6話 イカれてる
左手にあるザラザラとした感触。
立ち上がる。
左側に感じる重さは、俺の人生より軽い。
そのまま右を前にして走り出す。
「危ない!」
仲間の声に反応して、大男は振り返る。
咄嗟に頭を腕で守る。
俺は思い切り左腕を振り下ろす。
———ゴツッ。
湿った鈍い音が響く。
「あ゛あ゛あ゛あ゛」
まるで動物のようだった。
気づくと俺は馬乗りになっていた。
ガードをする腕は血が滲み、守り切るには拙い。
拳が赤く染まって行く。
「やめろ!」
その声が耳に入った時には、俺は連中の一人と地面を転がっていた。
その隙に、仲間が大男を肩から抱え連れ出す。
大男の左腕はただ力無く垂れていた。
「ま、待てよ。」
やっと出会えた、強敵。
「もういいだろ!」
俺と同時に立ち上がった連中の一人は泣きそうな声で言った。
「俺は……ただ……。」
その瞬間、痛みが全身を襲った。
興奮が冷めたのがわかった。
俺は膝をつく。
「お前、イカれてるよ!」
大男は涙と唾を飛ばしながら俺に吐き捨てた。
そこに俺を追い詰めたあの姿はなかった。
連中は俺を睨みつけながら去っていった。
その言葉が頭を離れなかった。
……イカれてる。
——————
脇腹はまだ心臓のリズムで痛む。
すぐに公園を去った俺は、トボトボと家を目指した。
『とうとうイっちまったな。』
うるせえ。
『あいつも言ってたろ、イカれてるよお前。』
だからうるせえって。
『もう戻れないな。』
『アイツらの誰かが通報でもすれば終わりだ。』
急に頭が冷えた。
……そうか。
そうだな……。
———それでもいいか。
『お前みたいなのは、そっちの方がいい。』
『せいぜい、残りの自由を楽しめよ。』
俺は、玄関のドアをそっと開けた。
寝静まった家の中で、ズキズキと痛みだけが響く。
洗面所で手についた血を念入りに落とした。
「ひでえ、顔。」
ケンカでしっかり負けたことは、顔を見れば明らかだった。
ボロボロの身体でベッドに倒れ込む。
いつもなら軽いまぶたは重く、すぐに意識を失った。
——————
気づくと開けっ放しの網戸から、活気のある声が聞こえる。
まだしっかりと身体が痛む。
顔の傷が治るまで、どれだけかかるかな。
今、会ったらバレてしまう。
まあ警察が来たら、それで終わるけど。
怖いな。
『自分がやったことだろ。』
分かってるよ。
『捕まるのがそんなに怖いか。』
いや、これで将来が消えることが怖い。
死ねもせず、未来をなくし、それでも生きていく。
それがどうしようもなく怖いよ。
『死ねないことはもう分かったか。』
ああ。痛いほどね。
自分で死ねないからって、人に委ねてもどうにもならなかった。
『八方塞がりだな。』
お前は俺なんだろ。
お前にやるからさ。
好きにしていいよ。
『残念だが、そりゃ無理だな。』
『俺はお前だが、お前も俺も消えない。』
そうか。
残念だ。
『これからどうする。』
どうもしない。
顔の傷が治るまでは、寝てるよ。
『眠れるのか。』
なんかすごく眠いんだ。
おやすみ。
——————
それから2週間、ドアの前に置かれた食事を取り、全員が寝静まったら風呂に入るという生活。
会話もドア越し、独房とそう変わらない。
鏡で顔を見る。
「もう大丈夫か。」
口元の傷は違和感がないくらいに消えていた。
「ふうっ。」
大きく息を吸う。
外の空気を吸うのは久しぶりだった。
イヤホンを挿していつも通り散歩をする。
もう喧嘩は懲り懲りだ。
ただ持て余したフラストレーションは、傷の治りと比例して強くなっていった。
誰もいない公園のベンチに座る。
『命拾いしたな。』
この2週間、警察が来ることはなかった。
『未来は守られたのか。』
守られたところで、どこに進めばいいかわからないよ。
『振り出しに戻ったな。』
そうだな。
もう何も考えたくない。
流れる曲は、右から左へ。
でも何もないよりマシだった。
———「あははは!」
公園に男女数人のグループが入ってきた。
今日はお呼びじゃない。
一人の女子が髪を引っ張られている。
『ヤンキーでもあるんだな。』
そうだな。
「おい。ヤリマン。」
「離れろよ。性病うつるだろ。」
女子の間をピンポン玉のように回される。
散々な言われようだ。
「やめて!お願い!」
叫び声が大きくなる度、攻撃が増していく。
男達は、笑って見ている。
一人の女子が、蹴り飛ばす。
木の枝のような身体は簡単に吹き飛んだ。
髪を掴まれたまま泣く顔が、妙に目についた。
———ガシッ。
気づいたら、その手を掴んでいた。
「何だよお前!」
甲高い声が耳に刺さる。
「やめろ。目障りだ。」
そう睨みつけると女は手を離した。
「何だテメエ!」
後ろから男達がワラワラと出てくる。
———そうなるよな。
本当は関わりたくなかった。
「失せろよ。殺すぞ。」
俺はそう告げる。
心からの願いだった。
「調子に乗んなよ!」
男達が一斉にこちらへ向かってくる。
スイッチは簡単に入った。
一人殴る。
もう一人蹴り飛ばす。
三人目は近寄ろうとして足を止めた。
誰も近寄らない。
「「お前、イカれてるよ!」」
その顔と声が頭をよぎる。
それでも口角は上がっていた。
「なんだよコイツ。」
負け犬はすぐに去っていった。
———『何やってんだお前。』
アイツが話しかけてくる。
知るかよ。
『今更、正義の味方か。』
別にそんなつもりはねえよ。
『じゃあなんだ。』
放っておけなかっただけ。
そういうとアイツは何も言わなかった。
「はあ。」
ため息をついて公園を出ようとすると腕を掴まれた。
「待ってください!」
突然の事に、驚いたが平静を装う。
「何だよ。」
「一人にしないでください!」
声が震えていた。
今にも消えてしまいそうなくらいに。
「俺には関係ねえだろ。」
「お願いです!」
言葉が通じなかった。
「分かったから、手を離せ。」
そう言うと意外にも簡単に手を離した。
ここで走って逃げればいいが、俺にはできなかった。
二人でベンチに座る。
「あの……さっきはありがとうございました。」
「……。」
俺に会話をする気はない。
「なんで、助けてくれたんですか。」
「……。」
「意味とかないですよね。」
「……でも、嬉しかったです。」
「……。」
「この辺の人なんですか?」
「……。」
「私は向こうの山のほうに住んでて……。」
それでも彼女はめげなかった。
それに負けて口を開いた。
「お前、何でアイツらといたの?」
その瞬間、彼女の表情は一気に明るくなった。
たった数時間。
でも、その出会いだけは消えなかった。




