心の方向性
〈 心の方向性 〉
「御影」
「はい真野さん、なんですか?」
「付き合ってくれ」
「はーい。力仕事もどんとこい!」
頼もしくも物悲しい元気な返事にお前はそうだよなあとこっそり嘆息した。
「ぶらいだるふぇあ」
鸚鵡返しのように繰り返した後輩がこくんとうなずく。この後輩、語学に堪能な癖にたまに酷く舌ったらずになる。
「うちの同業者が入ってる会場なんだが、そこの商品サンプル映像が見たいんだ。ブライダルフェアに行けば見ることが出来る。けどそれには、」
「式場見学に来たお客さんとして行かないといけない、ですね」
敵情視察かあ、と、納得したように後輩がまたこくこくとうなずく。
「そういうこと。ひとりは社員じゃなきゃ意味がないから俺が行く。ただ二人が二人社員だといつか何かの機会でばれると気不味い」
「外注の私なら許容範囲ですね」
私目立ちませんし、と後輩が言ったがその点に関しては素直にうなずけない。まあ確かにけばけばしい華々しさはないのだけれど、控え目な魅力というか……その髪も、その眼も、欲しくなって思わず手をのばしてしまいたくなる力を持っていた。だから正直適任とは言えないのだが、仮にも結婚を前提とした彼氏彼女として振舞わなければならないわけなので、となると普段の慣れから言ってこの後輩以外には選べない。三木もいるにはいるが仕事を委託はしていないのでブライダルに関しては完全に初心者だ。スタッフの眼というものが欲しいのでこの場合は却下。
「……まあそういうわけで、つまり、」
「つまりスパイですね!」
後輩の深い深い眼が今は楽しそうにきらきらと輝いていた。瞳の色がさらにその深さを増す。
「婚約者のふりして敵情視察! ふは、やりますやります!」
「お前がそういう奴でよかったよ」
「はい! あ、そうだ真野さん」
「ん?」
「私のことハニーって呼ばないでくださいね、流石に笑っちゃうから」
「……了解、ハニー」
「まっっったく納得がいかない」
不機嫌極まりない表情でクソ生意気なガキが低く低く言った。その気持ちはわからなくもないがそう言われてもこっちも大事な仕事なのだ。帰って報告書纏めて今度の会議で発表するくらい大事な。
「クオリティ向上のために敵情視察が必要なのは何となくわかる。仕事なんだから必要な時もあるんだろ、それに関してあれこれ学生の俺は言わないし言えない、あんたがその責任者なのも俺は何も言わない。ただ彼女役にみーさんを連れて行くのはまっっったくこれっぽっちも微塵も納得がいかない。というわけで帰れ、他の女見繕ってこい」
日曜の当日、家まで後輩を迎えに来たのだが少し時間が早かったようで出迎えたのは小さな後輩ではなくでかいクソ生意気なガキの方だった。いやまあ、想定内だけれど。
「お前の言ってることもわからなくはないが、でも御影が承諾したんだからお前に止める権利はないだろ」
「みーさんのその妙なところでぬるく抜けてる頭の弱い部分をフォローするために俺はいるわけ。あんたみたいにそこに漬け込んで来る人間を排除するため」
「その点に関してはしっかりしろよと言いたいところだが俺は警戒から抜け」
「みーさんを行かせるくらいだったら百歩譲って俺が行く」
「お前の方がしっかりしろよ」
男にも女にももてそうなその顔を見ていると俺でも大丈夫だろうと押し切られそうで怖くなってくる。
「お待たせしました、遅くなりました!」
「や、早く来たからーーー」
軽やかに玄関に飛び込んで来た後輩を見て、……惚けた。視線どころか心が奪われその姿をじっと見つめる。
ノースリーブの白のブラウス。襟元がほんの僅か飾るようにフリルになっていて、後輩の首の細さを強調している。膝より少し長い丈のスカートは明るいグレーでふわふわとやわらかそう。くるりとその場で回るとスカートがふわっと広がった。
「駄目ですかね? そうだったらすぐ着替えて来ます」
「え? あ、あぁ……や、それでいいんじゃねえの……?」
「ですか? ならこれで忍びます」
いつもよりほんの僅か化粧が華やか、かもしれない。上気した頰に仄かに色付く瞼。長い睫毛に艶やかな唇。剥き出しの両腕はすらりと細く長く白い。……。
「は? これ見て『それでいいんじゃねえの』? 頭だけじゃなくて眼まで腐ってんのかてめえ」
「どうしたのともり……」
「こんなに、こんなにかわいいのに。こんなにかわいくて小さくて愛おしい生き物今日一日隣に連れて彼女として式場見学? ふざけんな真野地獄に堕ちろ千回堕ちろ」
「本当どうしたのともり……」
どうしたも何も普段からこいつはこうだろうと思いつつ自分にも反省する。まあ確かにそれでいいんじゃねえのはない。かわいいと言えるかは別としても何か他の言葉で誉めるべきだった。……素直に。
「みーさん、やっぱやめよう? こんなの仕事の範囲外だよ。プライベートを強要されてるよ」
「元々真野さんは私にとってプライベートなひとだけど……ふにゃ、」
玄関に腰掛けミュールを履きはじめた後輩を後ろからすっぽりと包むようにクソガキが抱きしめる。軽く胴が絞められたのか後輩が潰されかけた猫の子みたいな声を上げた。
「やだやだ、みーさん行かないで。今日は俺と一緒にいて」
「ど、どこの駄々っ子ですかね……」
「俺が駄々捏ねると大変だよ? ねえ、そんなかわいい格好して出かけるなら俺と出かけてよ。俺が全力でかわいがって愛でるよ」
「や、かわいがられて愛でられるために出かけるわけじゃないから……ともり、擽ったい」
「……もっと擽ったくしていい?」
「駄目に決まってるでしょう……」
背後から抱きしめられ耳元で甘く口説かれていても後輩に変化はない。困ったなあというような感じなのでどうやらいつものことのようだが、これがいつものことならばそれは由々しき問題だった。一定以上の距離を置け。
「やだ。こんなにやわらかくて甘い匂いでやさしいのに。食べられに行くようなものじゃん」
「そんなわけないよ……」
「ホテルとか連れ込まれたらどうするの? みーさん逃げられるの? 無理でしょ?」
「何言ってるの本当……ともり離そう離そう。話せばわかるから。これは私も楽しんで引き受けてるんだよ。報酬も出るし」
「報酬?」
「終わったあと映画とケーキ奢ってもらうの! ふは、楽しみ!」
「デートだこれデートだ! ぜっっったいに行かせねえ!」
「んぎゅうっ」
ついにはその長い脚で細い脚を押さえ付けられ身動きが一切取れなくなった後輩が眼を白黒させる。わたわたともがきかけるもののそれすらも出来ず、その小さな身体が抱きしめられるというよりも捕獲される。
「もう駄目だ、今すぐ監禁したいのに俺まだ学生だ畜生。早く自立したい」
「か、監禁っ? 何でみんな私の人権簡単にぽいっとしちゃうの。いつか話し合わなきゃとは思ってたけどさ! ……ん、ともり離そう苦しい。行かなきゃ遅くなっちゃう」
「何でみすみす行かさなきゃならねえんだよ意味わかんねえキスして黙らすぞ」
「く、口調」
漫才だろうが戯れ合いだろうが目に苦しかった。さっさと終われ、と舌打ちすると怒られると勘違いしたのか後輩があわてたように、
「わ、わかった。お土産。お土産買って来るよ。ケーキ買って来る」
「いらない」
「そ、そんなこと言わないで。コーヒーもちょっといいの買って来るよ」
「いらない」
「そ、そんなこと言わないでよ。仕事なんだよ仕事。大事な仕事」
「……」
擦り付くようにクソガキがその華奢な首筋に顔を埋めた。後輩は擽ったそうな顔をしたが駆け引きの最中なのか特に理由がないからかはたまたいつものことで慣れているのか特別抗わず、じっと待つように大人しくする。
「……帰って来た時には俺すごい不機嫌だからね」
「今も不機嫌だよ」
「ご機嫌取るのはみーさんなんだからね」
「頑張ります」
「……ケーキはいらない。コーヒーも」
「……そうなの?」
「うん。……タルトケーキ作っとくから、それ一緒に食べよう」
「うん。……ふは、ありがとう。楽しみにしてるね」
「うん。……愉しみ、だね?」
ゆっくりと顔を上げたクソガキがーーー後輩には見えない角度で、……酷く妖しげに、微笑った。……ぞく、と背筋が震えたのは気のせいではない。よくこいつ今まで無事で済んだな……。
「じゃ、いってきまあす」
「気を付けて。門限五時だよ」
「早い!」
「じゃあ六時。気を付けて」
「う……はい」
どちらが保護者なのかわからない少女の肩に手をーーーのばしは、しなかった。
流石に、それは。
さて、どうするか。
パスを改札に触れさせつつ、いつもよりもだいぶ歩調をゆるめて背後を振り返った。この後輩と並んで歩くことは幸いなことに今まで何度もあったーーーが、特に今は、足元がヒールなので。
とにかく、付き合って三年目の同じ大学出身の先輩後輩カップルにしようということで話は纏まった。大事な一点を除けば全てが正しい。
ーーーが、問題、は。
「真野さん、私真野さんのことなんて呼べばいいですか?」
行きの電車の中、深い深い眼が自分をまっすぐに見上げて来て意味もなく狼狽えた。
「なんてって……普通に」
「真野」
「なんで苗字なんだ!」
普通にびっくりして言うと後輩は肩をすくめた。冗談ではなかったらしい。
「ん……じゃあ、ひろさん?」
「さん……付けるものか?」
「どうなんでしょう。因みに吉野、三崎さんのこと三崎って呼んでますよ」
「ああ……そっか。そうだったな」
なるほど、一番身近な親友が彼氏のことを苗字呼びしていた故のさっきか。よかった。
「じゃあひねらず、ひろくん?」
「……そうだな、普通にそうかな。普通最高。……呼び捨てでもいいけど」
「うーん、ひろくんにしときます。先輩後輩設定はそのままですし」
「……そうだな」
……残念に感じたのは、仕方なかった。
ーーーともり
ごくごく自然にいつもそう呼ぶから、……自分だって呼んでもらえるのではないのかと、錯覚しそうに、なる。
「私のことはユキって呼んでください」
考える余地も与えられず後輩はそう言った。どうしてだか後輩は本名を書類上でしか使わないし、呼ばせない。だからそこはうなずくしかなくて、名前って大事なものなのだなと、改めて苦くそんな風に思った。
結果から言うと、急拵えのカップルは非常に上手く行った。上出来なくらいだ。
「はい、先日。……うなずいてくれなければ身投げするとまで言われてしまいまして、ええ」
プランナーにそう言う後輩は恥じらいつつもはにかむという高度な技術の笑顔で、何を話しているかというとプロポーズの時の話なわけで、いやまあ式場見学に来るカップルの多くはプロポーズなり将来の約束なりをしているのが殆どだと思うのでおかしくはないが……いやおかしいだろ。お前この話今度三木と会う時の話題にするつもりだろ。一筋縄じゃいかな過ぎるだろお前たち。どうして今目の前にいるのはひとりなのに常に二人相手している気になるんだ。
「情熱的な方なんですね!」
「はい、でも普段は照れ屋でそんな素振りを一切見せてくれなかったので……びっくりしちゃいました。大学の友人たちに祝ってもらったら、きっとこの何とも言えない複雑な表情も少しは楽し気になると思うんです。記念をたくさん残したいんです。……以前、友人の結婚式の時にムービーのカメラマンの方が入っていたことがあったのですが、こちらの会場でもそういったプランはあるのでしょうか?」
「はい、ございます! サンプル映像をご覧になりますか?」
「見せて頂いてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです!」
にっこり微笑んでうなずいたプランナーが、テーブルに案内しお茶を出し席を外す。やわらかい仕草で手をのばした後輩が細い指でカップに手をかけ、一口飲む。カップに添えられた細い白い指先に、無意識に視線を囚われた。
「……おいハニー」
「なんですダーリン」
にっこり。微笑んだ後輩に引き攣った笑みを返す。
「俺のキャラ設定どうなってんだ」
「『歳下の彼女のことが好きで好きで好きでたまらないけど照れ屋さんで素直になれずぶっきらぼう』なヒロくんがなにか?」
「なに、それお前の好み……?」
好きで好きで好きでたまらないというところはクソガキとぴったりだか、いやしかし。
後輩がこきりと小首を傾げた。
「いや、これなら吉野に話す時さらにおもしろくなるなって」
「やっぱり三木がいた!」
頭を抱えた。もうお前ら本当どうなってるんだよ。
「もうお前らが付き合えば。三木の彼氏も納得して身を引くだろ、思わず」
「嫌だなあ、私は高校時代から吉野の女ですよ?」
「誰なら勝てるんだよあの女に……」
「あ、やっぱそう言います? 私たちの担任もそう言ってたんですよ、昔」
「お前ら担任に何したの?」
気の毒過ぎるだろう……いやでも、こんな奴らを一纏めにしていたのだから……その担任も何だかんだ一癖も二癖もある人間な気もする、が。
「……まあそんなことになったらあいつが黙ってないだろうけど」
ぼそりと言っても後輩に変化はなかった。にこにこと微笑み、堂々と『言わない』という選択をする。
知っている。
そう来るとは、思っていた。
最大のミッションである他社の映像作品は、後輩のパスにより難無く見ることが出来た。なるほど、撮るものは似通っていても編集で大きく差が出ている。うちももう少し画調をいじった方がいいのかもしれない。……細かい内容を頭にメモし、忘れないように強く思う。そのせいで若干、プランナーとの会話が疎かになりそうになったが、元から『無口でシャイな彼氏』像を後輩に作られていたのでうなずいたり相槌を打つくらいで済んだ。恐らくこちらが仕事に集中出来るように先を読んで敢えてそういうキャラにしていたのだろうと思う。
そういうところ。
何事にも一生懸命で、全力のところ、が。
「終わりましたねー。何とかなりましたね!」
式場を出て少し歩いたところで後輩がくはっと息を吐いてうーんとのびた。のびのびとしたその仕草にうなずく。
「どこか入りましょうか」
無事終えたことをメールで報告するでしょう? とでも言うような笑みにうなずいて、大通り沿いの喫茶店に入った。ケーキと映画を奢る約束をしていたのでまずケーキから、と思ったが後輩は紅茶を頼んだだけでケーキは頼まなかった。
「いいのか? ケーキは」
「はい、言葉遊びでしたから」
映画も気にしないでくださいね、と続けられてなんとも言えない気持ちになる。楽しみにしていたのは、自分だけか。……いや、後輩からしてみればミッション自体が全てでそれにわくわくしていたのだろうけれど。
「時間あるんだろ? なら映画行こう」
「ん? 気にしなくていいですよ?」
こきり、と小首を傾げられたがここは少し強引に押したっていいはずだ。首を横に振る。
「付き合わせたんだから。それに俺だって映画が観たい」
「あ、そうだったんですね。じゃあ観ましょう」
「今御影が好きそうなやつやってるだろ。それとか」
「あ、ごめんなさい、それ観に行く約束してるんです」
「ふうん。あいつ?」
「いえ、ダーリンと」
「三木ね」
「ふふー、だからちょっとそれはパスです。楽しみにしてるんで。アクションものもやってるのでよければそれにしませんか?」
「お前らのデートの邪魔をしようとは思わないよ……それにしよう。飲んだら移動だな」
この付近に映画館はない。やって来た紅茶を飲みながら会社に無事終えたことを報告し、詳細は纏めるが改善点がありそうだとだけ綴って送る。漸く本格的なデートのようになって来たと心が弾んだ。
こんなにかわいくて小さくて愛おしい生き物今日一日隣に連れて彼女として式場見学? ふざけんな真野地獄に堕ちろ千回堕ちろ
こんなにかわいくて小さくて愛おしい生き物
を隣に連れて映画鑑賞だ。いいだろたまには。たまには、別に。
だがしかし、呪いの言葉は確実に劇的な効果を齎した。喫茶店を出、電車に乗ってすぐ、絞られるように車両がおかしな風にスピードを落とした。緊急停車します、何かにお捕まりくださいというアナウンスと並行して車両は急激にスピードを殺し、いつもより不安定な足元だった後輩がその小さな身体を揺らした。
驚いたような顔で傾くーーー手を、のばした。
触れるその直前、自身で手すりを掴んだ後輩が身体を固定させる。
至近距離で眼が合ってーーー触れずに終わった、中途半端にのびた手を、ぎこちなく下ろした。
「……びっくり、しました」
「……だな」
緊急停車のことだろう。それ以外のことではない。……座席は疎らに空いていたので、敢えて立っている必要もないだろうと後輩を座らせた。自分たちのように立っている人間もいるが、全員座れるぐらい座席は空いている。
流れて来たアナウンスによると、踏み切りの故障のようだった。徐行運転で次の駅まで行き、そこで待機ということになるらしい。
これは派手に足止めを食らうなと思いながらのろのろと動き出した電車で何とか次の駅に辿り着くと、ホームはひとでいっぱいだった。振替輸送も行われているようだがバスもタクシーも長蛇の列で、とてもじゃないが、
「映画どころじゃありませんね……」
「……だな……」
帰るのでも精一杯になりそうだ。……何でこうなるんだと内心頭を抱えていると、後輩がスマホを取り出した。着信中。ーーー相手は、
「もしもし、ともり? どうしたの?」
眼でこちらに謝ってから後輩が名前を呼ぶ。ーーーごくごく、自然に。
「え、うん。……うん、まだ、一駅しか……うん、ひとすごいから、帰るのは時間かかると……え? え、いいよいいよ。気にしないで……え? ……ぁ、う……は、い。……はい、わかりました、ありがとう」
何だか申し訳なさそうに後輩が小さくなり、けれどきちんとお礼を言って電話を切った。
半ば予想しながらも、情けない心地で後輩の顔を見下ろす。
「ともりが車で迎えに来てくれるそうです」
本当、情けない。
一時間経ってもまだ電車は動いていなかった。タクシーに並ぶ長蛇の列は長いまま、むしろ長くなっていく一方。
到着したという一報が入り、喫茶店を出た。
「おかえり。大変だったね」
運転席から降りたクソガキは助手席のドアを開けると後輩を促した。
「真野さん、前座ります?」
「駄目。みーさんがいい」
「でも真野さんの家まで行くんだから真野さんが助手席の方が」
「みーさんがナビして。みーさんが助手席に座らないなら俺とみーさんが後部座席だよ」
「それだと真野さんが運転じゃん、シュール過ぎるでしょう……ナビは私ダーリンに任せっぱなしだから苦手なんだけどなあ……」
「確かに三木さん道強いよね」
公認だった。というよりクソガキと後輩が出会うずっと前からそうだったのだろうからクソガキが文句を言えるものではないのだろう。
もむもむ言いながら後輩が助手席に座り、クソガキが眼線でほら座れ、と後部座席を見やる。助かったのは本当なので素直に「助かった」と言ってから乗り込んだ。学生時代から何度も乗ったことのある後輩の家の車。あの時運転手は後輩で、助手席はやはり、三木だった。
「どうだった? ミッション」
「楽しかった。プランナーさんには申し訳なかったけど……」
「そっか」
「でもなかなか上手くいきましたよね? 『歳下の彼女のことが好きで好きで好きでたまらないけど照れ屋さんで素直になれずぶっきらぼう』なヒロくんとその彼女」
「真野今すぐ降りろ!」
「ともりここもう高速だよ!」
慌てた様子で後輩が言うがクソガキは奇妙なうなり声をくぐもらせながらミラー越しにぎりりと睨み付けて来た。恐ろしいほど顔立ちが整っているので迫力もひとしおだった。
「くそ、こんなにかわいい女の子連れて式場見学とか……ほんと、本当ふざけんなよ……何で俺じゃないんだ」
「そんなにともり式場見学行きたかったの……?」
「みーさんと行きたかったんだよ! くそっ、やっぱり腹立たしいやっぱり納得出来ない、昨日の夜の内に外に出れない身体にしておけばよかった」
「え……ぶつ、の?」
「みーさんにそんなことするわけないでしょ。極めて安全な方法でだよ。俺のベッドに縛り付けて身体中の見えるところ全てに痕付けておけばよかったんだ。そうすべきだった。何で俺昨日あんな必死に我慢したんだろう馬鹿みたいだ」
「き、昨日なんだか無口だなと思ったらそんなこと考えてたの」
慄いたように後輩が助手席でふるふるとする。……本当に、本当にこれは恐ろしいから考えたくもないが、……こいつら大丈夫だよな? 一線越えてないよ、な? ……いやまあ、ひとつ屋根の下、若い男女が暮らしていて何もない方がおかしい気もするが絶対駄目だ絶対超えるな。駄目だ。
「さあどうするみーさん俺滅茶苦茶不機嫌だよ。何してくれるの」
「も、最早脅し」
「あー不機嫌だなー機嫌悪いなー。みーさんは何してくれるのかなー」
「一週間全部私が家事やるよ」
「そんな色気のないことは希望しない」
「色気のあること希望されても困るよ……そもそもないもん」
「じゃあみーさんの色気があるところ一晩かけてじっくりゆっくり一緒に確認しよう。ね?」
「徹夜でポルノでも観るの? 最近借りてないよ」
あったなあポルノ上映会ならぬライティング勉強会。生真面目な顔で後輩が一時停止して肌の当たり具合を見るものだから気まずくてたまらなかった。なつか……しくない。
「何で他の男の裸みーさんに見せなきゃならないの。いいよ俺が脱ぐからそれで十分」
「いやいいよ脱がないで……」
「もちろんみーさんもぬ」「お前その辺にしとけよ」「ちっ……」
ミラー越しにまた睨み付けられたが気にしない。クソガキ。
「……で? 踏切故障で映画なし?」
「うん、残念」
「……でもみーさんが好きな映画、今度デートで行くんでしょ?」
こいつも断られたクチなんだろうなあと思う。バックミラー越しに眼が合ってしまいお互い非常にもやもやした気持ちになり眼を反らす。
「行くよー。他の映画観ようとしたの。けど駄目だった」
「……まあ次があるよ」
確実にないと思った。二人きりという場合においては。
「でもともりも真野さんもあの映画観たいならみんなで行く? 四人で。そのあとみんなでご飯」
「「……」」
沈黙が重なる。いやまあ、それでもいいけれど……何だろうこの納得がいかない感じは。
「吉野に話しときますね」
軽く振り返られにっこりとした笑顔でそう言われ、何とも言えない曖昧な笑みを返しておいた。三木にまた笑われるのだろう。きっと。
道的に先に後輩を家に返してから家に寄ってもらうことになった。別に後輩の家からならば数駅なのだが、やはりまだ電車が止まっているようなので。
「あ、そうだみーさん、タルトあるからね」
「ありがとう!」
車から降りた後輩に、窓を開けたクソガキが言った。うれしそうな笑顔を見てにこりと微笑う。
「膝の上」
「え?」
「俺の膝の上じゃなきゃ食べさせない」
「えっ?」
「みーさん膝の上に乗せて、手ずから俺が食べさせる。俺すっごい不機嫌だからね。みーさんはどんな風にご機嫌とってくれるのかなあ。楽しみだな」
爽やかに笑ったクソガキが絶句する後輩にそれじゃあまたあとでねと言い置いて車を発進させる。あっという間に後輩は小さくなり、角を折れて見えなくなった。
「……おい」
「なに」
けれっとした声にぴきりとこめかみが引き攣る。
「本気か」
「なにが」
「今言ってたことだよ!」
「どうして俺が嘘を吐くと?」
しかもみーさんに、と付け足されて頭を抱える。そうだ。そりゃそうだ。
「お前な! ちょっとは自重ってものを」
「自重してて手に入るくらいなら苦労してない。というより今の段階でだいぶ自重してる」
「……え、なに、なんでお前そんなに疲れてんの?」
「最近いろいろあったんだよ……」
「最近って……」
思わず言葉が重くなった。もうひとりの後輩から酷く遠回しに伝えられた、かつて後輩だった男が後輩に振るった事件。
「や、違う。悪い、言葉が足りなかった。それじゃない。それは本当もう大丈夫だ」
平静の声音に戻ったクソガキが表情を改めてそう言った。ほっとしてうなずき、思わず握っていた拳をほどく。
「あの事件は、トラウマとかにはなってない」
「……寧ろお前だろ。大変だっただろうし」
「それももう平気。問題ない。大丈夫だ」
「そうか。……」
……結局何も出来なかったあの事件。いや、むしろそのあとこの二人が揉めた時このクソガキの背中を押すような真似すらしてしまったあの時。
後悔はしている。けれどーーー
あれしかなかったのだろうな、と。
そんな風に、どうしようもなく、思っている。
予想よりだいぶ早い時間に帰宅した弟を姉は遠慮なく指差して笑った。
大爆笑だった。
この遠慮のない姉、年子ということもあり幼少期から自分の方が面倒を見ていたイメージだ。
「ぶっは! へたれいい人止まり!」
「っせえ」
「髪も眼も不思議なあのかわいい子でしょ? 御影ちゃん」
「……」
「絶対どこかのタイミングで彼氏いたと思うけどねー。誰も知らないだけで。あんないい子放っておかれるわけなない。ただ同い年だとちょっと荷が重そうかな。あくまでも友達で終わりそう。あの子は歳上の男から可愛がられるタイプだね。誰が見てようと気にせず自分の手元に置いて誰から見てもわかるぐらい可愛がって堂々と囲うような行動力のある歳上の男とかたぶんぴったりだよ。つまりヒロじゃないよ」
「……歳下は?」
散々な酷評は置いておき気になって訊いてみるとうーん、と姉はうなって、
「絆されるタイプではあるだろうけどね? でもそれはあくまでも歳下を可愛がる感覚だから、友達止まりだろうね」
「じゃあーーー」
「ただ、ああ、敵わないなって、心で思った相手だったら誰だって別でしょ」
「……」
「『ああ、敵わないなあ』って。『このひとだけにはどうあっても敵わないなあ』って……もう、一分の隙もないくらい心に思い知らされたらーーー歳上だろうが歳下だろうが関係なく、恋しちゃうでしょ」
「……」
「恋って言うのはね。思い知ることだとあたしは思うな」
思い知る。ーーー思い知る。
あのクソ生意気なガキがどれだけ必死に手をのばし続けているのか。
全身で何を叫んでいるのか。
眩しいものを見るような眼で見つめて、焦がれるように手をのばして。
全力で思い知らせようとしているーーーひとりの男。
「ガッツが必要よ? あんたに足りてないのはそこ」
「……」
「ライバル? 馬鹿ね、見習う相手の間違いでしょ」
そこのところ取り違えたらお終いね、という姉の言葉にーーー思い知ら、された。
好きなのにずるずると今の関係を引き摺っていたのは自分だ。
好きだから今の状況を変えようと力を溜め込んでいるあいつとは違う。
欲しがる癖に居心地がいいからと関係を変えようとしないのは自分だ。
欲しいから絶対に手に入れると心に決めているあいつとは違う。
違う、違う。ーーー何もかもが。
「……当たり前だろ、別人なんだから」
あっちがこちらに対して引け目を感じていることくらいわかる。ーーー『普通』になりたくて、でも『普通』を知らないということを引け目に思っていることくらい、自分でも。
でも『普通』じゃないからああやって何にも敗けず突き進んで行けるのだと気付いていない辺り、まだ付け入る隙はある。……ほんの少しなら。
それぐらいしか、ないけれど。
別に、だから手をのばしちゃいけないなんてことは、ない。
「……とりあえず、」
とりあえずは今度の休み、四人で行くことになった映画のことを思いながら息を吐いて眼を閉じる。ーーー席順くらいは、せめて籤引にさせてもらおう。
〈 心の方向性 決断の方向性 〉




