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月兎取月  作者: 銀ねも
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盗み聞き

 屋敷は、辰が思っていたより遥かに広かった。


 奥座敷を離れ、坂をくだる。犬舎の方へ進むにつれ、空気の質が目に見えて変わってゆく。


 屋敷の裏手、わずかに低くなった場所に犬舎いぬやはあった。

 そこは、奥座敷の静謐とはまるで別の世である。


 土塀に囲まれた広い地面には、頑丈な太い木柵で仕切られた檻が並ぶ。その奥から、獲物を求め荒ぶる獣たちの、血腥い息遣いが漏れ聞こえてくる。


 地面には調教用の厚い革紐が無造作に転がり、犬を繋ぐための錆びた鉄輪が幾つも打ち込まれている。

 剥き出しの土は、獣たちの爪で無数に抉られていた。


 立ちこめる獣臭。男たちの蛮声。


 日左衛門が、辰を遣いに出した理由が、すとんと腑に落ちた。奥向きの女たちをこのような場所に行かせては、日左衛門が奥方に叱られるだろう。


 辰が土塀に沿って歩いていると、数人の犬飼たちが車座になり、竹筒に入った濁酒どぶろくを回し飲みしているのが見えた。


 堂々とその前を通り過ぎるのは憚られる。辰は思わず、積み上げられた薪の陰に隠れた。


「嘆かわしいことよ」


 一人が、足元の土へ唾を吐き捨てた。


「あのような愛嬌ばかりの蹴鞠犬が、『銀狼』の名を継ぐとはな。先代の勇姿を知る者からすれば、もはや冗談にもならりゃしねぇ」

「致し方あるまい」


 年嵩の男が、苦々しい顔で肩をすくめた。


「若君の細い腕でも扱えるよう、牙を抜き、這いつくばるように仕込んだのだろうよ。旦那様みずからが、な」


 干し肉の塊を小刀で削っている男が、肉の欠片を口に放り込み、鼻で笑った。


「銀狼屋の嫡男が、犬の糞一つ拾わず、一度も噛まれもせず、銀狼の主を名乗るとは」


 肉を噛みしだきながら続ける。


「犬舎へ出りゃあ、荒犬に喉笛を咬み裂かれるぞ」


 男たちはくぐもった笑い声で同調した。

 年嵩の男が頭を振る。


「それもまた致し方あるまい。あのお身体では、犬を伏せさせる前に、ご自身が倒れてしまわれる」


 しばし、無言が続いた。

 やがて、小刀を研いでいた男が手を止め、声を潜めた。


「しかし旦那様も、おいたわしいことよ。あの御方も、若い頃は血気盛んなお人であったと聞くが……今や奥方様には何一つ逆らえぬ」

「無理もあるまい」


 干し肉を削りつつ、男が鼻を鳴らす。


「奥方様は城の御台様の、一つ腹の妹君だ。病弱ゆえ身の丈に合わぬ銀狼屋へ“格下げ”で嫁がれたとは申せ、そのご出自は雲の上。その血を引く若君を、もし粗略にでも扱えば」


 男は小刀で空を斬った。


「犬飼の首なんざ、一発で飛ぶ」


 年嵩の男が黙って頷く。


「元はといえば、雪乃姫が獣好きだのなんだのって話でな。御台様は旦那様を呼び付けて、『犬を見せてやれ』ときたもんだ。それが、この縁の始まりよ。旦那様にとっては、もはやまつりごとの一つだ」

「まったくだ」


 小刀の刃に映る光を眺めながら、男は気怠げに笑った。


「奥向きも、奥方様があちら様から連れてきた者ばかり。あそこは銀狼屋じゃねぇ。奥方様の小さな御所よ。……だから誰も逆らえねぇ」

「そりゃ、そうだ。奥方様の不興を買えば、あの娘の二の舞いだからな。あんな末路は、誰だってごめんだろうぜ」


 干し肉をくちゃくちゃと咀嚼しながら、男が吐き捨てるように言う。

 年嵩の男の、酒を口に運ぶ手がぴたりと止まった。


「よせ」


 その一言は鞭声のように鋭く弾けた。

 男が口の中のものを飲み込む。それ以上は、何も言わなかった。車座の中に、犬のうなり声さえ消えるような、重苦しい沈黙が降りる。


 ——この男たちは、奥方様を、恐れている?


 辰は薪の隙間から、わずかに眉根を寄せた。


 どうにも、腑に落ちない。


 奥座敷の薄光うすぐらがりの中で、病に苦しむ日左衛門に寄り添う慈母。

 あの細い指で、金継ぎの跡をなぞるかのように、我が子の頬を撫でていた。

 あの細い声で、消えゆく灯火ともしびを繋ぎ止めようとするかのように、我が子の名を呼んでいた。


 あの手弱女を、荒くれ者たちはなぜ、恐れるのか。

 風に晒されたら折れてしまいそうな、儚げな女人を。


 ――あのひとが、恐ろしいはずがない


 子を想う母なのだ。それ以外の何者でもないはずだ。


 その慈愛の眼差しの先にいる子は、あんなにも幸せそうに、笑うのだから。


 ――辰には、一度として向けられたことのない、眼差しだった


 辰は、自分の影が落ちる、踏み固められた地面を見つめた。

 胸の奥に、得体の知れぬ渇きが広がっていく。


 ――いけない。考えるな。辰は抜け作なんだから。考えるだけ、無駄だ


 ゆるゆると頭を振って、顔を上げた。そのときだった。


 年嵩の男の視線が移ろう。

 辰が身を隠している薪の山の方へ向けられる。


 辰は息を詰めた。

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