その視線の先
〈 その視線の先 〉
「ぐだっはぁ!」という奇妙な、けれど全力で叫んだのであろう悲鳴が聞こえた時、啓太は自室でとんでもなく顔立ちの整った大学生の家庭教師と共に勉強をしていた。男子中学生が憧れるシチュエーションである女子大学生ではないが。この人間離れした顔立ちの男と一対一で対峙するなんてと初日は冷や汗をかいたものだが、すぐに慣れた。というよりこの家庭教師ーーー蕪木灯は姿形は人間離れしたまるで人形みたいな容姿の男であるものの、選ぶ言動はとても丁寧でいいひとでしかも頭がいい。頭がいいイコール教えるのが上手い、わけではないとわかっているが、蕪木は『相手の目線に合わせる』ということを絶対の基本として自身に課しているようなので、非常にやりやすいのだ。成績も順調に上がって行きこの調子だと来年受験する時には今までよりランクの上の高校も圏内に入りそうなので、今となってはこのひとでよかったと思える自慢の家庭教師である。
ーーーその蕪木も今はその黒曜の眼を一度二度瞬かせて、解説するためノートに走らせていた手を止めていた。お互いそんな風に数拍見つめ合って、先に思い当たったのは啓太の方だった。
「……父さん?」
今のは確かにーーー父の声だった、よう、な。
「……父親?」
涼やかな声で蕪木が言ってーーー音もなく立ち上がる。すぐに部屋を出て行った彼を呆然と眺め、それから我に返ってあわてて後を追う。
住宅地にあるよくある一軒家だ、そこまで広いわけではない。ーーー父はすぐに見付かった。
「と、父さんっ?」
「ぁ……ぐぁ……けいた……」
玄関先に父が崩れ落ちていた。中途半端な奇妙な体勢で。腰が引けたようなその珍妙なポーズに心配よりまず疑問が沸き起こって混乱していると、駆け付けた母が「あらお父さん!」とやはり啓太と同じような反応を示す。ーーー蕪木だけが違った。
「腰ですか? ーーー座れますか」
「っ、ぁ、ああ……はい……っぐあっ、」
「手を。ーーー杉並くん、クッションか何かある?」
「えっ。あっ、」
中途半端に言葉を切ってそれからばっと身を翻した。リビングに飛び込みソファーからクッションを二つほど抱えて玄関に駆け戻ると、父を半ば抱えるように支えていた蕪木はそれを床に置くように指示した。
「いいですか、腰を下ろしますよ。好きなタイミングで行ってください」
「っああ、申し訳ない……っぐぅっ、」
クッションの上に腰を下ろした父が呻く。もうひとつのクッションを背もたれとして当てて、蕪木はポケットからスマホを取り出した。
「病院に行きましょう。車出すので」
「お、お父さんぎっくり腰かしらっ?」
「なんとも言えませんが、もしかしたら。……失礼ですが杉並さん、車の運転はされませんよね?」
「ペーパーで……」
「大丈夫です。車呼ぶので」
「……なんかすごい声したけどどうしたの?」
振り返ると姉がいつもよりも数百倍お淑やかな感じにゆったりと階段を下りて来ていた。いつもならばどすどすと足音を響き渡らせ下りて来るのが……いや、というかなんだその格好。スカートは短いし化粧に気合いが入り過ぎている。家なのに。いつもならば中学時代のジャージ姿なのに。髪も巻き具合がばっちりで、これは悲鳴が聞こえていても蕪木に遭遇することを考えて納得いくまで自分を突き詰めてから下りて来たに違いない。とんだ親不孝者だった。
「父さんが腰痛めたんだよ……多分ぎっくり腰。今から病院に……」
「ええっ、お父さん、大丈夫なのっ?」
途端に声を高くした姉が長い睫毛をばさばさっとさせて父にーーーというより蕪木に近寄った。さり気無く姉から一歩距離を置いた蕪木が「お父さんを診ててあげて」と姉に仕事を申し付けスマホを耳に当てる。すぐさま電話は繋がったようだった。
「もしもし、みーさん。俺」
ラフな口調。その声にはやさしさがたっぷりと含まれているのがわかった。
「バイト中なんだけど、家族の方が腰を痛めて……悪いんだけど、今から言う住所に車で来てくれないかな」
微かに聞こえる女性の声。蕪木は住所を言うと電話を切った。最後に一言、どんなに優れた腕を持つ人形技師でも作れない、幸せそうな笑顔を覗かせて。
「ありがとう。ーーー待ってる」




