5話 守る
心の中がざわつく。
頭は無意味に回る。
本来ならうんざりする状態も、今ならありがたい。
『よう。最低男。』
唯一気に入らないとすればコイツだけだ。
『女を泣かせて気持ちいいか。』
そんな訳ねえだろ。
『しかも自分の保身で。』
うるさい。
『この状況に感謝しなきゃな。』
なんで。
『振る理由ができた。』
……。
『何もなければ振る勇気もないくせに。』
……。
『離れていくのが怖くて自分から離れた。』
———そうだよ。悪いか。
ひたすらに罪悪感に向き合う時間は、地獄だった。
こんなことになるなら、出会わなければよかったのに。
——————
やっと夜になった。
何もできず、眠ることもできない1日は、異常に長かった。
母親と対峙していた時は少し違った。
自分と戦うことは、何よりの強敵かもしれない。
そしてここからが第二形態。
夜に来る徹夜明けの純粋な眠気は、睡眠薬を凌ぐ。
今日は右の手の甲をつねろうか。
買い込んだエナドリも底を尽きそうだ。
エナドリを一気飲みし、ガムを噛み、手の甲をつねる。
それでも瞼は下に落ちて、首は揺れる。
「はあ、はあ、はあ。危なかった。」
寝ることが怖くなって以降、眠ると呼吸が苦しくなって目覚める。
呼吸が止まったのかと思うほど、息が乱れる。
苦しさで言えば人生で一番だった。
LINEのトーク履歴を見返す。
何気ない会話。
そばにいて欲しいなんて、都合が良すぎる。
最後の通話の履歴が胸を刺した。
限界だ……。
もうだめだ……。
俺は床に倒れ込んだ。
——————
……眩しい。
目を開ける。
意識が戻る。
———ビクッ。
服が……。
2回目だ。
ただ違うことが一つある。
拳に痛みがない。
喧嘩しなかったのか。
不特定多数を襲っているわけではないのかもしれない。
ここ3日で2回。
条件は何だ。
必死で頭を回す。
服が違った2日は、精神的にかなり沈んでいた。
やはり精神的な落ち込みが、俺の何かを引き出しているのかもしれない。
『都合のいい推論だな。』
またコイツは。
でも状況証拠ではそうだろ。
『完全な証拠は一つもない。』
完全な証拠なんて探しようがねえ。
『そのうち警察がうちに来るかもしれないしな。』
『証拠ならそいつらに聞けばいい。』
そん時はしまいだけどな。
『へー、随分と強気だな。』
こうなった以上自分で何とかする術を探すしかない。
『覚悟が決まったのか。』
誰かのための覚悟は決められない俺が、自分のためなら覚悟を決められるのは皮肉だ。
でも、どうしようもないからこそ、覚悟を決めるしかない。
『じゃあ、病院に行くのが先だろ。』
医者なんか信用できない。
そうだ。
誰も助けてくれる人なんていない。
俺のことは俺でやるしかないんだ。
———ピロン。
スマホが鳴る。
「たすけて」
美玖からだった。
俺は慌てて文字を打とうとする。
『離れるんじゃないのか。』
うるせえ。
『あんな酷いことしたのにか。』
それは……。
『誰も助けてくれない。お前が言ってただろ。』
そうさ。
ヒーローなんかいやしねえ。
みんな自分勝手で信用なんてできない。
『じゃあ何でお前は動こうとしている。』
偽善でも自分勝手でもいい。
助けたいと思ったから助けるんだ。
お前は黙ってみてろ!
「大丈夫か?」
送ったLINEには既読はつかない。
通話ボタンを押すが繋がらない。
俺は急いで自転車に乗った。
何もしていないのに汗が滴り落ちるが、気にはならなかった。
——————
あの公園。
まだ放課後の子供達が遊んでいる。
そこにあの華奢な女子の姿はなかった。
「家か……。」
押しの強いあいつ。
毎日連絡しないと嫌なあいつ。
電話が好きでお喋りなあいつ。
自分を犠牲にしても居場所を求めたあいつ。
どうしようもない母親を捨てきれないあいつ。
俺の初めてを奪ったあいつ。
命を預け合ったあいつ。
俺を気になると言ったあいつ。
そして俺が傷つけたあいつ。
ペダルを必死に漕いでいても出てくるのはあいつの笑顔だった。
恋でも愛でも依存でも何でもいい。
「無事でいてくれ。」
願いを言葉にして俺は家へ向かった。
——————
あいつの住むアパート。
来たのは2回目だった。
103号室。
インターフォンを押す。
誰も出てこない。
「誰か、助けて!」
美玖の声がドア越しに聞こえた。
俺は急いでドアノブを回すが鍵がかかっている。
急いで裏へ周り、ベランダによじ登る。
ガラス窓は鍵がかかってカーテンが閉まっていた。
隙間から服がはだけて泣く美玖が見える。
そばには全裸の男がいた。
頭の中で何かが切れた音がした。
———ガッシャーン。
目一杯、助走をつけて体当たりした窓は、音を立てて倒れた。
「蓮介!」
俺は左拳を全力で男の頬にぶつけた。
——————
男は衣装ボックスへ飛んでいった。
「貴様……。」
「ち、違うんだ。これは。」
俺は、胸ぐらを掴んで左拳を振り続けた。
「やめて。」
美玖が俺に抱きつかれる。
「離せ。」
「コイツを殺す。」
俺は美玖を振り払う。
「だめだって。」
美玖はめげずに俺の腰を持って止めようとする。
「邪魔すんじゃねえよ!」
自分でも何で叫んでるのか分からなかった。
「蓮介!」
美玖は呼応するように大声を出す。
俺を掴む手が震えている。
頭に登った血がスーッと心臓へと戻り出す。
左拳が今までで一番痛かった。
「ごめん。」
「おかしくなってた。」
俺はやっと息をした気がした。
「ううん。大丈夫。」
「助けてくれて、ありがとう。蓮介。」
美玖の言葉が心に落ちて溜まった。
「何で俺たちだけ。」
不幸。
そんな言葉で片付けられないほどに。
「何で蓮介が泣くの。」
「お前が泣くからだろ。」
「泣いてないし。」
「もう大丈夫だから。」
俺たちは抱き合って泣いた。
自分の不幸を2人で分かち合うかのように。
——————
男は完全に伸び切っていた。
「これからどうしよう。」
美玖は困惑している。
「警察に電話だな。」
「でも……。」
「今は母親のことを気にするな。」
「うん。」
俺はすぐに通報した。
「なんで俺に助けを求めたんだ?」
「誰も助けを呼べる人がいなかったから。」
美玖は下を向いて言う。
「そうか。そうだよな。」
「昨日あんなこと言ったやつ呼ばないか。」
「昨日のことはまだ怒ってるよ。」
「本当にごめん。」
「でも助けてくれた。」
「もし聞いてくれるなら言い訳させて欲しい。」
「ごめん。今は無理。落ち着いたら。」
「もちろん!今じゃなくていいよ!」
少し沈黙が続いた。
俺は耐えられずに口を開いた。
「てか何で電話出なかった?」
「スマホ取り上げられそうになって、あれしか打てなかった。」
「そうか。」
「お母さんの彼氏に無理やり犯されそうになって。」
「状況見れば大体わかるよ。」
「コイツの目的は、お前だったんだな。」
「お母さんがいない時を狙ってたみたい。」
「ちっ!こいつ!」
わざとらしく振りかぶる。
「待って。」
「もうやらねえって。」
「よかった。」
やっと笑顔が見れた。
———ガチャ。
ドアが開く音。
来たのは期待していた人とは違い、状況的には最悪の人物だった。
——————
「どうなってるのこれ!」
金髪にきつい香水。
俺の嫌いなタイプの人種だ。
「お母さんこれは……。」
美玖は慌てて近寄る。
「あんたがやったの!?」
美玖の母親は俺を睨みつける。
「あんたの彼氏が美玖を襲ったんだ。」
「そんなわけないでしょう!」
「じゃあそこに転がってるやつは何だよ。」
全裸で伸びているその男は何よりの証拠だった。
「嘘でしょ……。」
母親は膝から崩れ落ちた。
「お母さん!」
美玖は母親に寄り添おうとする。
「あんた……あんたはどれだけ私の幸せを奪うの?」
母親は美玖を突き飛ばす。
「あんたなんて、産まなきゃよかった。」
母親は腕を大きく振りかぶる。
俺はすぐに彼女の前に立ち塞がった。
「これ以上は、やめろよ。」
そう言って睨みつけると母親は泣き始めた。
今ここで涙を堪えている美玖の方が大人に見える。
遠くからサイレンが聞こえた。
—————
警察が来てからは早かった。
「離せ!あいつから誘ってきたんだ!」
そう叫びながら男は連行されていった。
「行かないで!」
無惨に泣き叫ぶ母親の醜さは目を覆いたくなった。
でも美玖は強く唇を噛んでしっかりと見ていた。
手に触れると彼女の拳の力は和らぎ、そのまま手を繋いだ。
母親も連行されたのち俺たちの番が来た。
「君たちもいいかな。」
初老の警官が話しかけてくる。
「はい。」
手は繋いだまま。
ヒーローなんていない。
パトカーのサイレンだけが鳴り響く中、手だけは離さないと決めた。




