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月兎取月  作者: 銀ねも
30/45

御守り ※20260225加筆修整

 日左衛門がはしゃぎ疲れて眠ると、老婆は辰を控えの間へ連れて行った。


 一間の隅に、座布団が一枚、きちんと畳まれて出されていた。辰が立ち尽くしていると、老女により「お座りなさい」と促された。辰は生まれて初めて、座布団を敷いて座った。柔らかなものを下敷きにしていると思うとすわりが悪く、そわそわしてしまう。


「若君がお呼びになるまで、こちらでお待ちなさい」


 老女はそう言うと、障子の向こう、すやすやと寝息を立てる日左衛門のもとへ戻って行った。


 辰は膝の上で指を組み、ほどけぬように力を入れる。座敷の方から、ときおり、乾いた咳の音が聞こえる。そのたび、身体が強張った。


 ――呼ばれるか?


 呼ばれるか、呼ばれないか。わからない間は、心が休まらない。


 控えの間の空気は、どこか張りつめている。

 誰も辰に話しかけず、誰も追い払わない。


 しばらくすると、一人の女が、盆に乗せた茶碗を運んで来た。

 一礼し、辰の前に置く。


 礼を言うべきだったのだろう。けれど、辰は何も言えなかった。


 女は怪訝な顔をしたものの、何も言わずに去っていった。


 湯気とともに、微かな金気が立ちのぼる。それは、血の香を彷彿とさせた。辰にとって、何よりも馴染み深い香。

 白湯を飲んだことはない。それでも、熱いものに触れると痛い目に遭うことは知っていた。火傷の痛みは後を引くことも。


 茶碗のなかの白湯を見つめながら、辰はここにいる意味を考える。自分は、何のために連れてこられたのかを。


 ――ここの若君……日左衛門の病を治すため


 呼ばれなければ、何もできない。しかし、呼ばれたとしても、何ができるのだろう。病を治すなんて、一体、どうすれば。


 再び、咳の音が聞こえた。

 今度は少し長く、苦しそうだ。

 辰は思わず身を乗り出しかけ、そこで止まる。

 女たちの視線が、辰に集まっていた。


「お呼びになりましたら」


 誰かが、そう念を押し、辰を座布団に押し戻した。


 老女が控えの間に顔を出したのは、昼過ぎのこと。

 忙しなく動く女たちの間を縫って、辰の前に来る。 


「辰や」


 辰は立ち上がろうとして、老女に手で制された。


「そのままでよい」


 老女は一度、座敷の方――若君のいる方を見やる。

 障子の向こうは静かだが、いつ咳が響くか知れない。


「若君がお召しになるやもしれぬ。いつお呼びになるかわからぬでな。心構えをしておいで」


 老女はそれだけ言うと、辰の背を軽く撫でた。


「よいな」


 辰は頷いた。


 老女が去ると、控えの間に残った空気が、少し重くなる。

 ある女は目を伏せたまま座布団を整え直し、別の女は空の盆を手に取って立ち去った。


 誰も辰を見ない。


 ――いつでも呼ばれる心構えでいないといけない


 辰は背筋を伸ばす。太腿や脹脛が、締め付けられるように痛むが、正座は崩せない。


 こんなに長時間、正座を続けたことはなかった。母も祖父母も、辰のもとに長居することはなかったから。


 控えの間は静かだ。

 静かすぎて、若君の座敷から聞こえる小さな物音が、まるで自分に向けられた合図のように思えてしまう。


 呼ばれたら、すぐに行く。

 呼ばれなければ、ただ待つ。

 その境目のない場所に、辰は据え置かれたままだった。


 控えの間では、女たちが静かに仕事をしている。

 衣桁の前で、若君の小袖を確かめる者。

 糸のほつれを見つけては、音を立てぬよう針を進める者。

 薬湯の椀を布で包み直し、盆に並べ替える者。

 どれも、急ぐでもなく、怠るでもなく。

 長年、同じことを繰り返してきた手つきだった。

 辰は、その様子をぼんやりと眺めていた。


 誰も無駄口を叩かない。

 必要な言葉だけが、小さく行き交う。


「……湯は、少し冷ました方がよろしいでしょうか」

「ええ、先ほどは咳が続いておりましたから」


 障子の向こうを気にしながらの会話。

 若君次第ですべてが変わる。


 女の一人が立ち上がり、炭を足すために火鉢へ向かう。

 炭を置く音が、控えめに鳴る。

 その音ですら、辰には少し大きく聞こえた。


 障子の向こうで、日左衛門の声がする。衣擦れの音が近付いてくる。

 女房たちの手が、一斉に止まった。


 障子が開き、老女が顔をのぞく。


「辰や、若君がお呼びです」


 そうして、辰の新しい暮らしが始まった。


 辰の役目は、日左衛門に呼ばれれば傍らに侍り、意味を汲み取れぬ言葉にも、ただ相槌を打つこと。声をかけられぬ間も、いつ声をかけられても良いように、控えることだった。


 日左衛門の座敷に呼ばれると、座る場所は決まっていた。布団の脇、少し下手。近すぎず、遠すぎず。そこに据えられることが、この家の均衡を保つために望まれているのだと、肌で感じていた。


 辰は、日左衛門の「御守り」だった。誰が言い出したわけでもないが、屋敷の者たちの目に、辰はもはや人間として映っていないだろう。厄除けの置物か何か、その程度のうつわだった。


「兄者。ここでの暮らしに、不自由はありませんか? 何か困っていることがあったら、わしに言ってください。改めさせますゆえ」


 日左衛門は、病の熱を帯びた瞳で、じっと辰の顔を覗き込み、問い掛けてくる。


 改める、とは何をだろうか。辰には思い当たることがないわけではない。けれど、それを言い出せば、この贅を尽くした箱庭そのものを、そして何より日左衛門という存在を否定することになる。


 結局、喉の奥にせり上がった言葉を押し戻し、首を振ることしかできない。すると、日左衛門は花が綻ぶように微笑んだ。


「そうですか。では、よかった」


 それからも、日左衛門は飽きることなく、辰を呼び寄せ続けた。


 どこで育ったのか、好きなものはあるか。辰にとっては、どれも底の抜けた問いだった。沈黙が長くなると、日左衛門は首を傾げる。責める色はない。ただ、自分と同じ「童」という生き物が、なぜ空っぽなのかが理解できないという、純粋で残酷な顔をする。


 そのたび、控えていた老女が静かに助け舟を出した。


「若君、辰はまだ勝手がわかりませぬ。少しずつでよろしゅうございます」


 その言葉に、日左衛門はたちまち唇を尖らせる。彼は己の為すことに口出しされるのを、何より嫌うようだ。


「急かしてはいけないんだろう? ばばに言われずとも、わかっておるぞ。ねぇ、兄者。わしは、兄者を急かしていませんよね?」


 辰は答えられない。何を言っても正解を外してしまいそうで、口を開くのが怖かった。


 五日が過ぎた頃、日左衛門は熱を出して寝込んだ。


 辰は控えの間の片隅で、文字通り地蔵のように凝然としていた。慌ただしく出入りする奥向きの女たちの衣擦れの音を聞きながら、その邪魔にならぬよう、影に紛れるように身を縮めていた。


 その三日後、辰は再び日左衛門に呼ばれた。


 老女が甲斐甲斐しく世話を焼く中で、日左衛門は青白い額に脂汗を浮かべ、苦悶に耐えながらも、辰の姿を認めると、薄く唇を震わせた。


「兄者……退屈では、ありませんか」


 喘鳴ぜんめいに辛うじて引っ掛かったような、今にも千切れそうな声だった。


「わし、あまり、お構い出来なくて……。今も、あまり、お話し、出来ないかも……」


 辰は慌てて首を振った。


 退屈かどうかなど、贅沢な悩みは持ち合わせていない。むしろ、問いかけられない時間は、辰にとって唯一息がつける安息だった。答えられない問いに追い詰められずに済む。自分を偽らなくて済む。


「そうですか……」


 日左衛門は安心したように目を細める。


「なら……今しばらく、一緒にいてくれますか」


 辰は、吸い寄せられるようにその側に座り、動かなかった。


 ――役に立たねば


 ここで辰に出来ることは、ただ「在ること」だけだ。辰は日左衛門の「御守り」なのだから。


 しかし、その「御利益」は一向に現れず、日左衛門の容体は目に見えて悪化していった。


 それなのに、日左衛門はなおも辰に希望を託して微笑む。


「大丈夫です……兄者が一緒にいてくれるから……すぐに、良くなる」


 その言葉は、祈りなのか。願いなのか。あるいは、逃げ場を塞ぐ「期待」という名の呪いなのか。


 辰は、答えを出すのを放棄するように、ただ、頷くしかなかった。

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