アクセルは誰
〈 アクセルは誰 〉
ぺたん、と伏せている彼女を見付けて少しぎょっとしたのは、暮らしはじめて三ヶ月ほど経った時のことだった。
「……なにしてるの……?」
「ん?」
風呂上がり、リビングの床に座りぺたりと上体を伏せた彼女を見付け思わず固まると、彼女は顔を上げないまま答えた。
「じゅうなんー」
「ああ……そっか」
しなやかな動きでぐ、ぐ、と前屈する彼女は身体が軟らかいようだった。手も爪先まで届いているし、額も膝についている。
「……みーさん身体軟らかいね」
「柔軟だけは昔からよかったの」
百八十度開脚は流石に無理だけどね、と言いながら彼女は上体を起こした。そのままくりくりと肩を軽く回す。
「肩が凝ってるの?」
「ん、凝りやすいんだよね……」
首を軽く傾げたりしてみるが、音は鳴らない。彼女が入院したのが三ヶ月前。身体は回復したようで何よりだが、いつも通り動き回るようになって凝りが溜まったらしい。
「全身?」
「全身だねえ……」
「ふうん……マッサージしようか?」
誓って言うが、この時は本当、下心なんてなかった。言った瞬間『あ、』とは内心思ったが、いやでもまあマッサージだし、と胸中で言い訳のように呟く。叔父叔母と暮らしていた時はたまに二人の肩を揉んだりしていたのだ。受験生なのにどうして肩を揉む方なのよ、と叔母はうれしそうに、擽ったそうに言っていたが、受験生だって肩揉みくらいは出来るんだよとわざと飄々と答えてみたりして。叔父も同じことを言っていたが、そわそわして自分の番を待っていてくれたところから言って嫌がられていたわけではないと思う。自分なりに二人への感謝ーーーもとい、拙いながらも好意を含めていたつもりなのだけれど。二人ともうれしそうだったから伝わっていたんじゃないかと、そう思っている。
彼女に対しての好意はまた別のものだったがーーーでもまあ、だから。マッサージくらい。下心含まなくったってやりたいなと思う。
「いいの?」
「勿論。肩からね」
背後に回り込み、ぺたんと座る彼女の後ろに座った。彼女の身体を挟むように軽く脚をのばす。彼女は大人しくそうやって収まって、背中に流れる髪をくるりと上げてクリップで留めた。ーーー真っ白なうなじが無防備に晒け出され、予想も覚悟もしていなかったため心がぐらっと揺れてーーーどくん、と、大きく身体が鳴った。
「あ」
「……ん?」
「え。……い、や。なんでもない」
「ん? そう?」
前を向いたまま不思議そうに彼女がうなずいて、大人しく待つ。……マッサージ。たかがマッサージだから。自分に言い聞かせて、恐る恐るその両肩に手をかけてーーーぎょっとして指先が固まった。
「ーーーえ、?」
え。ーーーなに、これ。
「ふ? ……ともり?」
不思議そうな彼女の声に答えられない。両肩を軽く掴んだ状態で固まりーーー信じられないものを見るような心地でその身体に眼を落とす。
え。ーーーえ。なに、これ。
女の子ってこんなに薄っぺらいの、か?
鎖骨側と背中側と。軽く挟むように手を置いて愕然とする。
華奢だ華奢だとは思っていた。何度か触れたことだってある。でもーーーでも考えてみればどの時だって何かしら理由があった。階段から落ちた彼女を受け止めたり、激情に駆られて押し倒したり、想いが溢れて縋るように抱き着いたり。意識を失った彼女を運んだのはほんの三ヶ月前のことだし、そのあと膝の上に乗せて三木に写真を撮ってもらったことだってあった。でもそれらは結構突発的で瞬間的な触れ方でーーーこんな風に改めて、何も焦ることなく同意の上で彼女に触れることは、もしかしなくともはじめてで。
(うわーーーう、わ、)
かっと顔が熱くなった。どくどくと早く血が流れる音が耳元でする。血液を送り出す力強い鼓動が伝わり同調した指先が微かに震える。
どうしーーーどうし、よう。
こんなに華奢だなんて知らなかった。
え、だってこんなのーーーこんな、薄っぺらくて。
これが肩で、ここから腕がのびてーーーう、わ、……ほそ、い。なんでこんな……え、これで今まで生きて来たのか? どうやって?
見なくてもわかる、少し指先を滑らせただけで捉えられるぼこりとした突起と窪み。くっきりと浮き出た深い鎖骨。こんなの摘めるじゃないか。え、なんで……骨が細い。撫でただけでわかるし摘んだらもっとはっきりとわかる。細い。骨が細い。こんなに浮き出ててたらちょっと何かぶつけただけで折れてしまうんじゃないのか。肌だってすごくやわらかい。弾むような弾くような弾力があるけど、なめらかでやわらかくてやさしい感触。丈夫さなんてどこを探しても見付からない。どこか少しくらいないのか、大丈夫そうなところ……強いところ。
……やわら、かい。駄目だ。どこにもない。……自分は今まで、彼女に対して手加減出来る時は手加減して触れていたけれどーーーでも思ってたよりももっと手加減しなければ彼女は潰れてしまうんじゃないんだろうか? こんな、こんな細くて、やわらかくて、儚くて……嘘だろ。女の子ってこんなに脆そうな身体してたのか? 本当は嘘なんじゃないか? だってこんな身体で今までどうやって生きて来たんだよ。
「ふ……とも、り、」
「え?」
「んっ……くすぐっ、たぃ、」
「え、」
彼女の声が弱々しくどこか甘くて。
はっとした瞬間和も我に返る。……いつの間にか片手は服の上から彼女のくびれを、もう片方の手は彼女の鎖骨を直接肌で。摘んだり撫でたり窪みをなぞったり。確かめるように何度も何度も撫でさすっていた。しっかりと抱きしめるようにしていたので彼女は動くに動けず、腕の中で小さく悶えるようにして抵抗にすらならない強さで弱々しくもがいていた。
「っ、っ! ご、ごめんっ!」
「ひあっ!」
思わずばっと腕を離して距離を取るとその反動でぺしゃっと彼女が横に倒れた。え、嘘だろ。反動なんて微々たるものなのにこんなので吹っ飛ぶように倒れてしまうのか。ーーーじゃなくて、
「ごめん! ごめ、みーさん大丈夫っ?」
「だ、だいじょぶ……」
困惑極まった顔のまま起き上がろうとする彼女を慌ててフォローする。小さな身体の上体が起き上がるのを手伝って、頭の上にクエッションマークをこれでもかというくらい浮かべた彼女が自分を見る。
「……な、何が起こったの……」
「え、ええと……」
何がっていうか。あなたの全部が。
深い深い色をしたまっすぐな眼を直視出来なくて下を向いた。起き上がる時に差し出した手の中にある小さな彼女の手が、あ、と気付いたようにぴくりとして手を抜こうとした。
「無理しなくていいよ、凝ってるって言ってもそこまでじゃないから」
「違う!」
慌ててその手をぎゅうっと握りしめて顔を上げた。
「女が苦手だからみーさんに触りたくないとかそうなってるわけじゃないから! みーさんは別。だから違う。あとまた違う枠で叔母さんとか三木さんとか綾瀬も平気だけど」
「う、うん」
「……ごめ、本当、違うから……今のはなんていうか……、っ、か、かた、貸して? 今度はちゃんと出来るから」
「む、無理しなくていいよ……?」
「無理じゃない。やる」
「う、うん」
押しに流されたかのように。
躊躇いがちに彼女がうなずき、その背中と向き合う。……軽く俯いた首筋はぼこぼこと骨の形がわかる。無意識の内につ、とそれをなぞると、彼女の身体がぴくんと震えた。
「ん、」
「……はい、肩ね」
薄い肩に手を置いて。
少しずつ力を籠める。
「……痛くない?」
「ふぁ、へいき」
少し擽ったそうに、けれど心地好さそうに彼女が答える。痛みを我慢しているようには思えず、ほっとして力を一定に保ちながら肩を揉む。肩甲骨の付け根のこりこりとしたところを親指で押すと、肌の下でごろりとそれが押し返してくる感触があった。……全部触ってみたいなあと、なんというか……下心でしかないのだけれど下心なしにというか、何だろう。今まであまり味わったことのない気持ちで思う。
全部脱がして一糸纏わぬ姿にして。
この身体が持つすべてのやわらかさと儚さを味わってみたかった。
「……まあ、数年以内には」
「ん? なあに?」
「ううん。……みーさん、腰もやろう?」
「……くすぐったくしない?」
「しないしない。出来るだけ」
「軽いなあ……」
ソファーの上にうつ伏せにして、儚いその腰に手を当てて。
走るぞくりとした感覚と満たされる穏やかな心地と。相反するようで同じところから染み出して来る愛情。
『好き』って、大変だ。
それから度々、彼女をマッサージする機会が出来るようになった。
特に怯えた様子も嫌がる様子もなくくてりと力を抜く彼女はとても無防備で、幸せな気持ちと複雑な感情とが入り混じる。
唯一の誤算は、彼女が『自分に触れられること』に慣れてしまったことだった。
マッサージじゃない時、一線を越えていなくても拒否されてしまうようなーーー膝の上に乗せるとか、首筋を撫でるとかーーーことにも強固な否定姿勢を見せず、体重が云々など妙に外れたことをふにゃふにゃ気にして、けれど強気で押せば流されてしまう。
誤算。ーーーブレーキを自分で強く強くかけなければいけないという幸せな悲鳴、ある意味残酷な宿命を背負ってしまったことに気付くのは、あともう少し先の話になる。
〈 アクセルは誰 ブレーキは誰 〉




