守られる子
やがて咳は治まり、あたりはしんと静まり返る。
主人は細く長く息を吐き、障子に手をかけた。
その場に立ち尽くしていた辰を一瞥する。
「座れ」
低く命じられ、辰ははっとして膝を折った。
一拍置いてから、主人は音を立てぬよう、静かに障子を引く。
奥座敷は畳敷きで、几帳と屏風が風を遮るように配されている。麗らかな日差しが、畳の目をぼんやりと浮かび上がらせる。
辰は主人の影に身を寄せて隠れた。
座敷の中央には、夜着を重ねられた童が、老女に背を支えられ、布団の上で半ば身を起こしている。
掛布は二重にされ、足元にはさらに綿が足されていた。
痩せ細った身体は、夜着を重ねて着ても誤魔化しようがない。
辰は顔を上げすぎないように気を付けながら、その顔を盗み見た。
表情は豊かで、生気がある。しかし、顔色は蒼白い。病んだ色だった。
枕許には薬湯の椀が置かれ、ほのかに香の煙が立ちのぼっていた。
咳は治まっているものの、肩は小さく上下し、呼吸は浅い。
ーー今にも壊れそうだ。でも、壊れないよう、守られている
辰にはそう見えた。
それも、過分なほど
丁重に。決して損なってはならぬ、脆きものとして。
「日左衛門」
主人が声をかけると、童ーー日左衛門の病み疲れた顔が、ぱっと明るくなる。
「父さま!」
思いの外、溌剌としたその声に、辰は思わず身を竦めた。
起き上がろうとして、眩暈を起こしたのか。日左衛門の身体がぐらりと傾ぐ。倒れそうになる矮躯を、老女が慌てて支える。
「若君、どうかご無理をなさらぬよう」
日左衛門の背に手を添えて、老婆は言った。諭すというより懇願する口ぶりだった。
だが日左衛門は、老女の手をすげなく振り払う。
「大丈夫だってば、しつこいな! ばばはいつもそればっかりだ!」
主人は敷居の向こうに踏み入ると、むくれる日左衛門の傍らに腰を下ろし、その額に手を当てた。
「熱は……下がっておるな。だが、咳はまだ残っておるか」
「ほら! ばばがおおげさに騒ぐから、父さまも心配なさるんだぞ! ……大丈夫です、父さま。さっきも、そんなに苦しくありませんでした」
明るく取り繕う言葉とは裏腹に、その声は細く掠れていた。主人はそれを聞き逃さず、わずかに眉根を寄せる。
「横になれ。身体に障る」
その声は柔らかい。
叱るでも、命じるでもない。ただ、我が子の身を案じる親の声だった。
ところが、日左衛門は首を横に振る。
「大丈夫です。起きて、兄者をお迎えします。兄者は? ご一緒ではないのですか?」
「日左衛門。父の言葉が聞けぬのか」
「いやだ! 起きて待つ! 兄者に弱い弟だって思われたくない!」
父に窘められても、日左衛門は頑として首を縦に振らない。掛布を握る指には力がこもり、声は大きく波打ち、ついに癇癪を起こした。
ーー親の言いつけに逆らった
それは唯一つの結末に至る選択だった。
打たれる。酷く打たれる。
子が親に逆らえば、親は子を罰するものだ。
それを、辰は身をもって知っていた。
肩で息をする日左衛門から目が離せなくなる。
枯木のように痩せた身体。夜着に埋もれる細い首、薄い肩。
咳をするたびに、ぽっきり折れてしまいそうで、見る者の心をざわめかせる、弱々しさ。
ーー打たれたら、ひとたまりもない
折れる。砕ける。もう、もとには戻らない。
辰は恐る恐る主人を見上げた。次に起こることにそなえて、身構える。
張り上げられる怒声、振り上げられる手。
それが合図だ。あとは息を殺し、身を縮めてやり過ごさねば。
日左衛門が目の前で粉々にされたとしても、狼狽えてはならない。声を上げたり、身動ぎをしたりしてはいけない。巻き添えになったら、ただではすまない。
主人は母より大きい。力も強いに違いない。母の折檻には耐えられたが、主人の折檻には耐えられるか、わからない。
ところが、主人は日左衛門に手を上げなかった。それどころか、声を荒げることも、目の色を変えることもない。
こんこんと咳き込む日左衛門の背を撫で擦りながら、苦笑していた。
「やれやれ。こうと決めたら決して譲らぬ。その強情は母譲りだな」
主人は頭を振る。それ以上、何も言わない。
老女は夜着を畳み、日左衛門の背にそっと当てる。がっくりと肩を落とすが、責め詰ることはしない。
辰には理解できなかった。
同じように逆らったのが自分なら、どうなっていたか。考えるまでもない。
古傷がじくりと痛んだ。




