あなたの嫌いなその日のこと 7
「みーさん、穴子嫌いなんですね。椎茸は知ってましたけどはじめて知りました」
植木鉢を移動させたり高いところの埃を払ったり。あとは風呂掃除をした。本当よく働くね、ありがとう、少し休んでと居間でお茶とお菓子を出され有難く頂く。冷たい緑茶が心地良かった。
「穴子は好きよ。なんだけど、アレルギーで蕁麻疹出るようになっちゃって。みぃちゃんお魚好きだからね、私だって穴子の天ぷら食べたいって拗ねちゃうから、みぃちゃんの前で穴子食べちゃ駄目よ」
「肝に命じます」
そうか。それはちょっとかわいそうだ。夕方のデパ地下の食レポなどが流れているとたまに拗ねた顔をしてチャンネルを変えていた彼女を思い出す。もしかしなくてもあれは穴子だったのではないか。
「みぃちゃんって、皆さん呼ぶんですね」
「ん? そうね。みぃちゃん。かわいいでしょ」
「はい。……くのじいはおひぃさんって呼んでましたね。あれは柊ってことですか?」
「いいえ、『お姫さま』って意味よ。くのじい、孫はいないから。港くんの子供のみぃちゃんをお姫さまって呼んでかわいがってるの」
「なるほど……」
港くん。ーーー港くんの子供のみぃちゃん。
彼女の父親の名前は、柊 港。
「みぃちゃんの小さい頃の写真、見る?」
「見ます」
ふふ、と笑ってわこさんがアルバムを開く。ーーー産着に包まれた小さな赤ちゃんを抱く、ふわりと色を変える髪を持つ男性。
本当に幸せそうな、愛おしそうな貌で彼女を抱く、彼女の父親。
「みぃちゃん、未熟児でね。それはもう小さくて小さくて……退院出来た時、それはそれはもう港くんよろこんだらしいわ。……これはこっちにみぃちゃんを連れて来てくれた時ね。みぃちゃん、生まれはあっちだから」
あっち。関東ということだろうか。……蕩けそうな笑顔で彼女を抱っこする年配の男性は彼女の父親と似ていて、そして銀色が混じるものの髪の色は同じだった。不思議な、あの儚い色。
「……みーさんの髪の色、お父さん譲りだって……前に言ってました。けど、こう見ると本当、不思議な色ですね」
「柊のお家はね、みんなこの色を受け継いでいるのよ。海里くんもそうよ。ああ、海里くんには会ったことある?」
「……みーさんの叔父、ですよね? あります」
あの時名乗らなかった彼女の叔父。ナイフ術の師匠。海里というのか。
「ねえ、ともりくん」
「はい」
「本当にみぃちゃんのことをお嫁さんにするの?」
「本当、みーさんのことをお嫁さんにします」
「絶対? 浮気しない? あの子すごく難しい子よ?」
「浮気しません。難しいのは覚悟の上です」
「そう。ーーーふふ、結婚式は呼んでね」
「はい」
「わこおばさんと仲良くなれて良かった」
「心配だった?」
「女性だからね。でもわこおばさんなら大丈夫かなあって」
「うん。大丈夫だった。約束もした」
「なあに?」
「まだ内緒」
「そっかあ」
和室の畳の上、足を崩して座った彼女が感触を味わうように畳を撫でる。彼女と住む家にも畳はあったが、この家の畳の方が一枚一枚が大きくて、そして変えたばかりなのか青い匂いがした。
気持ちよさそうな彼女を同じように隣に座りながら見て小さく微笑む。
「それからこれを借りた」
「なあに……あ、」
「みーさんの子供の頃のアルバム」
「見ちゃ駄目!」
「残念、もう見ちゃった。これとかほら、すっごくかわいい。今よりもずっと小さくて今よりもずっと童顔」
「子供なんだから仕方ないでしょうっ。や、やだ、やだやだ返して!」
「だーめ」
手をのばす彼女からアルバムを遠ざけた。こんなにかわいいんだからたっぷり楽しまなければ。届かない位置にアルバムを置いて、こちらの膝を乗り越えてそれを回収しようと手をのばす彼女の身体を捕まえる。防御も何も間に合わなかったため彼女の身体は呆気なく腕の中に収まった。
「んぎゅっ」
「んー、でもやっぱり今も小さいね」
「残念ながら成長期はもう終わったの! お、お父さんはそこまで小柄ってわけじゃなかったんだから」
「でも幸絵さんも百六十はあるんだよね? みーさんより五センチ以上大きいじゃん」
「んぐっ」
「みーさんが特別小柄なんだね」
「うぐっ」
「ね、みーさんってパーツ的にどこがどちらに似てるの?」
「教えないっ」
「やだ。教えて」
頬や喉元を擽ったりと猫の仔をあやすように戯れていると、廊下を通りかかったくのじいが足を止めやさしい眼をさらにやわらかく細めた。
「仲が良いんの」
「はい。仲良くさせてもらっています」
「くすぐったいからはなしなさいっ」
嫌だからとは言わないんだよなあと思いながらゆるく彼女を解放する。ぜえはあと肩で息を吐く彼女がぐったりとしながらくのじいを見た。
「くのじい、楽しそうに見てないで助けてほしかった……」
「おひぃさんは昔も今もとてもかわいらしいからのぉ。見せ惜しんで、意地悪したらあかんよ」
「……はあい」
微かに唇を尖らせうなずいた彼女の頭をよしよしとくのじいが撫でた。枯れた木のようだがあたたかいその手でやさしく彼女の髪を梳き、
「おひぃさんは、全体的には幸絵ちゃんにそっくりやのぉ。雰囲気は港とよう似とる。髪の色は、これは柊の色やの。他では見ん、特別な色をしとる。港も海里も円も、みぃんな代々この色を持っとるのぉ」
円、というのは恐らく彼女の父方の祖父か。……写真に写っていた、愛おしそうに彼女を抱っこしていた年配の男性。
「性格は港にそっくりやのぉ……港もやさしくて、やわらかい想いを持って、けれど芯はしっかりとした、いろんなことを後生大事に抱え込む立派な人間やからの。おひぃさんの強さは港の強さと幸絵ちゃんの度胸が合わさっとる、素晴らしいものなんよ。……甘えさせてくれるけんど甘やかさないところは、静譲りやね」
「……お祖母ちゃん?」
きょとん、と彼女が眼を瞬かせた。そんな彼女を横目にそっとアルバムを引き寄せページを開いた。とてもやわらかく微笑う美しい女性。それなりの年齢のはずなのに、その表情は少女のように愛らしく、そして母親や祖母としての偉大さも兼ね揃えていた。
「静もやさしかった。けんど、甘やかしてひとを駄目にするような愚かな人間ではなかったの。……おひぃさんのそういうところは、間違いなく静譲りやね。……けんどこの眼は、誰にも似とらん。おひぃさんが持つおひぃさんだけのものやの」
皺の目立つ手が彼女の頬を撫でる。深く深く全てを呑み込みそのまま映す海の底の光のような眼が、ゆっくりと瞬いて音もなく輝いた。
「みんなみぃんな、この眼に微笑まれたもんは、幸せもんじゃあ。この眼はひとの幸せをそのまま映してくれる素晴らしい眼やの。……おひぃさんの心そのものやの」
愛おしそうに。本当にうれしそうに、心が蕩ける声で。
くのじいはそう言って微笑った。……彼女もまた、幸せそうに微笑んだ。




