3話 音の残る家
「ただいま」
部活で疲れた身体で、重いドアを開けると
「おかえり」
祖母が待っていた。
「ばあば、来てくれとったんや」
「うん。今日はじいじが病院やけん、はよ帰らないかんけど。」
「ご飯作っとらんけんね。」
「いいよ。いつもありがと。」
———祖父母がいる日は、家が少しだけ静かになる。
そんな話をしていると、白い軽が止まる。
「おかえり。じいじ。」
「ただいま、蓮介。学校どうやった?」
「部活がきつかったかな。」
「サッカーは大変やな。」
「じゃあ蓮ちゃん、私たち行くけん。」
「宗ちゃんに、今度はカレー作るけんって言っとって。」
「わかった。」
うちの重い玄関を華奢な祖母が懸命に閉める。
「俺がやるけんいいよ。」
「ありがとう。」
———ガタン。
ドアが閉まる。
少しだけ、家が広くなる。
音が、減る。
このあと、母を1人で相手にする。
……気が重い
——————
ドアがガタンとなる。
「ただいまー!」
明るい声が家中に響く。
「兄ちゃん、僕より先やん。」
「誰とも遊ばんかったと?」
「部活やって遊ぼうってなるほど楽じゃないんよ。」
そう言って頭を撫でる。
宗介は「へー」と言って砂だらけの靴を脱ぐ。
「その砂外に落としとけよ。」
「うん。」
外でパンパンという音が聞こえる。
「あと手洗って、宿題しとけよ。」
俺は自分の部屋に戻る。
あっ。
「そういや、ばあばが今度カレー作るからってさ。」
「やったー!」
また明るい声が響く。
あいつと話すたびに、俺にもこんな頃があったのかと思う。
でも思い出すのは、母の顔ばかりだった。
机に向かって数学を解く。
裏表印刷のプリントが机に散っている。
大洋は諦めて寝たかな。
——————
———遅い。
時計は19時を過ぎている。
何かあったのか。
暗くなった外がより暗く見える。
立て付けの悪いドアが、ギギギと鳴る。
大きな溜息と共に、俺は親父にもらったiPodからRANCIDの「Radio」を流す。
〜When I got the music
I got a place to go〜
ティム・アームストロングがしゃがれた声で叫ぶ。
それだけで十分だった。
イヤホンを押し込む。
外の音が、少し遠くなる。
もう一度、ボリュームを上げる。
ただ叫んでいるような声が今の俺にはしっくりくる。
爆音で歪んだ音が、やけに落ち着く。
それだけが、まともに思えた。
このまま、どこかへ行けそうな気がした。
———「なんで宿題やってないと!」
鋭いギターフレーズよりも鋭く飛び込む怒号が俺を現実に引き戻した。
「あんたは何回言ったらわかると!」
壁に声が跳ね返る。
「......ごめんなさい。」
レコーディングならリテイク確実の声。
音量を上げる。
それでも、外の音は内側から漏れてくる。
「また砂上げとる!なんで砂落とさんと!」
「……」
「洗濯物も脱ぎっぱなしやろうが!」
「あんたのせいでまたご飯の時間が遅れるったい」
———「言いすぎやろ。宗介に当たるなや。」
イヤフォンを外していた。
気づいたら、間に立っていた。
「なんね!あんたは関係なかろーが!」
「帰ってきて早々、キンキン言われるこっちの身にもなって。」
「私だって言いたくて言っとらん!」
「じゃあ俺が言っとくけん、早よ飯作ったらいいやん。」
「はあ。ほんと、あいつそっくり。」
またそれかよ。
母親はため息をつきながら捨て台詞を吐いてキッチンへ向かった。
俺の足が、わずかに揺れた。
「ごめん、兄ちゃん。」
宗介の声がより小さくなる。
「いいよ。弟やけん。わかったとるやろ。飯までに終わらせときゃそれで終わる。」
宗介は小さく頷き、床に散らかったおもちゃを避けながら机へ向かった。
俺は部屋に戻り薄いドアを閉めてまたイヤフォンをつける。
流しっぱなしのiPodから、Mr.Childrenの「Hero」が流れていた。
やっと息ができた気がした。
それでも、音は残っていた。
——————
こうなってしまえば、食卓は皿と箸の音のみが響く。
向かいの宗介の咀嚼音さえはっきりと聞こえそうだった。
ただ黙々と、出されたものを口に運んで足早に自分の部屋へ戻る。
大きな溜息が出る。
家に充満する空気は帰ってきてすぐの温かいものとは一変し、今すぐにでも逃げ出したかった。
「兄ちゃん……」
か細い声が聞こえる。
「入っていいよ。」
宗介は縮こまって、小さく見えた。
「ごめんね。」
床に、小さな染みができる。
「さっき謝ったやん。」
俺は無理に明るく振る舞う。
「お母さんと兄ちゃんまた喧嘩しちゃった。」
「いつものことさ。」
俺は頭を撫でる。
毎日何かしらでキレる母とはいえ、幼いあいつにとっては母親。
兄と険悪なのは耐えられないのだろう。
弟の願いを無碍にするわけにはいかない。
「わかった。仲直りしとくよ。」
「ほんと!?」
「ただし、今日は風呂入って早く寝ること。」
「いいな?」
「わかった!」
宗介はさっきまでが嘘みたいに元気になった。
……仲直りか。
結んだ約束の難易度は宿題など遥かに上回っていた。
——————
時計は21時を指す。
ただでさえ、今日はよくない日だった。
でなきゃ朝イチで揉めたりしない。
「……どうしようか。」
1人呟いた。
できるだけ地雷は除去している。
日々暴れ回るが、暴走しないようにする鎮静術は心得ている。
暴走後の対応も。
十数年で一気に大人になったつもりだ。
朝から。
19時帰宅。
すでに2回。
要素が多すぎる。
全く進まない数学のプリントを前にして、結露で濡れたコップを持ってキッチンに行く。
これでは大洋に道連れにされる。
寝室では宗介が腹を出して寝ている。
……その前に罪悪感で死ねるな。
キッチンへ向かって冷蔵庫から、ピッチャーを手に取る。
———「さっきはごめんね。」
弱々しい声が麦茶の注ぐ音の隙間を縫って入ってきた。
——助かった。……のかもしれない。
「俺こそごめん。言い過ぎた。」
俺はコップを置いて椅子に座る。
「今日、店が忙しくてね。母さん余裕なくて。」
「わかってるよ。いつもごめんね。
仕事も家事もやってくれてるからしんどいよね。」
「母親やけん当然よ。」
俺は求められた言葉を言い、母は作り笑顔で笑った。
「宗介には俺からも言っとくよ。」
「大丈夫。あの子に悪気がないのは分かっとるけん。それにやる時はやる子やから。」
換気扇の音だけがやけに大きい。
「俺、宿題残ってるから。」
コップを置いて立ち上がろうとした時、
「またお父さんのこと言ってごめんなさい。」
母は絞り出したように言った。
「いいよ。思うことはあるやろうし。似てるし。」
少し間が空いて
「とにかく今日はごめん。……俺らのせいで、余計しんどいのに。」
「あんた達は大事な子やけんね。私がちゃんとせないかんとよ。」
母親の背中に、何も言えなかった。
言うことがなかった。
小学生の頃から、ずっとこうだ。
揉めて、終わって、また繰り返す。
……宗介のためだったはずなのに、いつの間にか母を庇っていた。
もう一度机へ向かうが思ったように集中できず終わる頃には23時近くなっていた。
寝支度をしようと部屋を出ると、母が椅子で眠りかけていた。
「寝ないの?」
「洗濯がまだ終わってないっちゃん。」
「そうなんや。」
「宿題は終わったと?」
『おかげさまで』
———多分嫌味だ。
「最近腰が痛くてね。」
「仕事で?」
「うん。ダンボールとか抱えないかんけん。」
「重労働は男に任せれんと?」
「パートのおばちゃんばっかりやけん、無理とよ。」
「蓮介がおれば楽やろうね。」
「別に許可さえ貰えば、バイトはできるよ。」
「何がね。あんたは学生やけん自分のことだけ考えればいいと。」
「仕事、まだ上手くいってないと?」
「女ばっかりやけん色々あるとよ。」
「聞こうか?」
「いやまだ大丈夫。また溜まったら聞いてもらおうかね。」
「また4時までとかは勘弁してよ。」
「そうやね!あんときはごめんたい!」
2人で笑った。
——ちゃんと笑えていたかは、わからない。
「じゃあおやすみ。」
「うん。おやすみ。」
俺は自分の部屋に戻った。
たまに母がわからなくなる時がある。
優しい母。
キレる母。
……どっちも、見ているはずなのに。
それでも、決めつけていた。
そうしていないと、保てなかった。
イヤフォンをつけた。
BOØWYの「B・Blue」が流れていた。
それでも、内側の音は止まらなかった。




