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ブレーメンの戦い

〈 ブレーメンの戦い 〉


何だか微妙に首筋が痛む気がしたがそれを押し退けて外に出た。館内は喫煙室があるものの一階からは遠く、外に出た方がまだ早い。確か入り口付近に灰皿があったなと思い出し、待合室に溜まる仲間や部下に「ちょっと煙草吸って来るわ」と取り出した箱を軽く振った。近年減少傾向にあるもののこの映画業界、特にこの部署はまだ根強く喫煙者が残っている。何人かうらやましそうな顔を向けて来たが、彼はまだ事情聴取が残っている。処置はもう既に終わっているのでさっさと一息ついて一服したいのだろう。かわいそうに。

その場に留まる組のひとり、一番小さなーーー周りの男たちに比べて極端に小さな、最早比べるまでもなく線が細い女ーーー童顔のせいで女子高生くらいにしか見えない少女と眼が合う。朝方の仄明るい待合室、ふわりと長い睫毛が瞬いて小さく笑った。治療は終わっているがこの中では唯一喫煙者ではないし、例え吸わないとわかっていても周りの上司ーーー少女から見てーーーを差し置いて外に出るのはどうかと控えたのだろう。なんとなしに小さくうなずき、ひとりで外に向かう。まだ点々としか明かりの付かない廊下をひとり歩く。

ーーー夜明け前、照明部を含めたスタッフを乗せたハイエースの前にふらふらと酔っ払いが飛び出して来た。信号無視どころか横断歩道もない見えない場所から唐突に。運転していた撮影部の若いのはとっさにハンドルを切り酔っ払いを轢かずに済んだが、結果ガードレールに衝突した。徹夜明け、座席で微睡んでいたスタッフ全員が衝撃で飛び起きた時は既にエアバックが作動し運転手と助手席にいた照明部のトップが白いクッションに埋もれていた。当然トップは眠っていたので内心驚愕もいいところだっただろう。幸い、鼻血が出た程度で何もなかった。

問題なのは運転手だった。とっさに身を捩ったらしくどこかで頭を打ちこめかみの辺りを切ってしまった。後部座席にいた自分を含めた七人のほとんどは座席から放り出されたり前の席に衝突したりと膝を打ったり首を違えたりした。シートベルトってやっぱ大事だな。今度からは後部座席でも必ずするわ。

病院の外に出て、朝の空気を思い切り吸う。これから身体によくないものを吸うのだが、それでも夏前の朝のまだ微かに冷たい空気は身体をほっとさせた。

酔っ払い共々、まあまだ軽傷で済んでよかったなと煙草を取り出そうとしてーーー足早に女性が近寄って来た。思わず目を凝らす。見たことがあった。あれだ、同期の嫁だ。

「あ、鳥居さん!」

ほっとしたように女性が言った。駆け寄り、「大変でしたね!」と何かを堪えるように言う。

「いえ、俺はちょっと前の座席にぶつけただけなんで」と答え、相手が何か言う前に「突き当りを右、待合いにいます。元気ですよ」と夫の居場所を告げる。それが一番最初に訊きたいことであっただろう女性はほっとしたようにうなずき会釈した。小走りで中に入って行く。

やれやれ、迎えに来てくれるなんて愛されてるねと揶揄い混じりに思いながら煙草を咥え、再び聞こえて来た足音に目を向けーーーぽろりと、煙草を落とした。

朝焼けの中、ひとりの青年が走って来ていた。小走りではない。全力ともいえる速度で。長い脚が地面を蹴り、漆黒の髪が揺れる。長身痩躯、細身だが筋肉質な身体。ーーーそして、その顔が。

近づいて来られる度、一歩こちらと距離が近付く度。

その青年が、映画やドラマでアイドルや俳優を見慣れている自分が見ても見たことのないくらい顔立ちの整った青年が近くなる。ーーーすごい速度で。

凄まじい速度で走って来た青年は数メートル手前でこちらと眼が合った。このまだ通常時間外に病院にいる人間、そしてシャツに膝丈のズボンという照明部の男御用達な格好。眼と目で察し、青年が眼の前でブレーキをかけ「すみません」と言葉を紡いだ。昨今騒がれている声優のような聞き心地のいい声。

「照明部の方ですか」

「あ、ああ」

誰だ。誰の身内だ。二十歳そこら。誰かの息子であってもおかしくない年齢だが、いやしかしこんなの誰の顔にも似てねえぞ! どれだけ美人な嫁もらったらむさ苦しい無骨な顔の遺伝子継いでもこんなのが生まれるんだよ!

「すみません。御影の、」

「あ」

そうだ御影! や、似てないが! でもまだ可能性は高い!

「突き当り、右、待合い」

日本語を覚えたての外国人のようにたどたどしく単語で何とかそう絞り出すと、青年は急いだように、けれど礼儀正しく一礼した。

「ありがとうございます」

そしてまた風のように立ち去る。まだ薄暗い院内に吸い込まれるようにしていなくなり、ぽかんとその背中を見送ってーーーややあって、落ちた煙草を拾うこともなく小走りで青年のあとを追う。まだ辛うじて背中が見えていた青年が角を曲がり完全に消え、ラグを経て自分も角を曲がりーーー

再び見えた青年の背中はちょうど待合いの数メートル手前にあった。足音に気付いたというより心がその存在に気付いたように一番最初にふわりと少女が顔を上げる。ーーーその表情が、ふわっと鮮やかになった。

「ともり」

やわらく紡がれたその名前は、決して大きくなかったがそれでも確かにその場に小さく響いた。

「っ……」

青年が息を呑んで。残りの数メートルも全力で駆け抜け。ーーー少女の眼の前に、立った。ソファーから立ち上がった少女がそれでもまだ目線の高い青年を見上げ瞬く。

「怪我はしてないよ、電話の通りーーー」

「うん。そうだね、よかった、安心した……」

「朝早いのに起こしちゃってごめんなさい。大丈夫だったのに……」

「逆の立場だったらみーさん来てくれるでしょ」

「……そうだけど」

終わりそうにない会話を一度止め、少女が青年に目配せする。青年が微かにうなずき、呆然とする男共に対して綺麗に向き直った。

「ーーー家族ぐるみで親しくさせてもらっている蕪木くんです。迎えに来てくれました」

「はじめまして、蕪木灯です。いつも御影がお世話になっています」

がちがちな堅苦しさはないがきちんとした礼儀が感じられる涼やかな声。お、おお……とおっさん共が呑まれたようにうなずく。トップをはじめその青年の姿にーーーその青年と少女の空気にーーー呆然としてしまい数秒が無言で過ぎる。……ややあって一番最初にぎこちなくだが動き出したのは自分だった。

「……まだ時間いるみたいだし、少しそっちで話して来ていいぞ」

事情説明があるだろう、というニュアンスに聞こえるよう言うと少女がぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます。すぐ戻ります」

「や……ごゆっくり」

余計なことを言ってしまった気もしたが少女が気にする様子はなかった。目配せで青年を呼び、青年が眼で返す。ぺこりと青年も頭を下げ、少女と一緒に待ち合いを横切った先にある角を折れて消えた。

いち、に、さん。二人が消えてそれくらいカウントし、一斉に立ち上がったおっさん共はそのでかい図体はそのままに僅かな足音さえも立てず全員がその角に張り付いた。外国の童話よろしく下から上へ顔をそうっと覗かせる。おっさんの音楽隊。字面も酷ければ絵面も酷い。その酷いものが少女と青年を盗み見る。もう本当に酷い。酷い。

声は、聞こえなかった。廊下に置かれたソファーに少女を腰かけさせた青年がその前に跪き、ほんの少し下から見上げるように少女を見つめる。何か問うように口を動かし、それに対し少女は小さくうなずいたりふるふると首を横に振ったりした。あまり見たことのない、子供のような仕草だった。青年の手がのび、束ねてあった少女の髪をとく。青年の指がそれを梳きさらさらと零れ落ちた少し癖の付いた髪がふわりと色を変え不思議に染まる。……漸く安堵したように青年はふっと息を吐き、顔を寄せてーーー少女の肩に、額を付けた。そっと、本当に大切なものを抱きしめるかのように長い腕がのび、少女は抵抗も何もせずその腕の中に収まった。ぽんぽん、と、少女が宥めるように青年の背中を小さく叩く。

……無意識に止めていた息を、吐いた。ため息が重なって、おっさん共は自分を含め全員息を止めていたことを知る。

「……え……」

乾いた声がして全員で振り返った。頭に包帯を巻き、鼻のふちに赤黒く固まった血が付く若いが滅茶苦茶疲れている男……本日一番の怪我人、運転していた撮影部の緑。町井。

……そういや町井、御影のことを狙っていたな……と思い出す。御影は全く気付いていないようだったのであくまでも仕事の距離感を保っていたが……むしろ少し遠巻きくらいの距離を保っていたが……。……何も伝わっていなかったじゃないか。漸く検査が終わって解放されてこれって、……今日は厄日だな町井。

ややあって青年がゆっくりと御影から身を引いたのでおっさん共(と呆然とした失恋男)は音も立てず素早く席に戻った。呆然と立ち尽くす失恋男を引き摺るのも忘れない。二人が戻るまでの間ぼそぼそと、「彼氏だろ?」「御影そこら辺ぼかすよな……」「彼氏募集中ではないらしいが」「そりゃあんなのいたら募集しないだろ……」恋愛は今ちょっと、というタイプかと思ったのだがこれは全然、全く、

「え? 近所に住んでんの?」「事故ったあと御影が連絡したってことだろ?」「帰宅時間がずれると心配する間柄?」「一緒に住んでない限りそれは……」「……同棲?」「……それって彼氏だろ」「…………………………」

……沈黙が下りた。

「失礼しました」

ひょこりと御影が姿を現した。そのほんの少し後ろに青年を従えて。目が合うと、青年が軽く会釈する。

何だろう……彼氏か? と訊けない雰囲気がある……あまりにも二人の空気が自然過ぎて。隣ではなくても、手の届く距離にいるのが当たり前のような……。

「……」

おっさんが全員、顔は向けず視線だけで町井を見る。視線に気付いたように御影が表情を変えた。

「町井さん。大丈夫ですか?」

「……大丈夫……」

かすっかすに掠れた声。御影が心配そうに表情を曇らせたが残念ながら原因は怪我のそれではない。それじゃないんだ。

「……」

ふと。痛みのない冷たさを感じて目を向ける。ーーー黒髪の青年。

その黒曜の眼が、何も言わずーーー何も言わせず、町井を見据える。

「……」

一秒も耐えられず。町井は逃げるように、目を逸らした。

「……御影、お前もう帰っていいぞ」

「え? でも、」

「俺も帰るよ。かみさん来てくれたし」

帰って来るの待ち、と同期が言う。先程来た同期の嫁は医師から話を聞いているようだった。

「もしあとからどこか痛むとかあったら連絡しろ」

まあ御影は後部座席で唯一シートベルトをしていたのでほとんど怪我はないはずだか。

「……わかりました。ありがとうございます」

「おう、また打ち上げで」

「はい。お世話になりました。お先に失礼します」

ぺこりと御影が頭を下げ、青年もそれに続いた。踵を返し、並んで歩き出してーーー御影がなにか話しかける。こきりと小首を傾げ、青年が小さく首を横に振る。角を曲がる瞬間、青年が御影の肩に手をのばした。……垣間見せる瞬間があまりにも嫌味なく、しかし強烈に主張していた。あの青年がどんな風に御影を捉えているかを。

「……まあ、どんまい……?」

気を効かせるように言ったトップの発言は、残念ながらこの上なく浮いて終わった。




三日後、『クランクアップ後に事故る』という前代未聞の笑い話ーーーで済んだから良かったーーーをぶら下げたスタッフ一同で盛り上がりはじめるフロアの一角を占める。いろんな部署と混ざり合う中、いろんな人間が「御影は?」と小さな姿を探していた。

「もうすぐ来るんじゃないかな」

ざわざわとしているフロア内をなんとなしに見てーーー全体的に黒い頭たちの中から、他の色に混じりそうで決して混じらないその色を見付ける。

「あ、ほら」

「おーぅ御影! 来たか!」

「遅れてすみません」

人波の中からひょこりと顔を出したのは紛れもなく御影だった。が、当たり前だが格好が違う。薄く化粧していたし、着ているそれもジーンズにパーカーではなくシンプルなワンピースだ。膝から下に覗く脚はほっそりと白い。ハーフアップの髪型は簪で纏められ、髪の隙間からなめらかなうなじが見えていた。ワンピースの上品なグレーが光の加減で淡く色を変える。

けばけばしさはない。が、思わず手をのばしたくなる控え目な華が確かにあった。

「美人だなあ!」

ひゅう! と口笛を吹かれ御影が笑った。花が綻ぶようなその笑顔に周りも笑顔になる。

「あ、おら、町井! 御影だぞ!」

事情を知らないスタッフのひとりが人混みの中にそう叫び、事情をとてもよく知るおっさん共はびくっとした。この日ばかりはくすんで見える緑の髪の頭を人混みの中から連れ出し、どんっとばかりに御影の前に引きずり出した。気を利かせたようだが確実にとどめを刺していた。

「こんばんは、町井さん。怪我、大丈夫ですか?」

「……あ、うん。大丈夫……」

首にコルセットを巻いている状態の何が『大丈夫』なのか甚だ疑問だったが。あちこちに落書きやメッセージが書かれた愉快なコルセットをその深い眼で痛ましげに見た御影はそれでも小さくうなずいた。

「町井今彼女いないんだと! 御影は彼氏いるのか?」

大きな笑みを浮かべながらスタッフが言うが、やめろやめろそれ地雷だから! 地雷そのものだから! ちょ、本当やめろ誰か止めろ!

「あー、そういうのは今ちょっといいかなって……思ってます」

「そうなのか? でも意外と付き合ってみると上手く行く場合もあるぞ?」

「んんんー」

迷うような揺らぎはない。にこりと微笑みながらも御影は確実にさらりと流していた。

「ちょっとまだ勇気出ないです。それより後輩の女の子たちからたくさん遊びの誘いもらっちゃって。しばらくはかわいい女の子たちとはしゃぎます。私、意外ともてるんですよ?」

えへん、と冗談っぽく胸を張った御影に一部のおっさん共は胸中で呟いた。知ってるよ。いや、お前はそういう意味で言ったんじゃないんだろうけど。

上手い具合に話を逸らした御影にやれやれと溜め息を吐く。予想通り、今日は打ち上げというより町井の慰め会にシフトするのは確実だった。




「……俺、あの男見たことある気がするんすよねえ……」

二次会会場の片隅、だいぶ酒の回った町井が据わった眼でぼそりと言った。

「あの男って?」

離れた場所で楽しそうに他部署の人間と喋っている御影をおっさん共でちらりと見る。似たような年齢の男女や離れた年齢の男女。無自覚のひとたらしだった。元気よくはきはきと返事しよく働く若くてかわいらしい小さいのが毎日現場を走り回っていたら、そりゃあ人気が出るだろう。

「あの男のはあの男です」

「あの男って?」

「だからあの男です」

「あの男って?」

「……あの桁違いなイケメン!」

あんまり虐めないでくださいよぉ、と情けなく町井が言ったので悪い悪いと謝った。

「見たってどこで?」

「都内で泊まったホテルで。ユキちゃんの部屋に行ったらあの男が出て来た気が……や、酒入ってたんで確かではないんすけど。でもあんな顔見間違えるなんてこと……」

「……お前、部屋行ったの?」

積極的ではあるがそれはどうなのだろうと少し引いた。鳥居は苦笑いする。

「それで部屋に入れてくれるようなタイプじゃないだろ、あいつは。真面目な奴だよ。アプローチの仕方間違えたら引かれるだけだろ」

同期の意見にうなずく。生真面目な奴にそれは効かない。

「……酒、入ってたんすよ。だから……酒入ってたから積極的になれたんすけどね」

「まあわからなくもないが」

「でも部屋行ったらすげえ桁違いなイケメンが出て来て……不機嫌通り越して殺気すら出してて。びっくりして引き下がって、……酔ってたから間違えたんだろうって思ってあの時はあきらめて……次の日ユキちゃんに聞いたら部屋にいたって言うから、ああ本当に間違えたんだなって思ったんすけど……」

「……」

「……今思うと『いました。早い時間から横になっちゃいましたけど』って答えたんですよ、ユキちゃん……」

「……」


(ずっと部屋に二人で)いました。(いろいろあったので)早い時間から(二人で)横になっちゃいましたけど


「………………」

「……黙らないでくださいよぉ……」

「……悪い……」

本当。

「……や、でも御影がいくら知人とはいえ仕事中に部屋に男招くか? 自分の金で泊まってるわけじゃないのに。まあ呼ぶ人間もいるけどあいつはしなさそうだろ」

「そう、思いましたけど。でも『家族』なら別かなあと」

「家族?」

「例えば家族がたまたまホテルの近くにいたら、泊まる泊まらないは別として部屋に入れることもありますよね。ここのところろくに家に帰れなくて家族とも一緒に過ごせてないんだろうし。家族なら。家族の距離感なら」

「……」


(結婚前提なので)家族ぐるみで親しくさせてもらっている蕪木くんです


「………………」

「……黙らないでくださいよぉ……」

「……悪い……」

なんかもう、本当。

「……ま、まあ、あの御影が部屋に入れたのは家族同然の男だからとしよう。あの桁違いなイケメンが家族の距離にいるとしよう。仮に」

「事故ったあと時間気にせずすぐ連絡するような、帰宅時間がずれたら心配するからと思って自主的に電話するくらいそれが当たり前の存在と捉えてるとしよう。仮に」

「病院で桁違いがお前のことを芯から凍えさすような眼で見据えたのは威嚇だったとしよう。仮に」

「去り際ぎりぎりのところで御影の肩に手をのばしたのも『肩を抱いてもおかしくない、拒絶されない関係』なんだとお前に見せ付けるためだったとしよう。仮に」

「町井、気をしっかり持て。仮に、仮にだからな。聞いてるか?」

「やっぱりあの時もっと強く頭打ってればよかった」

がたんとテーブルに突っ伏した町井が痛そうにうめいた。




宴もたけなわ、三次会は各々でということになり、場は解散した。それでもまだ余韻を楽しむようにその場で別れを惜しむスタッフたちをぼんやりと見ながら、ラーメンが食いたいなあと考える。近くに一軒くらいあるだろう。

「なあ、」

「魚介系でいいのあるぞ」

「豚骨にしないか?」

「濃いだろ」

「濃いか……。町井も行くか?」

返事はなかった。町井の澱んだ目は、先ほど『お世話になりました。またよろしくお願いします』とあいさつをして立ち去った御影の姿をじっと見ている。三次会にはどこも参加しないらしい御影は女性スタッフとはしゃぎ別れを惜しんでいた。

「……ユキちゃん、小さくてかわいいじゃないっすか」

「……そうだな」

「でもしっかりしてて明るくてやさしくて人当たりも良くて真面目で」

「そうだな」

「でもすげえ度胸あるじゃないっすか。咄嗟の判断力とか土壇場の行動力とか」

「そうだな」

躊躇いなくトラックの前に飛び出し両手を広げた小さな女。

あれがなければ、果たして何人が怪我をしたか。撮影ごと潰れていたかもしれない。

「あれ見て惚れない奴はいないでしょ」

「……そうだな」

確かにあれはーーー

ぐっと来た。ーーーなんて滅茶苦茶で、そしていい女なのだろうと。

視線の先で、御影が女性スタッフと手を振り合い、ひとりで歩き出す。

少しずつ少しずつ、遠去かる。

「……俺、」

町井が、言った。

「ちょっと、行って来ます」

だっと走り出す、緑の髪。

惚れた女を追う、若い背中。

少しだけ驚いて同期とその背中を見送ってーーーぼそりと、同期が呟いた。

「……逝って来ますに聞こえたの俺だけか」

「……俺もだ」

顔も合わせず走り出す。長年を共にした同期だからこそ出来る合わせ方。

技術部なめんな。

おっさんなめんな、若者!




角を折れた大通り、特徴的な緑の髪と特徴的な不思議な髪を探して走りーーーその緑の髪が立ち尽くした背中に、追い付いた。

町井はひとりだった。

もうふられたあとかと思い見逃したと溜め息を吐きかけたが違い、町井は呆然と遠くを見ていたーーー二人を。

視線の先、ガードレールに寄りかかっていた長身痩躯が立ち上がる。ーーー酒が入りテンションが上がったのか、たたっと小走りで駆け寄る小さな姿を認めて。

たんっと眼の前に軽く着地した御影が青年を見上げて何か言う。こちらに背を向けているので何を言っているのかはわからなかったが、桁違いなその顔がゆるゆると笑み崩れたのは離れていてもよくわかった。

思っていたより酒が回っていたのかもしれない。いや、よく見知った顔を見て気が抜けたのかもしれない。ふわっと少し不安定に揺れた御影の肩を青年が抱いた。驚きも拒絶もなくそれを受け入れすっぽりと腕の中に収まった御影をエスコートするように並んで歩き出す。青年の片手が御影の持つ小さな鞄をするりと攫った。

どこからどう見ても仲睦まじい、その関係にまるで違和感のない二人はそのまま肩を並べ、横断歩道を渡って大通り沿いのホテルに入った。よくあるビジネスホテルだが、ビジネスホテル、なの、だ、が……。

「……なあ」

「やっぱ飲み屋だな。適当に入るか」

抜け殻となった町井の肩をぽん、と同期と両方で叩いて、ポケットから覗くマジックペンを抜き出しコルセットに付け加えた。ーーー本当、どんまい。と。




「打ち上げ楽しかった?」

「うん、たのしかったー」

「結構飲んだね?」

「のんでないよー」

「擽るよ?」

「そんなにのんでないんだけどー」

「酔いが回ったのか。……ほら、みーさん、シャワー浴びて。明日飛行機早いんだから」

「はあいー」

ぽふっと椅子に飛び込み座るというより乗るという状態の彼女の髪に触れ簪を引き抜いた。精巧な硝子細工の美しい簪が間接照明の気だるいオレンジを受けてきらりと光り、その光と共に色を変えながら髪が流れ落ちる。……自分が識る、思わず傅きたくなるほど美しい光景のひとつ。

うなじを掠めた手が擽ったかったのか、ご機嫌な彼女が「あのね、くすぐったいの」とふにゃふにゃ笑った。……落ち着け、落ち着け、俺。

「ともり、パスポートちゃんともってきたー?」

「持って来たよ。さっき幸絵さんとも電話で確認したけど、時間にはあっちの空港に迎えに行くから二人共迷子になることはないわよって」

始発で空港に向かうーーーそうしても間に合うはずだか、万が一遅延したりすることを考え地元駅からより違いこの駅に一晩部屋を取った。今からだと数時間しか滞在しないが、今回は断然こちらの方が便利だった。

あと一日もあれば家族に会える彼女がご機嫌に笑う。

「ふは、とうまにほっぺにちゅーしてもらうの」

「うん。俺もしようか? 今」

「とうまのほっぺにちゅーするの」

「うん。俺にもしてくれない? 今」

椅子にすりすりと懐くふわふわな彼女を抱き上げた。浮遊感がおもしろかったのか楽しそうにきゃっきゃと腕の中で彼女がはしゃぐ。ベッドに下ろし、その細い首にある華奢なネックレスを外した。

「誰かからのプレゼント? これ」

「あのね、はたちなの、くのじい」

「そっかあ。二十歳のお祝いにくのじいがくれたのかあ」

だいぶ舌も頭も回らなくなっている彼女に、果たしてこのあと数時間後きちんと起きて金属検査を通れるのだろうかと疑問に思う。飛行機まで乗れてしまえばあとはゆっくりしてもらえるけれど……。

綺麗なグレーのワンピースの腰で結ばれたリボンを解いた。いつもより高さのあるヒールも脱がせる。これ以上は今回流石に、というよりこれ以上脱がせるなら潔く全部脱がせるし俺だって脱ぎます。

「みーさんほら、シャワー浴びて。いい子だから」

「んん、はあい」

言いつつもぽふんっとクッションに埋もれた彼女は動かなかった。嘆息してその白い首筋をするりと撫でると「ひゃんっ」と甘い声を上げて彼女がぴくつく。この攻防戦、一方的にこちらが不利だった。

眼を開けた彼女がーーークッションに埋もれたまま、片眼でじっとこちらを見上げる。

「……たのしみ?」

少しだけ不安そうな、その声。

異国の地、自分の家族に会いにいくことをどう思っているのかーーーそっと確かめようとする、ゆらゆらと揺れた声。

ふ、と微笑って、顔を寄せた。その首筋を、頬を、髪をーーーやわらかく撫でる。

「すっごく楽しみ。みーさんが俺の家族に会うのが好きなくらい」

仄かな明かりさえも呑み込み、そのままーーー否、眼に見えない光さえも呑み込み輝きを増して映す、その深い深い大きな眼が。

自分を見て、ふは、と微笑った。

「……ん、なら、うれしい」

本当にうれしそうな、幸せそうな声で。

「……ともり」

「なに?」

「……じゅっぷん、だけ、」

「いいよ」

十分だけだよ、と耳元でささやき、頬を撫でる。

とろとろと眼を閉じ、心地好さそうに小さく息を吐いた彼女はーーーくるりと胎児のように軽く丸まって、一日後を夢見るように、やわらかな呼吸に落ち着いた。




〈 ブレーメンは戦い、子供たちは家に帰る 〉



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