御守り ※20260225加筆修整
日左衛門がはしゃぎ疲れて眠ると、老婆は辰を控えの間へ連れて行った。
一間の隅に、座布団が一枚、きちんと畳まれて出されていた。辰が立ち尽くしていると、老女により「お座りなさい」と促された。辰は生まれて初めて、座布団を敷いて座った。柔らかなものを下敷きにしていると思うとすわりが悪く、そわそわしてしまう。
「若君がお呼びになるまで、こちらでお待ちなさい」
老女はそう言うと、障子の向こう、すやすやと寝息を立てる日左衛門のもとへ戻って行った。
辰は膝の上で指を組み、ほどけぬように力を入れる。座敷の方から、ときおり、乾いた咳の音が聞こえる。そのたび、身体が強張った。
――呼ばれるか?
呼ばれるか、呼ばれないか。わからない間は、心が休まらない。
控えの間の空気は、どこか張りつめている。
誰も辰に話しかけず、誰も追い払わない。
しばらくすると、一人の女が、盆に乗せた茶碗を運んで来た。
一礼し、辰の前に置く。
礼を言うべきだったのだろう。けれど、辰は何も言えなかった。
女は怪訝な顔をしたものの、何も言わずに去っていった。
湯気とともに、微かな金気が立ちのぼる。それは、血の香を彷彿とさせた。辰にとって、何よりも馴染み深い香。
白湯を飲んだことはない。それでも、熱いものに触れると痛い目に遭うことは知っていた。火傷の痛みは後を引くことも。
茶碗のなかの白湯を見つめながら、辰はここにいる意味を考える。自分は、何のために連れてこられたのかを。
――ここの若君……日左衛門の病を治すため
呼ばれなければ、何もできない。しかし、呼ばれたとしても、何ができるのだろう。病を治すなんて、一体、どうすれば。
再び、咳の音が聞こえた。
今度は少し長く、苦しそうだ。
辰は思わず身を乗り出しかけ、そこで止まる。
女たちの視線が、辰に集まっていた。
「お呼びになりましたら」
誰かが、そう念を押し、辰を座布団に押し戻した。
老女が控えの間に顔を出したのは、昼過ぎのこと。
忙しなく動く女たちの間を縫って、辰の前に来る。
「辰や」
辰は立ち上がろうとして、老女に手で制された。
「そのままでよい」
老女は一度、座敷の方――若君のいる方を見やる。
障子の向こうは静かだが、いつ咳が響くか知れない。
「若君がお召しになるやもしれぬ。いつお呼びになるかわからぬでな。心構えをしておいで」
老女はそれだけ言うと、辰の背を軽く撫でた。
「よいな」
辰は頷いた。
老女が去ると、控えの間に残った空気が、少し重くなる。
ある女は目を伏せたまま座布団を整え直し、別の女は空の盆を手に取って立ち去った。
誰も辰を見ない。
――いつでも呼ばれる心構えでいないといけない
辰は背筋を伸ばす。太腿や脹脛が、締め付けられるように痛むが、正座は崩せない。
こんなに長時間、正座を続けたことはなかった。母も祖父母も、辰のもとに長居することはなかったから。
控えの間は静かだ。
静かすぎて、若君の座敷から聞こえる小さな物音が、まるで自分に向けられた合図のように思えてしまう。
呼ばれたら、すぐに行く。
呼ばれなければ、ただ待つ。
その境目のない場所に、辰は据え置かれたままだった。
控えの間では、女たちが静かに仕事をしている。
衣桁の前で、若君の小袖を確かめる者。
糸のほつれを見つけては、音を立てぬよう針を進める者。
薬湯の椀を布で包み直し、盆に並べ替える者。
どれも、急ぐでもなく、怠るでもなく。
長年、同じことを繰り返してきた手つきだった。
辰は、その様子をぼんやりと眺めていた。
誰も無駄口を叩かない。
必要な言葉だけが、小さく行き交う。
「……湯は、少し冷ました方がよろしいでしょうか」
「ええ、先ほどは咳が続いておりましたから」
障子の向こうを気にしながらの会話。
若君次第ですべてが変わる。
女の一人が立ち上がり、炭を足すために火鉢へ向かう。
炭を置く音が、控えめに鳴る。
その音ですら、辰には少し大きく聞こえた。
障子の向こうで、日左衛門の声がする。衣擦れの音が近付いてくる。
女房たちの手が、一斉に止まった。
障子が開き、老女が顔をのぞく。
「辰や、若君がお呼びです」
そうして、辰の新しい暮らしが始まった。
辰の役目は、日左衛門に呼ばれれば傍らに侍り、意味を汲み取れぬ言葉にも、ただ相槌を打つこと。声をかけられぬ間も、いつ声をかけられても良いように、控えることだった。
日左衛門の座敷に呼ばれると、座る場所は決まっていた。布団の脇、少し下手。近すぎず、遠すぎず。そこに据えられることが、この家の均衡を保つために望まれているのだと、肌で感じていた。
辰は、日左衛門の「御守り」だった。誰が言い出したわけでもないが、屋敷の者たちの目に、辰はもはや人間として映っていないだろう。厄除けの置物か何か、その程度の器だった。
「兄者。ここでの暮らしに、不自由はありませんか? 何か困っていることがあったら、わしに言ってください。改めさせますゆえ」
日左衛門は、病の熱を帯びた瞳で、じっと辰の顔を覗き込み、問い掛けてくる。
改める、とは何をだろうか。辰には思い当たることがないわけではない。けれど、それを言い出せば、この贅を尽くした箱庭そのものを、そして何より日左衛門という存在を否定することになる。
結局、喉の奥にせり上がった言葉を押し戻し、首を振ることしかできない。すると、日左衛門は花が綻ぶように微笑んだ。
「そうですか。では、よかった」
それからも、日左衛門は飽きることなく、辰を呼び寄せ続けた。
どこで育ったのか、好きなものはあるか。辰にとっては、どれも底の抜けた問いだった。沈黙が長くなると、日左衛門は首を傾げる。責める色はない。ただ、自分と同じ「童」という生き物が、なぜ空っぽなのかが理解できないという、純粋で残酷な顔をする。
そのたび、控えていた老女が静かに助け舟を出した。
「若君、辰はまだ勝手がわかりませぬ。少しずつでよろしゅうございます」
その言葉に、日左衛門はたちまち唇を尖らせる。彼は己の為すことに口出しされるのを、何より嫌うようだ。
「急かしてはいけないんだろう? ばばに言われずとも、わかっておるぞ。ねぇ、兄者。わしは、兄者を急かしていませんよね?」
辰は答えられない。何を言っても正解を外してしまいそうで、口を開くのが怖かった。
五日が過ぎた頃、日左衛門は熱を出して寝込んだ。
辰は控えの間の片隅で、文字通り地蔵のように凝然としていた。慌ただしく出入りする奥向きの女たちの衣擦れの音を聞きながら、その邪魔にならぬよう、影に紛れるように身を縮めていた。
その三日後、辰は再び日左衛門に呼ばれた。
老女が甲斐甲斐しく世話を焼く中で、日左衛門は青白い額に脂汗を浮かべ、苦悶に耐えながらも、辰の姿を認めると、薄く唇を震わせた。
「兄者……退屈では、ありませんか」
喘鳴に辛うじて引っ掛かったような、今にも千切れそうな声だった。
「わし、あまり、お構い出来なくて……。今も、あまり、お話し、出来ないかも……」
辰は慌てて首を振った。
退屈かどうかなど、贅沢な悩みは持ち合わせていない。むしろ、問いかけられない時間は、辰にとって唯一息がつける安息だった。答えられない問いに追い詰められずに済む。自分を偽らなくて済む。
「そうですか……」
日左衛門は安心したように目を細める。
「なら……今しばらく、一緒にいてくれますか」
辰は、吸い寄せられるようにその側に座り、動かなかった。
――役に立たねば
ここで辰に出来ることは、ただ「在ること」だけだ。辰は日左衛門の「御守り」なのだから。
しかし、その「御利益」は一向に現れず、日左衛門の容体は目に見えて悪化していった。
それなのに、日左衛門はなおも辰に希望を託して微笑む。
「大丈夫です……兄者が一緒にいてくれるから……すぐに、良くなる」
その言葉は、祈りなのか。願いなのか。あるいは、逃げ場を塞ぐ「期待」という名の呪いなのか。
辰は、答えを出すのを放棄するように、ただ、頷くしかなかった。




