その相手、
〈 その相手、 〉
「……うーん」
さて、どうしたものかと思い自室の机の上の上質な項で作られた見開き台紙を見下ろす。見開き一ページのそれは今は閉じられていて中身は見えず、少し籠ったような上品な暗灰色の表紙を晒している。……これだけ見ると無害そのものだが、問題は……中身だった。まあ、大抵のものは外見がまともで中身が問題だ。なんだってそうだ……外見がまともでないのなら問題になる以前の問題として近付かないだろう。だから逆に問題にならないのだ。
問題、問題、問題。……さて、どうしたものだろうか。
ふと階段を上ってくる足音に気付きそれを机の引き出しにしまった。焦ることなく椅子に腰かけ、英和辞書の適当なページをぺらりと開き視線を落とす。
瞬間、ドアがノックされた。
「どうぞー」
「みーさん、本貸して」
がちゃりと入って来たのは当然のことながら見目麗しい同居人で、片手には読み終わったらしい新書を一冊手にしていた。纏めて何冊か持って行っていいよと言っているのだが「会話の回数が減る」と言われうなずいてはもらえなかった。
「これおもしろいね。俺の予想だと主人公の親友が怪しいと思うんだけど」
「なるほど」
ふは、と笑う。ネタバレは厳禁だ。だからこれはあくまでも中間報告。だから笑って相槌を打つに留めて、丁寧な仕草で本棚にそっと本を戻し続きを引き抜くその形のいい長い指をなんとなくぼんやりと見つめた。
「……なんだかみーさん疲れてる?」
「え?」
こきりと首を傾げて言われーーーこきりと小首を傾げ返した。無意識に。
「そんなことないけど。……あーでも今日は早めに寝ようかな」
なんとなくそんな気分、と言うとしかしともりはベッドに腰かけ、隣をぽんぽんと軽く叩いた。
「まあ座りなさいみーさん」
「……」
なんだろう、妙に納得がいかない……いかないけれどまあいいか、と椅子から立ち上がりベッドの隣、程々の間合いを置いて腰かけようとした瞬間、さっとのびた腕がミユキの身体を攫った。
「ひゃっ!」
ぼすんっと尻餅をつく。ーーーともりの膝の上に。一瞬呆然としてから我に返りわたわたと動こうとした瞬間、組むように軽く持ち上げた片脚がミユキの両脚を絡めて押さえた。完全に身動きを封じられた。
「と、ともりくん?」
「それ嫌だ」
ぐにっと頬を頭に擦り付けられてまるでとても小さなものを可愛がるかの如く扱われる。その仕草も丁寧でやさしいものだったので特に嫌ではないが、歳下扱いされているようでやはりこれも妙に納得がいかない。
「みーさんさ、親しい人間相手にはどこまでも流されて『まあいいか』って従うの本当やめてね。俺相手にはいいんだけどさ」
「いや、隣に座るくらい別になんてことはないと思う……」
「油断も隙もあったもんじゃない」
「いや、こんなことするのともりだけだと思う……むにゃ」
本当に。のびてきた手にむにむにと頬を遊ばれながらなんだかなあ何やってるのかなあ自分はと少し達観した。
「……大変、ともり」
「なにが? 真野の人生が?」
「違うよ真野さんの人生どうするつもりよ……この体勢。重いから下ろしてって言いたい気持ちはこれ以上なくあるんだけどどうせ「却下」うん、そうされるだろうからそこはもうあきらめたんだけど「俺以外の相手には全力で抵抗してね」だからともり以外こんなことしないって、だからこの場合の問題はともりだよ」
「俺がなに?」
「ともりあったかいんだよ。この体勢だとすっぽり抱っこされてるから私の身体全体があったかくなる」
「いいことじゃない? 女の子は身体冷やしちゃ駄目だよ」
「いいことかもだけど、眠たくなるんだよ」
「あー」
「ぬくぬくして来てとっても眠たい。たぶんこのままだと私何かをともりと話す間もなくあっという間に寝ちゃう。早速なんだか眠くなって来てるもん」
夜の十時、夕飯もお風呂も済んでいつもなら何か映画を観たり本を読んだりするが別に眠ったっていい。くわふ、と小さく欠伸を漏らすとふにふにと頬を撫でられる。
「うん、その気持ちはよくわかる……俺も今ね、みーさん抱っこしてあったかいし安心するしうれしいし幸せ」
「本当にわかってるのかなともりは」
「ただまあ眠くなるのは俺の場合ちょっと難しい」
「本当にわかってなかった」
「むしろ眼が醒めて来た。まあこれは俺の心と身体の問題だから気にしないでいいよ」
「心と身体って人間の全てだと思うんだけど……」
「うん。まあ俺っていうか世の中の男全ての問題だから気にしなくていい。警戒は必要だけど」
「うん? うん……うん?」
……? まあいいか。本格的に眠くなって来て思考回路が問題を放棄したがっている。あの台紙だって明日返せばいいや。ともりに見付からない内に。
「ん……」
「……本当に眠そうだね」
「ねむいよ……」
「そっか……」
「おとうさん、わたしねむい……」
「……みーさん、俺、ともり」
「……うん……」
すり、と頬を撫でられて無意識の内にその手のひらに頬を寄せた。
「……わたしを膝の上に乗せるのはほとんどお父さんだったから」
御影の父と家族になった時はもうミユキは中学生で、誰かの膝の上に乗るほど幼くはなかった。むしろ弟のトウマを膝の上に乗せていたくらいだ。
自分より身体の大きな男のひと。安心して自分を託せるひと。
恥ずかしいし体重は気になるしで自分から絶対に乗ろうとは思わないが、こうやって抵抗しても無駄なところまで来てしまえばなんとなく落ち着いてしまう。
こくりと船を漕ぎ出すと、ともりと呼吸が同調するのがわかった。ふわっと手足の感触が薄れてーーーふわふわと白い眠りへ、意識が、
ーーーその時、静寂を破るようにチャイムが鳴った。
「……」
「……」
ぼんやりと眼を開ける。眼を開けてーーーあ、まずい、と意識が覚醒した。
「……誰、こんな時間に」
不機嫌さと警戒心を半々に織り交ぜ鋭い視線になったともりがぼそりと落としミユキをベッドの上にそっと下ろし立ち上がる。意識は覚醒したが安心して弛み切った身体はなかなか力が巡らずあわてて身を起こそうと腕を突っ張った。
「ーーーみーさん?」
訝しげな顔をしたともりが見下ろして来る。
「なんで焦ってんの?」
「いや別に……たぶん私の知り合いだから私が出るよ。ともりは本読んでて」
「……」
「え、とも……ゃんっ!」
上体を起こした瞬間身体の下に敷いてあった掛け布団をぎゅんっと引っ張られベッドの上でミユキはころころ転がった。ぺちゃっと完全にうつ伏せになったところでともりの腕がのび掛け布団でぐるぐる巻きにされる。
「ちょっ、ともりっ」
「怪しい奴だといけないから俺が出て来るよ。みーさんはここにいてね?」
にっこり、本当ににっこり笑ってともりが部屋から出て行く。思わず呆然と見送ってから我に返りあわててわたわたと不恰好に動き布団をーーーあっ、最後縛ってある! いつの間に! しかも固結びだ! 縄抜けというほどのものではないが不器用だから苦手なんだよこういうの解くの! 伯父にナイフ術を習った時縄抜けも習ったのだが本当苦手だった! 本当無理だった!
それでもなんとか隙間を作ってゆるめ解き、ベッドの上からほぼ落ちるようにして床に足を付け部屋を飛び出す。間に合わない。絶対に間に合ってない。恐らく訪問者はあのひとだから、ともりがあのひとに会ってしまうーーー
「ともり!」
階段を駆け下りリビングを走り抜けて辿り着いた玄関ーーーともりはその相手と対峙していた。
「あらあらあらあ! 御影さあん! やっぱりいたのねえ!」
夜十時という時間、外で出すにしては声の大きい小柄でふくよかな体型の中年女性にーーー内心頭を抱えながらーーーつい弱々しくなってしまった声でミユキは返した。
「……こんばんは、坂本さん……」
「夜遅くしかいないって前言ってたからこの時間に来たのよお! ごめんなさいねえ? で、どうだった? 素敵なひとでしょそうでしょう!」
「いえ、だからですね、前言った通り私は」「それにこんなイケメンなお兄さんがいらっしゃるなんて! お兄さんも社会人よね? 結婚相手は早めに探しておいた方がいいわよお!」
「ーーー結婚相手?」
坂本夫人のマシンガントークに、身体は引かず玄関への進入を頑として譲らず防ぎながら心はドン引きしていたともりの声に硬さが宿る。最悪だ。地雷を放り込まれた。
「そうよお! 御影さんにもね、こないだうちの親戚のお見合い写真をお渡ししたのよ! ねね、どうだった? よく働くいいひとよ?」
「ですから私は、」
「残念ですけど」
ミユキの声を今度はともりが遮った。ーーー冷たい声で。
ああ、止められなかった。ーーーともりは全く感情を宿さない眼で坂本を見下ろしていた。ーーー絶対零度の眼だけをぎらぎらと輝かせ、その輝きを抱え込み、しかし惜しむことなく示して。
「お話は結構です。今後も一切要りません」
抵抗する気さえ起こさせないその眼、空気ーーーともりが手をのばしミユキを抱きしめた。ーーー感情が溢れて掻き抱くように。
頬をすらりと撫でた大きな手が首筋をなめらかに通り、シャツの下に微かに指先が潜り鎖骨をなぞる。
「お帰りください。ーーー邪魔なんで」
ぞっとするような美しさを孕んだその漆黒の双眸。
ばたんと、ドアが閉められた。
ともりの空気に呑み込まれ魂が半ば飛んだミユキは、手を引かれるまま自室に戻されそのままの流れでまたすっぽりと抱え込まれていた。ーーーが、今度は体勢が違う。ともりは完全にベッドの上に胡座をかく形で座っており、それに向き合うようにミユキを膝の上に座らせていた。胴に回された腕のせいでミユキとともりの身体は密着し、また身体はぬくぬくとあたたまってゆく。
ともりの空気が鋭過ぎて眠くはならないけれど。
「で。なにこれ」
「……写真」
「みーさん噛むよ。気持ちよくさせるよ」
「と、ともり、落ち着いてともり」
「あーあ。みーさんどうなっちゃうのかなあ。みーさんが本当のことちゃんと言ってくれなきゃ俺我慢出来なくなって明日みーさんえらいことになってそうだなあ」
「ぇ、えらいこと?」
「ん。みーさん色白だもんね? ……よく映えそう」
つうっと指先で触れるか触れないかくらい微かに首筋を撫でられて血の気が引く。完全にキレている。激怒している。
「……ぉ」
「『お』?」
「……おみあい、しゃしん……です……」
だらだらと冷や汗が流れる。密着しているせいでばくばくと鳴る心臓の鼓動までも感じ取られていそう。
「ふうん」
おもしろくなさそうにーーー本当におもしろくなさそうにともりが言って、無造作に放り出されているその立派な表紙を片手で開いた。ーーー部屋に戻って来た時真っ先に提出を促された、それ。
中に写っているのは三十代半ばの男性だった。身長は恐らく平均ほどだが横に幅を大きく取っている。青白い肌はあまり健康そうには見えなかった。髪ものばしっぱなしのぼさぼさなのを当日少しセットでましにした程度で、せっかくきちんと写真を撮ってもらうのだからもう少しきちんとすればよかったのにと思ってしまう。
「みーさんの外見でひとを判断しないところはいいところだけど生活は滲み出るよ。絶対こいつは不摂生の塊だよ。目付きも陰険だ」
「目付きは生まれ持ったものだよ……」
「不摂生は?」
「……不摂生そうではあるね」
流石にそれは否定出来ずうなずく。運動が苦手なひとは大勢いるので別に何かスポーツ競技をすればいいのにとは言わないが、ウォーキングくらいはしたらいいのに。そうしたらもう少し健康的になる気がする。
「でみーさんはこのお見合い写真を受け取ったと」
「いや渡された時は中身は見てなかったよ」
「でも受け取ったと」
「……だってさ、」
流石にこれは一言物申したくてむうっとする。
「二徹明けでどろどろに疲れ切って黄色い朝日の中なんとか帰ろうと歩いてる時にあの甲高いマシンガントーク捲し立てられながらいきなり写真押し付けられたら断ることも難しくない?」
「……それはまあ確かに」
ともりの声がほんの少しゆるんだ。あのマシンガントークにともりも最初はドン引きしていたのだから納得出来るだろう。
「……じゃあお見合いしたくて受け取ったんじゃないんだね?」
「もちろん。最初に『お見合いとかどお?』って言われた時断ったんだけどね。考えてませんって」
「それっていつ? というかあれ誰? 見たことない」
「二週間くらい前に越してきたひと……あいさつで来た時ともりいなかったね」
「うん。……初対面でお見合い云々の話したのか」
「……まあ、パワーあるよね。……困ったな」
「何が?」
「写真。返したかったんだけど……」
「ポスト突っ込んどくよ」
「駄目だよ、カメラマンさんに申し訳ない」
「そっちか。まあ確かにそれは申し訳ない。……じゃあ俺が返しに行く。みーさんは来ないで」
「でもともりもお見合い勧められるよ? きっと。……というかともりの方が私より歳上に見えたんだ……」
なんだか今になってダメージがじわじわと来た。三学年も違うのに……。
「みーさん歳上好きだもんね」
「うん……ひゃんっ」
思わずほんやりと肯定してしまった瞬間むっとしたともりが首筋に顔を埋めた。吐息がかかって擽ったくなり身体がぎゅうっとなる。
「と、ともり!」
「……痕付けなかったんだから褒めてよ」
「ど、どうしてそうなるんだ」
「じゃあ痕付ける」
「ともり偉い!」
「どうも。……俺は勧められないから大丈夫だよ。勧められる前に俺がどれだけみーさんのことが好きかを思う存分心の赴くままに語るから」
「社会的に私が殺される!」
「社会的にってことは外じゃ生きていけなくなるってことだね。やった。ついに同意の上で監禁出来る」
「精神的に私が殺される!」
「俺が精神的な支えになるから大丈夫だよ。俺なしじゃ生きていけなくなるようにちょうきょ……しつけ……きざみこみ……まあ、いろいろするから」
「肉体的に私が殺される!」
「肉体と精神、身体と心。人間の全てだね。大切に大切にするから安心して?」
「まったく安心出来ないまっっったく安心出来ない」
思わず微笑み返してしまいたくなるほど綺麗に微笑むんじゃない。
「とにかく。これは俺が預かるから二度と触らないで。記憶からも消去して」
「最後のは無理でしょ……」
「インパクトあることが起こると直前の記憶って消えるんだっけ。どこまですればインパクトになるかな」
「忘れた!」
顔も名前も忘れた!
「……ともり怒ってる?」
「……まあ、あのお見合いババアには」
「……あのひとのおかげでいいひとと巡り会えたひともいると思うよ?」
「だとしても俺たちには関係ない。……みーさんにはもう怒ってないよ。お見合いしようとしてたのならありとあらゆる合法的な手段で何かしただろうけど」
「そ、そう……」
「……俺に止める権利はないけどね。でもこれは却下。みーさんに相応しくない。相応しくない相手なら俺も口を出すよ。手も」
「不健康なだけで悪いひとそうではなかったんじゃない……?」
「忘れたんじゃないの? インパクト起こす?」
「忘れた!」
「……みーさん」
ぐ、と、抱きしめる腕に力が籠る。
「……みーさん、大事」
「……」
「みーさんが大事。みーさんを大切にしたい。みーさんが、好き。……ねえ」
漆黒の眼がーーーミユキを、見つめる。
「俺が怖い?」
その問いに。その言葉に。ーーーその、心に。
こきりと小首を傾げてーーー答えた。
「全然。ーーーだって」
「だってともりがわたしに酷いことするわけないもの」
当たり前にーーー識っていること。
「ともりじゃなかったらーーー流石に、逃げるよ」
何だかんだ言っても結局流されてしまうのはーーー相手がともりだから。
どんなことを言ってもともりはミユキが同意しなければぎりぎりのところでなら辛うじて止まってくれるーーーでもまあぎりぎりのところまで行くのすら問題ではあるのだから、そもそもこういった触れ合いはなるべく避けるけれど。
嫌だから、嫌いだから避けるわけでは、ない。
「……でも、そろそろまた眠たくなって来たから下ろそうか」
「……嫌だ」
「嫌だじゃないよ。あのね、無駄な抵抗になるだけだとわかってても体重気になるのは気になるんだから……」
そわそわしてひやひやして、なのにとろとろと眠たくなってゆく。相反する感情がわらわらと忙しいのはやはり心がゆるんでいるからだし、この体勢でほいほい心をゆるせるほど無邪気でもない。
……歳下に弱く歳上が好みだけれど、好きなタイプを問われるのならばきっとまず最初に出る言葉は、『一緒にいて眠たくなれるひと』なんだろうなあと思いながら、ほんの少しだけと眼を閉じた。
〈 その相手、その理由 〉




