あなたの嫌いなその日のこと 9
穏やかに流れる空気が心地よい。頭の芯まで熱が篭り、それを吐息に溶かすように息を吐いた。
電気を落とし、居間が暗くなる。わこおばさんは明日の朝また顔を出すと言って近所にある自宅に帰り、くのじいは就寝した。彼女ももう寝ただろうかと思いながら縁側に顔を出すと、……そこに、彼女がいた。
ほんのりとした月明かり。都会の月とは違うその光が宵を微かに照らす中、縁側に腰かける彼女。
浴衣姿のままだった。ここから見てもわかるなめらかな白い肌。長い睫毛がゆるく伏せられ、気配に気付いたのか、ゆったりと視線が上がる。
その深い深い眼が、自分を見て微笑んだ。
「ともりくん」
彼女が呼ぶ。いつもなら君付けは嫌で訂正してもらうのだが今は全く気にならず微笑み返すと、彼女がふうわりと片腕を上げた。
「こちらに、来なさい」
やわらい声。藍色から覗くその白い腕に誘われるように歩み寄り、隣に腰を下ろした。
しばらくそのまま、無言で空の月を見上げる。
「……綺麗だろう?」
ややあってーーー彼女がそう言い、微笑んだ。……いつもとほんの少し違う、大人びた貌で。
「昔からそうだ。ここから見上げる月が一番綺麗。ここに来る度雪絵にも見せたし、幸にも見せた」
幸はまだ小さかったから、膝に乗せてね、と、くすくす微笑う。
「きれいだね、きれいだねえ……って言って、黙って。……じっと月を見つめているんだ。月明かりに髪がさらさらと色を変えて、本当に綺麗で。……そのあとこてんと寝てしまうんだ。あんまりにも気持ち良さそうに眠るものだから、僕がそのまま動けなくって。幸絵はくすくす微笑ってそれを見ているだけだし。……いつもいつも、毎年そうだった」
思い出すように。思い馳せるように。そう言って、心地よさそうに息を小さく吐く。
「小さくて、小さくてね。一生懸命に誰かを守って、守って、守って。……戦うことだって血を流すことだって厭わない。どこまでも不器用で生き辛くて息苦しい、ーーー本当に高潔な、頑張り屋さん」
さらさらとーーー音もなく、彼女の髪が、色を変える。
「ーーー辛い思いを、させたから。ーーー今もこうして、させているから。ーーーだからね、ともりくん」
彼女がこちらを向いてーーーふは、と、微笑んだ。
「この子をあきらめないで欲しい。ーーー頼んだよ」
そう言って。
そのひとは、眼を閉じた。
翌朝、細かく霧雨が降っていた。縁側に立ち、じっとその白い空を見上げて佇む。
ふわ、と、隣にあたたかい気配が近付いた。
「ともり」
やわらかい声。
とん、と軽く腕と肩が触れ合った。
「行ける?」
「ーーーうん」
あなたとだったら、どこまでも。




