらしい。
奥方は微笑み、老女に視線を向ける。
「聞いたでしょう。若君の仰る通りです」
「では……失礼いたします」
その際、ほんの一瞬だけ辰へ目を向け、目配せをする。
――ようやっと、控えの間にさがれる
辰が逸る気持ちのまま、逃げるように腰を浮かせたときだった。不自由を強いられ痺れた足が屏風の足に当たり、乾いた音を立ててしまった。
奥方の視線が日左衛門から逸れ、辰を射抜いた。
驚きとも拒絶ともつかぬ色が、その瞳を過ぎる。それは、夜道で不意に野良犬と出くわした時のような――あるいは、予期せぬ不浄に触れてしまった戸惑いだった。
辰は息を止めた。老女たちが自分を必死に遠ざけようとした理由が、今、はっきりと腑に落ちる。
奥方はすぐに表情を整えた。だがそれは、受け入れるためではない。これ以上踏み込ませぬための、冷徹な壁の顔だった。
日左衛門を案じ、世話を焼き、甘やかす。あの慈愛はすっかり鳴りを潜めてしまった。
「……そなたが、辰か。よう来たな」
ひどく冷めた母の声は、日左衛門を驚かせたようだ。
「……母さま?」
「起き上がってはなりません」
奥方はぴしゃりと言った。冷たくはないが、温かみも失せたその声に、日左衛門は二の句を紡げないでいる。
奥方はそれきり、辰を見なかった。白紙の顔で、黙々と日左衛門の世話をしている。
辰は額を畳にこすりつけた。
やはり、辰は、ここでも邪魔者だった。




