第十九話 『義兄弟の絆と男の矜持』
空に垂れ込めた鉛色の雲が炊き出しを始めた頃より厚く、低くなった気がする。
雨の気配を察したのか居住地の通りに人影は殆どなく、土を蹴る馬蹄の音と馬車が軋む音がやけに大きく響いていた。
色々あったが、炊き出しは何とか無事に終わり、後片付けを済ませた俺とクリフトさんは屋敷への帰路についている。
「急ぎましょう……雨の匂いが強くなってきました」
バルバの橋の拒馬を抜けた頃、鼻を鳴らして空気の匂いを嗅いだクリフトさんは、そう言ってトロンベに鞭を入れた。
いつもより強い鞭にトロンベは抗議するように小さく嘶いて足を速める。
運河の向こうに貧民窟を眺めながら、俺は隣に座る狼人の執事を横目に見た。
居住地でゲルルフとステラに会ってから、クリフトさんはいつもの微笑みが消え、時折思い詰めたような表情をするのだ。
俺の故郷風に例えれば、男でひとつで育てた大事な娘が不良とつるんでいる現場に出会したようなものだからな……
それにしても。
「クリフトさん、聞いていいですか」
「……? 何でしょう」
クリフトさんは小首を傾げて俺を振り向く。俺は少し躊躇って、遠慮がちに問うた。
「あの、ゲルルフという人は、何者ですか」
「……」
俺の問いに、クリフトさんは複雑な表情を浮かべた。
なんと答えるべきか、言葉を探しているような、そんな雰囲気で暫し沈黙したあと、彼はゆっくり口を開く。
「ゲルルフ・バルツァー……彼は、神の名に於いて契りを交わした私の義兄弟です」
悲しみと懐かしさが綯い交ぜになった表情でそう告げるクリフトさん。
「義兄弟……ですか」
義兄弟。任侠映画か三国志や水滸伝もののような古典でしか聞かない古めかしい言葉だが、この国にもそんな関係があるのか。
俺の微妙な反応に、クリフトさんは肩を竦めて苦笑いを浮かべる。
「同志の繋がりをより強固にするため、我々の神の名に於いて『兄弟』の契りを交わす……狼人の中でもとっくに廃れた風習です」
クリフトさんはそこまで言って言葉を切った。
と言うことは、クリフトさんとゲルルフは志を同じくする同志って事か。いや、同志『だった』のだろう。
「義兄弟の誓いは例え立場が変わっても、死が二人を別つまで消えることはありません……そして、どちらかが誓いを違えれば、もう一人は命を懸けてそれを正さねばならない……私とゲルルフはある誓いを果たすため、契りを交わしました。もう20年も前になります」
「その誓い……今は?」
あの時のゲルルフの様子からして、クリフトさんとゲルルフ、どちらかが誓いを違えたのだろう。
「私は今もあの時の誓いを忘れていません。恐らくゲルルフも。その為の『方法』と『在るべき姿』が違うだけ……そう思うのです」
不意に鼻の頭に冷たいものが当たった。
どうやらいよいよ降り始めたらしい。
俺は鼻の頭を袖で拭うと、淀んだ灰色の空を見上げた。
「その誓いって、朝俺に語ってくれたクリフトさんの夢ですか」
「そうですね……本当に身の丈に合わぬ誓いをしたものです」
「……いつか、分かり合えるといいですね」
確かに一人だけなら、身の丈に合わない大きすぎる夢かもしれない。
でも、多くの人が力を尽くせば、時間は掛かるかもしれないが、叶わない夢などない……そう思う。
クリフトさんは、その夢の切っ掛けになろうとしているのだ。決して無謀じゃない。
「……そうだとよいのですが」
そう言って寂しげに笑うと、クリフトさんは口をつぐんだ。
同じ方向を向きながら手段の違いで袂を別ったかつての同志と、父親への反発から相対する男の元に身を寄せる思春期の娘……か。
これがドラマなら何かの切っ掛けで分かり合えるのだろうが……現実はそう都合よくはない。
クリフトさんも辛く苦しいだろう。俺もクリフトさんが辛い思いをするのは嫌だ。
この人たちの為に俺ができることは無いんだろうか。
音もなく小雨が降り頻るなかを、馬車は少し足を早めて進む。
夕刻の帝都を覆う暗く陰鬱な空を見上げて、俺は深い溜め息をついた。
……
……
……
……
居住地の炊き出しの次の日。
俺は酒屋兼居酒屋『蒼き牡鹿亭』の、鹿の角を象った青い看板の前にいた。
帝都、中層市民街にある、旨い料理と可愛い看板娘が評判の人気店だ。
「ここ……なのか?」
俺はラファエルの手紙と地図を見ながら呟く。
今朝がたメアリム邸にやって来たブルヒアルト家の使者から手渡されたものだ。
ーー『頼みたいこともあるから夕の十八刻に来てほしい。待っている。なに、俺の馴染みの店だ。手土産は要らん』
手紙には短くそう記され、同封されていた中層市民街の地図には赤い印が付けられていた。
それがこの『蒼き牡鹿亭』なのだが……伯爵家の嫡子が贔屓にする店にしては庶民的すぎないか?
木戸の向こうからは居酒屋特有の喧騒と共に肉料理の香しい匂いが漂ってくる。
そう言えば、客として居酒屋に入るのは何年ぶりだろう。
特に大学を卒業してからは日々の生活費を稼ぐのに必死で、友人と飲み屋で騒ぐ余裕なんて無かったからなぁ……この国に来てからも仕事や勉強で飲みに出ることは無かったし。
ま、これも経験だな。異国の酒場……考えたら楽しみになってきたぞ。
俺は手紙と地図を懐に仕舞うと、蒼き牡鹿亭の木戸を開け中に入った。
「おう、時間通りだな。まあ、遠慮せずに掛けろ」
既にテーブルに付いて一杯始めていたラファエルが、俺を見つけて隣の席を指し示す。
店は繁盛しているようで、ところ狭しと並べられた長机やカウンターは仕事帰りの親父や兄ちゃん達で溢れていた。
アーチを組み合わせたような石造りの天井は思ったより高く、沢山の蝋燭やランプに照らされて店の中は意外に明るい。
大声で話し、笑い、酒場回りの旅芸人が奏でる軽快な音楽に合わせて歌い、時には踊る客。
その間をトレイに山盛りの料理と麦酒を載せた給仕の女の子が走り回る……
こんなに雑然とした店の中で一人の客を探すのは大変だろうと思っていたが……やはり伯爵家の御曹司ともなると黙っていても輝くものらしい。
店に入って暫くもしないうちに、奥の丸テーブルで優雅に葡萄酒を傾けるラファエルを見つけた。
「何とか迷わずに来られましたから……今日はお招きいただきありがとうございます。で」
席に座る前に取り敢えずラファエルに礼を言って、俺は彼と同じテーブルを囲む二人の人物に目を向けた。
「てっきりラファエル様と二人かと思いましたが」
「それは残念だったな。まあ、俺達もラファエルとは偶然一緒になったのだ」
ジョッキを呷りながら笑う赤銅色に日焼けした肌と黒髪の偉丈夫と、兎の焼き肉をつつきながら肩を竦めて笑う琥珀色の髪と青い瞳の人懐こそうな若者。
騎士団のロベルトと、前に決闘騒ぎで俺に絡んできたルーファスだ。
「そういうわけでは無いんですが、意外な顔に意外なところで会ったものですから驚いてしまって」
そう髪を掻きながら弁解する俺。
いや、正直なところラファエルと二人きりってのは乗り気じゃなかったのだ。
何せ相手は伯爵家の御曹司。いくら相手が庶民的で酒の席とはいえ、話が続く自信がなかった。
でも、共通の顔見知りが他にもいるなら何とかなりそうだ。
「カズマ、いい加減突っ立ってないで座れよ。それに、他人行儀な態度はよせ。遠慮しながらでは酒と料理の味が分かるまい?」
金糸のように滑らかな前髪を掻き上げ、涼しげに微笑むラファエル。
ほどなくして、俺の前に陶器で作られた麦酒の大ジョッキが運ばれてくる。
「さて……期せずしてこの四人が揃ったのだ。乾杯の前に、何か言うことはないか? アッカーマン男爵」
「……え? ……あぁ」
ラファエルに流し目を送られたルーファスは、テーブルを囲む面子を見渡して小さな声を上げた。
そして彼は自身の前に置かれた麦酒のジョッキを飲み干すと、俺に向かって勢いよく頭を下げる。
「……すまん。あの夜の侮辱を撤回し、謝罪する。済まなかった」
「いや、謝罪なんて」
素直に頭を下げられて、逆に俺は慌てた。仮にも貴族だ。それが無位無冠の平民に深々と頭を下げるなど……
「頭を下げるだけじゃ駄目か?」
「そうじゃありませんよ。ただ、貴族が平民に頭を下げるなど聞いたことがないのでビックリしただけです」
思わず素の言葉が出る。それを聞いたルーファスはムッとした表情をした。
「俺は貴族である前に騎士であり、そして男だ。自らに非があれば、相手が何であれ謝罪するのは筋だろう? おかしいか」
おかしくはない。自分に非があれば謝罪するのは人として当然のことだ。
まあ、言う割りには決闘騒ぎから随分時間が経っているが、それを今言っても仕方ない。
「いえ……分かりました。謝罪をお受けします。遺恨は一切残しません」
「そうか。良かったよ……気にはなっていたんだ。なかなか機会がなくてな」
俺の答えに、ルーファスは心底ほっとした表情をする。
「この男は腕は立つし、家族思いで性格も素直。その上人当たりもいい奴なんだが、反面気性が激しくてな。特に酒が入ると突っ走る所があるのだ」
ロベルトが苦笑しながらルーファスのフォローを入れた。
「だが、この前のは場所と相手が悪かったな。友人の誼みで新酒の宴に招待してやったのに、よりによって俺の妹に手を出すとは……俺が親父を宥めたから酒の席の戯れで済んだが、下手したら二度と当家の門をくぐれぬ所だぞ?」
「いや、本当にそれについては感謝しているし反省もしているさ」
呆れ顔のラファエルに、ルーファスはもう観念して欲しいと言わんばかりの表情をする。
まあ、人の家のパーティーで刃物を振り回して暴れたりしたら、どう謝っても出入り禁止になって文句は言えないが、酒の席の戯れで済ましてもらえるのは彼の人となりか。
「まあ、何はともあれ、これで気持ちよく酒が飲める。改めて乾杯といこう」
ロベルトがそう言ってジョッキを掲げる。俺も彼に倣って麦酒がなみなみと注がれたジョッキを掲げた。
「では……我等のこの縁に」
ラファエルはそう言って笑うとワイングラスを俺達のジョッキに合わせる。
「今日も無事に仕事を終えた事に感謝を込めて」
ルーファスも空のジョッキを掲げた。
「乾杯!!」
酒場に溢れる喧騒の中、俺たち四人のグラスが重なる音が響いた。




