過ち
辰は戸惑った。
日左衛門は辰を打ったり、突き飛ばしたり、掴みかかったりするつもりはないようだ。
——なら、なぜ、触れる?
日左衛門の手の感触は、しっとりとして、なめらかで、やわらかかった。辰の手に触れた日左衛門は、正反対の感想を抱いただろう。
日左衛門らしい手だった。爪は短く切りそろえられ、傷一つない。大切に守られてきたことがよくわかる。一方、指先は雪のように真白くひやりとしており、まるで血が通っていないかのようだった。ほんのりと薬の匂いが染みついている。
日左衛門の手は、辰の手をそっと握っている。奥ゆかしい力加減である。暴力ではなく、触れることが目的だとしても、先ほどまでの日左衛門の言動を思えば、遠慮なくぎゅっと握りしめそうなものなのに。
そろそろと目を上げると、日左衛門と目が合った。日左衛門は満面の笑みを浮かべている。
それを見て、辰ははたと気が付いた。
ーーこの子は、ぎゅっと握ってるつもりなんだ
日左衛門は非力なのだ。箸より重いものなど、持ったことがないに違いない。持たずに済むよう、世話をされ、守られてきたのだろう。
辰がされるがままでいると、日左衛門は辰の手やら腕やら肩やらを、ぺたぺたと触った。それから、目をぱちくりさせる。
「思ったより小さいな。わしより、痩せてるんじゃないか? 食べたくなくても、ちゃんと食べなきゃ、いけませんよ。ばばはいつも、わしにそう言うのです。なぁ、ばば?」
日左衛門は傍らの老女に同意を求める。
老女が曖昧に頷くと、日左衛門は神妙な顔をして、辰に向きなおった。
「……兄者、ようお聞きなさい。ばばはいつも心配ばかりで、しつこくて、うんざりすることもあります。でも、それはわしを慕ってくれるからだって、母様が仰っていました」
そこで、日左衛門は少し眉根を寄せた。言葉を探しているようだった。短い沈黙の後、日左衛門はふたたび辰の手をとる。ふんわりと包み込むような手つきだった。
「ばばの気持ちが、今ならわかる気がします。わしは兄者が心配です。兄者が話さないのも、痩せているのも……心配なのです」
そう言って、日左衛門は微笑む。優しい微笑みだ。それ以上に優しい眼差しを、主人と老女は日左衛門に注いでいた。しつこいと貶された老女も、言いつけを撥ねつけられた主人も、日左衛門を見守り、慈しんでいる。
辰は、母や祖父母を貶したことも、言いつけを撥ねつけたこともない。それでも、こんな風に慈しまれることは叶わなかった。あの夜だけが特別だった。
ーーこの子と辰と、なにがそんなに違う?
日左衛門は、何をしても許される。何をしていても、慈しまれる。日左衛門の役目は、生きているだけで果たされる。
ーー何もかも、違うか
きっと、比べることさえ烏滸がましい。
ーー辰は、母さまの役に立てなかった
その事実が、すとんと腑に落ちた。
辰は主人に目を向けた。主人は咳き込む日左衛門の背を撫でていて、辰の無遠慮な視線にも気付かない。
銀狼屋の主人はーーこの男は、辰の父ではない。この男は、母の心身を踏み躙った。辰の父は、母の許嫁だった男だ。母がそう言った。
だから、辰は日左衛門の兄ではない。
辰は目を伏せた。そして、目を上げる。
日左衛門が、辰を見つめている。
その目が、雄弁に物語っている。
辰を信じている。辰が役目を果たすことを、信じて疑わない目だ。
――あの夜……母さまも、こんな目をしていた
母はこの目で辰を見つめて、期待して、縋りついて。そして、失望した。
ーー違うと言ったら、この子も、母さまと同じ顔をするだろうか
辰が役に立たないと知ったとき、憎悪に満ちた目を辰に向けるのか。
想像した途端、辰は何も言えなくなった
代わりに、わずかに、ほんのわずかに、頷いてしまった。
それを見て、日左衛門は心から嬉しそうに笑った。
「よろしくな、兄者」
まるで、ずっと欲しかったものを、ようやく手に入れたかのような笑顔だった。




