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月兎取月  作者: 銀ねも
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 ところが日左衛門は、ふたりの間にある垣根をものともせず、屈託なく語りかけてくる。


「わしな、兄者に会える日を、ずっと夢に見ていたのです」


 そう言われても、辰はどうしていいかわからない。ただ、日左衛門を見返すことしか出来ない。


 日左衛門は立て板に水のように話し続ける。


「父さまが教えてくださいました。兄者が来てくれたら、わしの病は治るって」


 ーー治る?


 その言葉が、辰の中で遅れて形になる。


 ーー辰が、この子を治す?


 どうやら、辰に期待されているのは、そういう役目らしい。

 病を治さなければならない。そうしなければ、役に立てない。


 ——治すって……どうやって?


 辰にそんな神通力は具わっていない。母は心を病んだまま、死んだ。病を治す力があるのなら、母の病んだ心を癒したかった。 


 黙り込む辰に代わり、主人が応えた。


「……そうだ。この子がお前の兄だ。名を辰という」


 辰の名を聞き、日左衛門は目を輝かせた。


「辰兄者か」


 声を弾ませて、辰を手招きする。


「兄者、こちらへ」


 辰は凝然として動かない。日左衛門に逆らってはならないと察しているのに、動けなかった。


 辰の鈍さを見兼ねたのか。主人が辰を見やり、顎をしゃくった。


「近くへ行け」


 辰ははっと我に返った。


 これは命令だ。命令なら、従うしかない。


 辰は立ち上がり、手繰り寄せられるような足取りで、布団に近寄って行く。


 裸足に伝わる畳の感触が、妙に柔らかい。歩を進めるごとに泥濘に沈んでゆくような錯覚に囚われる。


 意識して歩幅を小さく刻んでみる。だが、たいした時間は稼げず、日左衛門の傍らに辿り着いてしまった。主人は立ち尽くす辰を打ち見て「座れ」と短く命じた。


 そろりと腰を下ろすと、それを見た日左衛門が、満足そうに頷いた。軽く咳払いをすると、背筋を伸ばし、居住まいを正す。


「わしの名は日左衛門と申す」


 童の口から転び出たとは、にわかには信じ難い名乗りである。

 付け焼き刃ではなく、板に付いている。


 相手が名乗れば、己も名乗るのが礼儀というもの。しかし、当時の辰にそのような嗜みはなかった。

 ただ、ぽかんとして日左衛門を見つめる。


 日左衛門は不思議そうに小首を傾げた。

 膝に置いた手は落ち着かず、掛布をきゅっと握った。


 ーーそろそろ飽きてくれないか


 辰が漫然とそう考えていることを、日左衛門は知る由もなかろう。


 ややあって、日左衛門は悪戯っぽく笑い、辰のほうへ身を傾けてきた。


 硬直する辰の額に額を寄せて、囁く。


「わしも父さまの子だ。兄者の弟だぞ!」


 日左衛門は微笑む。とっておきの秘密を打ち明けたと言わんばかりだ。


 こう言われれば、辰は必ず喜ぶ。

 そう、信じて疑わない、曇りなき眼が辰を見つめている。


 ーー辰が、あの男の息子?


 その可能性を挙げるだけめ、かつて、一度だけ与えられた母のぬくもりを、奪われてしまうような気がした。


 血が、一気に頭へと上った。胸の奥に滾るものが、突き上げてくる。

 常に冷ややかな諦念に身を置いていた辰にとって、それは未知の感覚だった。


 ーー違う、辰の父さまは、母さまの好いたおひとだ


 そう思っても、口には出せない。今の主人は、祖父と同じ目を辰に向けている。余計なことをするなと言っている。


 老婆は物言いたげな目で主人を見たが、主人が老婆に視線を移すと、すぐに慎ましく目を伏せた。


 辰は否定も肯定もできない。日左衛門の目には、ぼうっとしている、おかしな兄に見えるだろう。日左衛門は首を傾げて、主人に顔を向けた。


「父様、兄者はどうして何も言わないのですか? 耳は聞こえますよね?」

「……耳は聞こえるし、口もきける。ただ、気を張っておるのだろう」


 主人はそう言って、辰を流し見る。辰は俯き口を噤んだ。何か言えと命じられたなら、何と言うべきだろう。と、鉄輪で締め付けられるように痛む頭で考える。


 しばらくして、日左衛門が身を寄せてくる。身を固くする辰の右手を両手で取った。


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