第三十二話 『幸運な災難(二回目)と神様の禁忌(タブー)』
「失礼します。ただいま戻りました……って」
書斎の扉を開けると、物が乱雑に置かれた室内をメアリム爺がブツブツ呟きながら歩き回っていた。
「メアリム様?」
「ん? ああ、戻ったか」
老人は足を止めて俺を一瞥すると、再び不機嫌そうに顎髭を扱きながら書斎をうろつきはじめた。
……何だ? 今日はやけにご機嫌斜めだな。
「お城で先の事件の対応を協議する会議があったのです。そこで陛下に難しい問題を任されたとか」
俺の後に付いて爺さんを呼びに来たベアトリクスさんがそう言って苦笑いを浮かべた。
難しい問題? あの爺さんが難しい顔で頭かかえるなんて、相当だな。
「……旦那様、ラファエル様が応接間でお待ちです」
「ブルヒアルトの倅が? ……わかった。すぐ行く」
ベアトリクスさんの言葉に、メアリム爺は小さく溜め息をつくと、あっちに行っていろと手を払う仕草をする。
ベアトリクスさんは深く頭を下げ、書斎の扉をそっと閉めた。
「そう言えばカズマ様、ご帰宅早々お疲れのところ申し訳ございませんが、厩舎の掃除と竜巻号の手入れをお願いできますか? ご不在の間の世話が滞ってしまって」
俺の顔を見て、申し訳なさそうに言うベアトリクスさん。
「あれ、クリフトさんは?」
「クリフトは、あの日一度屋敷に戻ったあと、旦那様の指示で屋敷を出ました」
クリフトさん、帰ってきて顔が見えないから出掛けているのかとは思ったけど……そうだったのか。
やっぱりゲルルフを追ってるのだろうか。落ち着いたら爺さんに聞いてみよう。
「わかりました。今日中に綺麗にしておきます」
ベアトリクスさんには、そう笑顔で答えはしたが……三日間手付かずの厩舎か。どんな風になってるかな。
「ったく、随分汚しやがって……この駄馬」
俺は腰を伸ばしながら、繋ぎ場に繋がれてこちらを眺めている竜巻号にぼやいた。
厩舎に溜まった馬糞とおしっこが染みた敷き藁を掻き出し、荷車に載せて堆肥舎に放る。
それを何回か繰り返して綺麗にしたあと、箒ではわいて、干した清潔な麦藁を敷く。
この国に来てから毎朝の日課になっている作業だが、いつもより量が多いと疲れる。
後はこいつの体を綺麗にして、食事前に運動させなきゃな……なんて考えていると、嫌なものが見えた。
竜巻号の鼻が凄いことになっている。痒いのか、その表情は少し苛立って見えた。
ちっ……それも溜めてやがったか。
牧場でポニーの世話をしていた時、馬は鼻でしか息ができないって聞いたことがある。鼻づまりは人間が思うより深刻だ。
「……ちょっと待ってろ。今鼻を拭ってやる。暴れるなよ?」
俺の言葉を雰囲気で理解したのか、竜巻号は首を振って『ブルルっ』と激しく鼻を鳴らした。
と、背中に視線を感じた俺は、振り向いて眉を顰める。
少し離れた場所から一人の少女がこちらを見ていた。
屋敷の裏庭にある粗末な厩に佇む向日葵色のポールガウンドレスを纏った鮮やかな赤毛の淑女……綺麗だけど場違い感が半端ない。
「……何をなさってるんです? シャルロットお嬢様」
「……え? さ、散歩よっ! 散歩」
俺の問いにあからさまに動揺するシャルロットお嬢様。
散歩……ねぇ。
だからって、こんな場所に来ないだろ、普通。
前に来たときは乗馬服だったが、今はレースのドレスだ。裾が泥だらけになっちまう。
「……お兄様は宮中伯様と何か難しい話をされているし、一人でいるのは暇だから。悪い?」
「いえ、悪いとは言いませんけど」
戸惑う俺に、シャルロットお嬢様は少し怒ったような表情で唇を尖らせる。
「それよりも……ステラは側に居ないの?」
「アイツは屋敷に帰ったあと、すぐに寝ちゃいましたよ。監獄ではろくに眠れなかったみたいだし、久し振りの我が家で疲れが一気に来たんでしょう……呼びましょうか?」
俺は竜巻号の鼻を布で拭いてやり、ブラシで毛を整ながら問う。
だが、お嬢様は頭を振って肩を竦めた。
「いいわよ別に。なんかいつも一緒にいる感じだったから気になっただけ。馬車でもくっついてたでしょ? 彼女」
「いつもって……彼女とは数日前に知り合ったばかりですよ」
「ふぅん? それにしては祭りの時といい、さっきといい、随分あんたに懐いてたわね」
シャルロット嬢は俺の顔を覗くように近づいてくると、上目遣いで睨む。
「そんなことは……って、近いですよ、お嬢様」
馬の臭いを押し退けて少女の爽やかな香水の匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。
俺の指摘に、シャルロットお嬢様はさっと朱に染めて目を逸らす。
「う、馬が好きなのよ。勘違いしないで」
「そうですか」
「……でも、貴方が無事で本当によかった」
シャルロット嬢は俺の服を掴んで背中に額を押し付けてくる。
監獄の入り口で俺を詰った時とは違い、消え入りそうな程か細い言葉。
「すいませんでした。でも、お嬢様を無事に逃がす為には、俺よりも騎士であるルーファスにお嬢様を任せるのが一番だと思ったんです」
この言葉に嘘はない。
あの時ルーファスに足止めを頼んで俺がお嬢様と逃げていたら、多分二人とも無事ではなかった。根拠はないがそう思う。
ラファエルも言ってくれたが、あの判断は間違いじゃなかった。
「何が私を逃がすため、よ。私が……私だけが助かって、あんたが……し、しん……無事に帰れなかったら意味無いじゃない。馬鹿」
俺の服を握る力を強くして切々と語るシャルロット嬢。
竜巻号が彼女の言葉に同意するように歯茎を剥いて鼻を鳴らした。
「私をこんな気持ちにさせて……責任、取りなさいよね」
「責任を取るって、何です?」
俺は思わずブラシを取り落として少女に向き直った。
随分重い台詞が出たぞ? まるで俺がお嬢様の大事なものに手を出したみたいじゃないか。
シャルロット嬢は腰に手をあて、上目遣いで俺を見る。
「そうね……二人でいる時は、私の事を『お嬢様』って呼んだり侯爵令嬢扱いするのは禁止。ステラと同じように呼んで。あ、お母様からは『シャル』って呼ばれてたの。その名前で呼んでもいいわ!」
「えぇぇ……」
『シャル』って。それに何故そこでステラが出てくるんだ?
つまり、二人の時は『侯爵家のお嬢様』じゃなくて『シャルロットという女の子』として接して欲しい……ってことか。
まあ、分からなくもないが……その要求は俺じゃなくステラにするべきじゃ……
「わかった? カズマ」
「はぁ……分かりましたよ。お嬢様」
「むっ!」
溜め息混じりに俺が頷くと、シャルロットお嬢様はその整った眉を吊り上げて俺を睨み付けた。
……はいはい。
「分かったよ。シャル」
「よろしい」
苦笑いを浮かべる俺にシャルロットは満足げな笑みを浮かべて頷く。
全く、強引だな、お嬢様は。
その時、背中に『どんっ! 』強い衝撃を受ける。
なんてこった……油断した。そして失念していた。
あいつの鼻が一回拭った位で収まる筈がない事を。
っていうか、同じことが前にあったな。
不意を突かれてバランスを崩した俺は前につんのめり、反射的に肩を掴んで引き寄せる。シャルロットの細い体が俺の重みを支えきれる筈がなく……俺達はもつれるように地面に倒れた。
「大丈夫……ですか?」
「大丈夫じゃ無いけど、大丈夫よ」
倒れる瞬間にシャルロットの頭を庇ったが、結果として彼女を抱き締める形になってしまった。
爽やかな花の香がより強く香り、体の下にドレスを通して少女の細くてしなやかな肢体を感じる。
何より、胸に押し付けられた彼女の豊かで自己主張の強い膨らみが俺の心をざわつかせた。
鼻が触れあう程に顔が近付き、彼女の息が頬にかかる。
俺は思わず息を止めて、彼女の澄んだ瞳に映り込んだ俺の顔を見た。
互いに無言のまま見詰めあう……時間にして十数えるくらい。
と、シャルロットは翠の瞳をさ迷わせ目を伏せて逸らした。
「カズマ、早く退いて。重いわよ」
「うっ……すいません」
俺が慌てて飛び退くと、シャルロットの手を取って立ち上がらせる。
シャルロットは俯いたまま黙ってドレスの土を払った。その顔は耳まで真っ赤だ。
……気まずい。非常に気まずい。
「ふ、ふん……わざとじゃないのは分かっているから何も言わないわ。それに、カズマなら……順序なんて気にしないし」
彼女はポツリとそう言うと、踵を返して足早に去っていってしまった。
順序って、なんの順序だ。前から思ってたけど。
……
……
……
……
「で、嫌われたとウジウジしとるのか」
「……してません」
書斎の椅子に深く腰をかけ、ニヤリと悪そうな笑みを浮かべるメアリム爺を俺は憮然と睨み付けた。
メアリム爺とラファエルの会談が終わった後。屋敷に帰るシャルロットと話をしたが、特によそよそしさは感じなかった。
嫌われては……いないと思う。
「全く、今時エロゲでもそんなベタな事はせんぞ? このリア充め。もげてしまえばいいんじゃ」
「エロゲって。それに仮にも大賢者がネットスラングをリアルで使わないでくださいよ……ったく」
リアルでそのスラングを使う奴を初めて見たよ。本当にT大学の法学部目指してた苦学生なのか?
それに、リア充レベルなら爺さんの方が上じゃないか。
……って、そんなことはどうでもいい。
「それで、わざわざそんなことを言うために俺を呼んだ訳じゃないでしょう?」
「当然じゃ」
メアリム爺は顎髭を撫でながら表情を引き締め、声のトーンを落とした。
相変わらず切り替えが早いな。
「……あの日、英雄広場で何があったかは、クリフトから報告を受けた。その中で気になる事があってな」
メアリム爺はそこで一旦言葉を切り、俺に鋭い視線を向けた。
「お主、ゲルルフを魔法で退けたそうじゃが、間違いないか」
「はい……間違いありません」
経緯はどうあれ、魔法を使ってあの場を切り抜けたのは確かだ。クリフトさんにもバッチリ見られてるし、嘘をついても仕方ない。
メアリム爺は顎髭を撫でる手を止めて深い溜め息をつく。
「ふむ。確かにお主から魔力の気配を感じる……夏祭りに送り出すまでは感じなかったものじゃ。何があった?」
「それは……俺の力じゃゲルルフに全く歯が立たなくて。殺される寸前まで追い込まれたんです。でもその時……、そ……っ……?!」
なに……っ?!
俺は思わず喉元を押さえた。
言葉が出てこない。頭の中にすら言葉が浮かばない。この力を誰かから貰った。それは確かだ。
でも、そいつの名前が出てこない。頭が真っ白になり、額に嫌な汗が浮かんだ。
「成る程、『神の禁忌』か……厄介じゃの、カズマ」
狼狽する俺に、メアリム爺は納得したように頷くと『もういい』と仕草で示した。
『神の禁忌』……? 何だその単語。嫌な予感しかしないな。
「『神の禁忌』とは、神がもたらす奇跡、その秘密を守るために掛けられた言わば『呪い』じゃ。他人にそれを知らしめようとすれば、その者は言葉を失い、最悪命を落とすと言われておる」
命を……って、すごくヤバイ奴じゃないか。あの野郎、マジで鬼畜だな。クソッ!
「まあ、よい。お主が与えられた力、ワシが確かめてやる……言っておくが遠慮は一切せんぞ?」
爺さんはそう言うと、口許を歪めて笑った。
何をするつもりですか? 御老人。




