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月兎取月  作者: 銀ねも
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銀狼屋の嫡男

 

 銀狼屋の主人は、使用人に連れられて来た辰を見るなり


「ついて参れ」


 それだけ言って、辰に背を向けた。

 主人はさっさと歩き出したので、辰は小走りで主人の後を追った。


 銀狼屋の屋敷は、嗅ぎ慣れない匂いがした。

 乾いていて、やわらかな匂い。土と煤と湿り気の混じった、あの納屋の空気とは似ても似つかない。


 足裏に伝わる感触も違った。

 ひやりとはしているが、硬くはない。

 踏みしめても、跳ね返してこない。


 辰は、言われるままに歩いていた。

 歩けと言われれば歩く。

 止まれと言われれば止まる。

 それ以上のことは、考えない。


 言う通りにすれば、痛い目に遭わずに済むはずだ。


「この先だ」


 銀狼屋の主人の声が、低く落ちた。

 その声に、どこか抑えた響きが混じっているのを、辰は感じ取った。


 辰は顔を上げなかった。

 床板の境目を見つめたまま、立ち止まる。

 視界の端に、白い足袋が見えた。

 主人の足だ。


 その先に、目に見えぬ境界線があるようだ。


「これより、お前の主に引き合わせる」


 不意に、主人が言った。


「名を日左衛門という。我が家の嫡男だ。よく仕えよ」


 言葉は静かだったが、逆らう余地はなかった。


 辰は一瞬、その意味を量りかねた。

 主。

 そんなものが、自分に関わるとは、思ってもみなかった。


 主人は、それ以上何も言わない。

 ただ、歩みを落とした。


 辰もそれに倣い、抜き足、差し足で歩く。物音を立てずに動くのは得意だ。納屋で身についた癖が、ここでも役に立った。


 屋敷の奥へと進むにつれて、主人は、歩みをさらに緩めた。


 床板を踏みしめる足音が、ほとんど消える。

 さっきまでの早足ではない。慎重な足取りである。


 縁側に差しかかったところで、主人はひとつ息を吐いた。

 押し殺したその呼気は、辰の耳に辛うじて届く。


 やがて、主人は障子戸の前で立ち止まった。振り返りもせず、言い付ける。


「……物音を立てるな」


 辰は、小さく息を整えた。

 頷くことすら、音になりそうで、憚られる。


 主人はその場で腰を落とした。

 床に膝をつき、背をまっすぐ伸ばし、しばし動かない。


 辰は、その意味を、考えないことにした。

 考えても、きっとわからないだろうから。


 障子の向こうから、かすかな声が漏れてくる。


「ばば、まだか」


 喘鳴まじり、細く幼い声だった。

 老女の声がそれに応える。


「もうすぐでございますよ。ですから、横になってお待ちを」

「いやだ。起きて待つ」


 聞き分けのない言葉が、咳に変わる。

 乾いた、胸を内から削るような咳だ。


ーー中にいる子は、病んでいるのか


「ほら……また」


 老女の声は諭すようでいて、嘆くようでもあった。

 衣擦れの音がする。背をさすっているのだろう。


 咳が治まったあと、少しの間を置いて、また童の声がした。


「兄者は、どんなひとだろう」


 誰に向けたとも知れぬ言葉。

 その声は掠れていたが、弾んでもいた。


「父さまみたいに、強いのかな。外を走り回れて、銀狼とも遊べて……わしも、元気になったら、一緒に……」


 夢見るように紡がれた言葉は、途中で途切れた。童は激しく咳込み、主人の肩がびくりと跳ねる。

 老女の宥める声が、それを包み込む。童が咳込む間、主人は凝然と動かなかった。

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