泣かない泣き虫、怯える迷子
〈 泣かない泣き虫、怯える迷子 〉
御影ユキの苦手なもの。
しいたけ。ホラー映画。グロテスクなもの。
蕪木灯の苦手なもの。
辛子。山葵。女一般。
その日はほんの少しだけ涼しい夜だった。窓を薄く開けると心地よい空気が染み入るように入って来て、綺麗に整えられた室内、居心地のいいベッドと夏用のかけ布団の間に挟まりうとうとと微睡む。七月に入り急に暑くなったり寒くなったりと昼夜の気温の変化は激しく、夜にしても昨日は蒸し暑かったが今日は涼やかだったりと、一進一退を繰り返していた。
今日ぐらいの気温は気持ちがいいなと思いながらすぅっと沈み込むように意識が薄れーーーばんっばんっと言う音で一気に覚醒した。ーーードアが勢いよく開いて閉まる音。続いてたたたっと廊下を駆ける音がしたので身を起こし眼を開けた瞬間、ばんっと今度は自分の部屋のドアが開け放たれた。誰だ。いや彼女しかいないだけれどいつもなら必ずノックが、
「みー、さ、っ、!」
ドアを勢いよく開けた彼女がそのままの勢いで駆け寄って飛び付いて来た。小さな身体が跳ね、自分の上に乗る。え、なに夜這い? よろこんでと言いたいところだがふるふると小さく震える唇や戦慄く細い肩を見るとそういう雰囲気ではない。不審者でも入り込んだかと思い身体が臨戦態勢に入る。
「ーーーどうしたの」
「と、と、ともり、」
「うん」
「で、でた」
「不審者?」
「ち、ちが。……ぁ、あいつ」
「あいつ? 真野?」
「な、なんでひろせんぱい? ちが……こ、コックローチ」
「……コックローチ?」
何それ? コーンフレークの種類かなにか? ……訊き返しかけ脳内がひとつの単語を導き出す。
「ああ……ゴキブ」「言っちゃ駄目っ!」「んくっ、」
弾けたように騒いだ彼女がわあっとその小さな手で口を塞いで来た。その分距離が詰まったので役得ということでそのまま勢いで押し倒してもらう。
「だめだめだめだめ、その名前で言っちゃだめ。一気にげんじつみが」
「ん……」
可能な限りでこくこくとうなずきながら彼女を見上げると彼女はそうっと手を退けてくれた。そのまま胸元に手を置かれる。
「へ、へやにいて、そろそろ寝ようかなって思って電気消そうとしたら、ちらっと視界を黒い影がうううっ。御影家に黒い影なんて。要らないよ御なる影来てよ!」
御なる影って何だろうと思いながらもこんなチャンスは滅多にないので起き上がり軽く彼女を抱きしめてよしよしと頭を撫でた。彼女がここまで取り乱すなんて見るのははじめてだったし何かもう小さくてかわいらしくてたまらない。ずっとこのまま膝の上で愛でていたかったがそうもいかないだろう。このままじゃ彼女がはらはらして眠れないだろうし。
「退治しに行くね、立てる?」
「うん、うん、ありがと」
こくこくとうなずきながら彼女が立ち上がる。最初の勢いはなくなったもののまだ動転しているのかぶつぶつと、
「こ、この家に来てからコックローチなんてはじめて見た。ショック。一匹いるってことは百匹いるってこと? 御影家人口より多いってこと? 父さんお母さんごめんなさい、きちんと掃除してたつもりだったんだけど……バイト代全部使って害虫業者呼びます」
「落ち着いて……家に出たこと今までなかったの?」
「な、ない。むかし、むかーしお父さんと三人で暮らしてた家で一回出たけど……」
「けど?」
「お父さんと私が押入れに逃げ込む前にお母さんが瞬殺した」
「そう……」
彼女の血の繋がった父親の方はゴ……コックローチが苦手らしい。
「じゃああんまり見たことないんだね」
「あ、あるにはあるんだけど。高校で隣のクラスがすごい汚くて、ゴミとかこまめに出さなかったからコックローチもわいて……うちのクラスまで遠征して来たからぶち切れて全員で隣のクラスに乗り込んだ」
「……どうなったの?」
「みんな頭に血が上ってたから『お前らこ汚ねえんだよ! よくゴミ捨て場にいられんな!』って旨を全員が各々で叫んで相手クラスの何人かが泣いた。何人か先生が駆け付けたけど私たちの正当性が認められてそのクラスの清掃監視が厳しくなった」
「よかったね」
「池西の発案で『ゴ◯◯◯だと精神的ダメージがでかいからコックローチと呼んでふわっとした認識にするようにしよう』って帰りのH.Rで発案されて以後採用されることに」
「ああ、それでその呼び方……」
愛すべきクラスメイトたちとの取り決めだったらしい。
「確かにあの隣のクラスは汚かった。ジュースこぼしたあとそのままだからべたべただったし生ゴミだってそのままだし。うう、うちはそんなことしてないのに……」
「出る時は出るから仕方ないよ。きちんと掃除されてるよ?」
彼女にこれ以上ダメージを喰らわせるわけにはいかないのでここで待ってもらうことにした。小さな身体をすとんとベッドに座らせ、少し肌寒いのでタオルケットにくるりと包む。青地のそれから心細そうな顔を覗かせる彼女の頭をよしよしともう一度撫で、捨てる予定だった雑誌をくるりと丸め部屋を出た。部屋を飛び出してでもドアを閉めたのは閉じ込めるためだったのだろう。さて、と気を入れ直し、ドアを薄く開けて滑り込みすぐに閉じて目を凝らす。ーーーと。
「……あれ?」
ひょっとして、これ? 思っていたのとだいぶ違うなと思いながら歩み寄った。
部屋に戻ると彼女は青い塊のままぴくんっと跳ね上がった。
「や、奴は?」
「ん、いなかった」
「消えたのっ?」
「や、いるにはいたんだけどね……コックローチじゃなかったよ」
「へ?」
ぱちぱち、と、彼女はタオルケットの隙間から眼を瞬かせた。
「ちょっと大き目な黒い虫。掃除関係なくたまたま入り込んだだけみたいだよ。捕まえて外に逃がしたからもう大丈夫」
「ともりって神? 神だったの?」
「落ち着いて」
「今料理酒しかないけどお神酒になる?」
「落ち着いて……」
小さな頭を撫でてゆっくりと言い聞かす。こくこくと素直にうなずく彼女に拝まさすのをやめさせ、御供物の代わりに添い寝してくれないかなと思ったが、とりあえずそれは、今は言わないことにした。
「みーさん虫が苦手なんだね」
「う、うん。わかる?」
「とてもよく。……お神酒はいらないから、明日はハンバーグが食べたいなあ」
「チーズも乗せます……」
ほっとしたようにくてっと力を抜きながらはにかんだ彼女を見て、心がふにゃりととろけた。
劈くような音で、一発。
『おー、今のはなかなか』
『ひしろん、今のなかなかどう?』
ひしろん言うな、と言いたげな顔のままじっとりとした眼でこちらを見つつ空に向かってマイクを向ける日代にスマホのディスプレイを見せながらにやりと笑ってみせ、『ひしろんがんば!』と無意味にガッツポーズして見せる。
ふいに降り出した雨、そのさらに上に空を罅割る雷鳴。
機材チェックで集まっていたのだが、運良く雷が鳴ってくれたので『せっかくだから雷の音撮りしようぜ!』となり、屋上の軒下のベンチで鉢嶺と日代とミユキで並んでごろごろ渦巻くその音を録音する。と言っても録音部である日代が全て機材を操り、鉢嶺とミユキは音を立てないようスマホのディスプレイでこそこそ会話しているだけだが。日代は両手が機材で埋まっているので聞くだけで(読むだけで)なにも出来ない。頑張れひしろん。
十五分くらいずっと雷を撮り続け、だんだん遠ざかって行った雨雲と雷を見届けスイッチを落とす。「ふぃー、」と三人でうーんとのびをし、雲の隙間が出来てももう薄暗く染まりつつある空を見上げる。
「なかなか見事だったなあひしろん」
「なかなか見事だったねえひしろん」
「なかなか見事ではあったけどなひしろん言うな」
地元駅に電車が到着した時、あちゃ、と小さく思った。大学で見送った雨雲と雷は時間を置いて地元に辿り着いていたようだった。追いかける形になってしまったらしい。
傘はない―――バスに乗ろうかと思ったが長蛇の列で見るだけで疲れてしまった。家まで十分くらいの道程のために傘を買うのも……まあ、帰ったらすぐお風呂に入ればいいし……いい、かな? 幸い濡れたら困るものは鞄に入っていないし。
それでも一応、羽織っていた薄手の上着を脱いでリュックを背負った。その上から上着を羽織る。不恰好だがまあ、家に帰るまでなので。
「うん」
こくりとひとつうなずいて、雨粒滴る空の下駆け出した。
「ふひゃあ……」
髪から滴って頬に流れる雨粒を同じく濡れた手で拭い、漸く家まで辿り着いた。雷の音は酷くなって来ている。光ってから音がするまであまり間隔がなく、まさにあと少しで雷はここに到着しようとしていた。……ふと違和感を感じて視線を上げる。家の外、玄関先の灯りが点いていない……ひょっとして、停電している? シャツの裾を絞ってなるべく水分を抜き、それでもまだぺちゃぺちゃ言わせながら鍵を開けて家に入った。真っ暗な玄関。手探りでスイッチを求め押したが、ぱちぱちと乾いた音がするだけで灯りは点かなかった。完璧に停電だ。ここら一帯だろうが、復旧にどれだけかかるか。
「……ともりー?」
水曜日。普段ならこの時間にはもう家にいるはずだと思いながら声をかけたが、家の中はしんと静まり返るだけで何の返事も返って来ない。……ひょっとしてどこかで雨宿りしているのだろうか。だとしたら迎えに行ってあげないと……スマホを取り出し、ぽたぽたと滴る水滴を拭いつつホームボタンを押すと、手元にじんわりとした灯りが灯った。メッセージアプリを起動させようとして、
「……ん、」
ともりのスニーカーが玄関にあることに気付いた。帰宅している。……眠っているのだろうか? この雷鳴り響く中?
「―――ともり?」
ぞっとした。嫌な予感がする。……靴を脱ぎ、べちゃべちゃとする靴下も一緒に脱ぎ捨ててリビングへ入った。薄暗い中眼を凝らし、スマホの灯りでぐるりと見渡す。……作りかけの夕飯。炊飯器などの電源は全て落ちている。コンロに火は付いておらず、換気扇は回りっ放し。
「……っ……」
二階へ。早く。ぽたぽたと水滴を落としながら、もう灯りで段差をいちいち確認なんてすることもなく片手も使って身を低くして駆け上がる。辿り着いた二階、廊下の突き当たり。白いシーツを被った何かが、どこにも逃げられないそこにいて―――
「ともり!」
劈くような轟音がして、一瞬だけ真昼のように明るくなった。
白い大きな塊。濡れた服を纏ったままそのシーツに手をかけた瞬間、中から手が閃いてその手にきつく掴まれた。
「!」
一瞬で引き寄せられて、息が詰まるほど強く抱きしめられる。―――違う。縋り、付かれる
「―――とも、り」
引き寄せられた瞬間スマホは落とした。シーツの中、何も見えない薄暗い中。滲む輪郭を辿るようにしてそのやわらかい髪の頭を抱きしめる。
「―――昔、ハハオヤ、が、」
表情は見えない。顔は見えない。―――それでも今、ともりがどんな貌をしているか、わかる。
「言ってた。―――あんたたちは、雷の鳴る日に生まれて来たんだって」
喉元でごろつく、掠れた声。
耳の縁に微かに、震える冷たい唇が、触れた。
「ひとりで、よかったんだって」
かすかすに掠れた、……あまりにも残酷な、昔の、話。
昔確かに、あった話。
「かみなりがあんたを連れて行ってくれればよかったのに、って」
―――力加減を見失ったかのように。
胴に回された手が、ぎり、と、肌に食い込んだ。
あたたかい身体。濡れて冷え切ったミユキの身体に縋り付く、大きくて逞しいかつての迷子。
……微笑って、ぎゅう、と、その身体を抱きしめた。
「……あのね、ともり」
どんなに轟音にも敗けないように。
空を罅割る力にも敗けないように。
世界の悪意に敗けない言葉を。
「一瞬空を照らすだけの光なんかに。ともる灯りが奪えるわけ、ないんだよ」
不幸ではなく幸を選んだ君に、影から言葉を、伝えよう。
お互いの顔も見えないくらい暗く。
お互いの吐息が睫毛を揺らすほど近くで。
見えない視線をじっと合わせ、そして―――震える手がミユキの冷たく濡れた頬をなぞり、首筋にあたたかい吐息がかかった。
冷え切った身体がすっぽりと抱きしめられる。二人で籠もったシーツの中、じんわりとあたたまる空気の中、指先から爪先まで、身体中丸ごとあたためるように。
既にミユキのせいでびしょ濡れになってしまったともりに申し訳なく思いつつも、そのあたたかさについ身体がほっとして力が抜けた。大丈夫なんだよ、と、小さく呟く。
識っている。あたたかい。
君はこんなにもあたたかいのだから、大丈夫なんだ。
御影ユキの苦手なもの。
しいたけ。ホラー映画。グロテスクなもの。虫一般。
蕪木灯の苦手なもの。
辛子。山葵。女一般。雷。
御影ユキは、虫が出た時部屋に飛び込んでタオルケットに包まれることを覚えた。
蕪木灯は、雷が鳴る時あたたかいひとに抱き付いて言葉をもらうことを覚えた。
〈 泣かない泣き虫、怯える迷子 微笑った泣き虫、かつての迷子 〉




