第九話 柱の向こう
魔石を載せた布を広げると、朝の光が、小さな結晶の角に反射した。
指の先ほどのものから、親指ほどのものまで、大きさは揃っていない。澄んだ青色もあれば、灰色に濁ったものもあった。景綱は、その一つへ手を伸ばしかけ、横に置かれた目録へ目を移した。
「選別を終えたものは、下級が八十六個、中級が四個でございます」
副官が報告した。
「欠けたものと、判別のつかぬものは別にしてあります。こちらは、橋の周辺と石切場、第一層で回収した分です」
景綱は目録をめくった。回収した場所の下に、日付と組の名が記されている。討伐した数に比べれば、並んでいる石は少ない。すべての魔物から、使える魔石を取り出せるわけではなかった。
戦いの中で砕けたものもある。死骸を調べる余裕のない場所では、回収そのものを諦めていた。
「灯りに使う分は、残しておけ」
「はい。王都から届いたものに加え、こちらからも予備を選びます」
「ほかは王都へ送る。直澄殿へ、検査と売却を頼め」
副官が頷き、目録の端へ書き加えた。
景綱は、少し大きな石へ目を止めた。入口から現れた、厚い殻を持つ獣から回収したものだという。
あの体が倒れたときの震動を、まだ脚が覚えていた。
「回収した者の名も、添えるように」
「記録しております」
「売れた分から、報奨を出せるようにしたい。ただし、それを聞いて回収を急ぐ者が出ても困る。生きた敵が残る間は、石へ手を伸ばさせるな」
「承知いたしました」
副官が布を畳み始めると、外から盾を打ち合わせる音が聞こえた。第二層へ下りる兵たちが、紐や留め具を確かめている。
景綱は立ち上がった。
右膝に、鈍い痛みがあった。片足へ重さを逃がし、いったん息を整えてから歩き出す。外へ出ると、照明の魔道具が、広げられた地図を白く照らしていた。
紙の上には、下り階段と数本の柱だけが描かれている。
その向こうを、今日は確かめる。
*
階段の上へ立つと、下から小鬼の声が聞こえた。
朔は壁へ片手を添え、目を凝らした。照明に照らされた石段の先で、太い柱が半ば闇に沈んでいる。昨日と変わらぬ景色のはずだったが、これからそこへ下りると思うと、足元の一段が妙に高く感じられた。
「前が止まったら、後ろも止まれ」
先頭の盾兵が、振り返らずに言った。
「急がなくていい。段を飛ばすな」
抑えた返事が、後ろへ伝わっていく。
階段の上には、松明を持つ兵が残った。照明の魔道具は、朔たちとともに下りることになっている。灯りを一つへ頼りきらず、戻る場所にも明かりを残すためだった。
盾兵が、一段ずつ足を下ろした。
朔も続く。背後にいた味方の気配が、階段を下るにつれて遠ざかっていった。
下へ着くと、空気の冷たさより先に、広さを感じた。第一層では近くにあった壁が、ここでは遠い。照明を左右へ向けても、どちらにも暗い場所が残った。
「左に、一匹」
朔は小声で告げた。
柱の陰に、小鬼がしゃがんでいた。こちらを見ている。顔の半分に光が当たり、もう半分は見えなかった。
遠見を使うと、欠けた歯と、泥のついた指がはっきりした。だが、その後ろに何がいるかまでは分からない。柱は、力を使っても柱のままだった。
「後ろは見えません」
朔が付け加えると、盾兵は小さく頷いた。
小鬼が叫んだ。
甲高い声が石の天井へ跳ね返り、奥へ広がった。別の声が応じる。一つではない。右でも、さらに遠くでも、何かが動き始めた。
兵たちは、まだ階段から離れなかった。下りてきた者から盾を並べ、その後ろへ槍を置く。景綱が命じた、戻る場所を先に守るための配置だった。
最初の小鬼が、柱から飛び出した。
低い姿勢で走り、盾へぶつかる。兵の足が石の床を擦った。その肩越しに槍が伸び、小鬼の腹へ入った。
倒れた体を避けるように、次の二匹が来た。
その脇を、四つ足の獣が走っていた。
「右です!」
朔が声を上げた。
正面へ集まる小鬼を見ている間に、獣は柱の外側を回っていた。低い背が、光の端を横切る。
予備の槍兵が向きを変えた。獣は穂先を見て立ち止まり、唇をめくった。
その後ろから、石が飛んできた。
盾へ当たる音がした。続く一つが床を跳ね、後ろにいた兵の脛へぶつかった。男が顔をしかめたが、持ち場は離れない。
景綱は階段の途中から、その動きを見ていた。
下へ出した兵が、少しずつ左右へ引かれている。正面の敵を受ける者、右の獣を警戒する者。それぞれが必要な動きをしているのに、並べた盾の間は、最初より広がっていた。
「右を追うな。柱の陰へ入るな」
景綱の声が届いた。
踏み出しかけた兵が止まり、盾の端を隣へ寄せた。
朔は左へ目を向けた。広間の壁際に、四角い口がある。部屋かと思ったが、そこから小鬼が出てきたあとにも、さらに足音が続いていた。
「左に、脇道がございます!」
景綱が顔を向けた。
脇道から出た小鬼は、正面の群れへ混じらず、壁際を走っていた。階段へ向かってくる。
景綱は、迷わなかった。
「一度、引く。階段へ寄せろ」
命令が、すぐに繰り返された。
「左の盾は残れ。右から順に戻す。押すな」
前の兵が下がる間、隣の兵が槍を突いた。抜いて、構え直す。自分の番が来るまで、後ろへ寄りかかることもできない。
朔は、照明の光が敵を追いすぎぬよう、持つ兵へ短く声をかけた。
見えているものへ灯りを向けるほど、反対側が暗くなる。
その暗さの中で、獣の足音がしていた。
*
右を受け持っていた兵が倒れたのは、列を戻している途中だった。
獣を槍で遠ざけた直後、柱の裏から小鬼が飛び出した。男が気づいて体をひねる。その脇へ、短い刃物が入った。
声は、ほとんど出なかった。
息が詰まるような音だけがして、盾が下がった。
小鬼が刃物を引こうとしたところへ、隣の兵の槍が刺さった。小鬼の肩が跳ね、男の体から離れる。
「負傷!」
叫び声に、搬送を任されていた兵が走った。
傷ついた男は、まだ立とうとしていた。槍へ体重を預けかけたが、膝が折れる。二人がかりで脇を抱えられ、盾の列の後ろへ引かれた。
朔は、その顔を見た。
朝、階段を下りる前に、水筒を回してくれた兵だった。隣の者へ渡す前、自分は一口だけでやめていた。
その男が、口を開いていた。
何かを言おうとしているらしい。
けれど、声にはならなかった。
「こちらへ!」
衛生兵が呼んだ。
景綱は、すぐには振り向かなかった。
階段の下では、まだ列を戻している。自分が負傷者へ駆け寄れば、その間に誰が前を見るのか。
「右、戻れ。正面は、そのまま構えろ」
声を出す。
盾が寄った。階段を背に、兵の列が狭まる。
回り込んでいた獣が、穂先の並ぶ正面へ出ることをためらった。弓兵が、ようやく味方と重ならぬ場所を見つけ、一矢を放つ。獣が肩を跳ねさせ、柱の陰へ退いた。
それを見届けてから、景綱は負傷者のもとへ下がった。
男は階段の脇へ寝かされていた。押し当てられた布が、赤く染まっている。衛生兵の一人が止血薬を開き、もう一人が男へ呼びかけていた。
「どうだ」
景綱が尋ねる。
衛生兵は手を止めずに答えた。
「傷が深うございます。出血を抑えながら運びますが、このままでは、王都まで持つか……」
最後の言葉は、小さくなった。
景綱は男の顔を見た。唇が白い。目は開いていたが、誰を見ているのか分からなかった。
小さな箱が、衛生兵の荷の中にある。
王から届いた、治癒のスクロールだった。
「巻物は、使えるか」
問うと、衛生兵が顔を上げた。
「はい。傷を塞げるのでしたら、いま使いたく存じます」
「使え」
景綱は答えた。
衛生兵が箱を開く。その手元を見ながら、景綱は王の指示を思い出した。
必要なら、温存せず使うこと。
一枚しかない。残しておけば、この先で誰かを救えるかもしれない。もっと重く傷つく者が出るかもしれない。
だが、それを考えている間にも、この男は血を失っている。
巻物が開かれた。
添えられていた手順を確かめ、衛生兵が短い言葉を読んだ。紙の上の文字へ光が走る。
朔は、戻ってくる兵の間から、それを見た。
白い光が、男の脇腹へ落ちていた。
衛生兵が布を外す。傷の縁が、ゆっくり寄った。流れていた血が細くなり、やがて止まる。
男の指が、床を掻いた。
急に元気になることはなかった。白い顔も、そのままだった。それでも、浅く速かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
衛生兵が首元と手首を確かめた。
「……出血は、止まっております」
景綱は頷いた。
「運べるか」
「はい。ただ、失った血は戻りません。歩かせず、すぐに後ろへ送ります」
「頼む」
巻物は、もう光っていなかった。
文字も薄れ、使い終えた紙が、衛生兵の手に残っていた。
*
第一層へ戻った兵たちは、壁際で交代を待った。
大きく息を吐き、盾の紐を外す者がいる。槍を置いたあとも、柄を握っていた指が開かず、片手でもみほぐす者もいた。
朔は水を飲んだ。
自分は槍の列へ入っていない。それでも、椀を持つ手が少し震えていた。飲み込むと、冷たい水が腹へ落ちていくのが分かった。
隣の騎兵が、その手を見た。
「休め」
「まだ、報告がある」
「話したら、休め」
朔は頷いた。
地図の前では、景綱が椅子代わりの石へ腰を下ろしていた。右脚を少し伸ばしている。その前へ紙を広げ、朔は見たものを描き足した。
正面の柱。
右へ回った獣。
左から現れた小鬼。
広間の壁際へ続く、脇道。
「左の道は、外側を回っているかもしれません」
朔は言ってから、すぐに続けた。
「ただ、奥は見ておりません。出てきた位置と、足音だけです」
「分かっている」
景綱は、地図へ目を落としたまま頷いた。
「次は、そこを先に押さえる。正面へ進むのは、そのあとだ」
副官が兵を呼び、紙の周りへ集めた。
「柱を、一本ずつ越える」
景綱の指が、最初の印へ置かれる。
「次を取るために、ここを空けるな。後ろの組が追いつき、横を見られるようになってから進め」
朔は、その指の動きを見ていた。
下では、正面から来るものを見るだけで精いっぱいだった。柱の先へ行けば、もっと見えると思いかけた。
だが、進んだ分だけ、背後にも柱が増える。
「弓は射る道を決める。味方が前へ出れば、場所を替えろ。見えぬ敵を追って、一人で柱の裏へ入るな」
「はっ」
命令を聞く兵たちの顔は、朝より硬かった。
それでも、左の脇道が示されると、皆がそちらへ目を向けた。今度は、どこへ気を配るべきか知っている。
景綱は一人ずつ顔を見た。
「休ませた組で、改めて入る。負傷した者は、今日は戻すな」
外へ向かう足音がした。
担架が運ばれていく。治癒のスクロールを使った男も、その上にいた。
朔は、その顔を見送った。
目は閉じられていた。
けれど、胸は動いていた。
*
水明商会の店へ入ると、紗那と律が机を挟んで向かい合っていた。
二人の間には、小さな袋が並んでいる。俺に気づくと立ち上がろうとしたので、そのままでよいと伝えた。
「攻略部隊から、回収した魔石が戻っております」
律が説明した。
「現地で使うために残した分は、目録へ記されています。こちらは、検査と売却を依頼されたものです」
紗那が布を開いた。
小さな結晶が、いくつも現れる。
穀物の袋に比べれば、驚くほど場所を取らない。だが、ここへ並ぶまでに、どれだけの兵が戦ったのだろう。
俺は、すぐには触れられなかった。
「値は、つけられるか」
紗那は頷いた。
「下級は、傷がなく魔力の残ったもので、一個につき銅貨二十枚ほどが目安になります。中級であれば、銀貨二枚ほど。ただし、一つずつ確かめる必要がございます」
「同じ等級でも、違うのだな」
「はい。欠けや、残る魔力によります。まとめて引き取る相手へ卸す場合には、その値も詰めます」
目録の数へ、決まった値を掛ければよいわけではないらしい。
検査をし、相手を探し、納める。その仕事を、紗那は引き受けようとしていた。
「回収した兵への報奨も、直澄と話してくれ。現場へ戻る分を、先に決めておきたい」
「承知いたしました」
律が書き留める。
紗那は魔石を一つ持ち上げ、光へかざした。
「王都の工房でも、動力に使う石は必要とされております。継続して数がまとまるなら、引き取る相手も探せます」
「まずは、今回の分を頼む」
「はい」
その返事を聞いたところで、店の外から兵の声がした。
宗玄の使いだった。
受け取った書状の封を見ると、景綱の名があった。
俺はその場で開いた。
第二層の調査中に、負傷者が出た。
続く行を読み、指が止まった。
治癒のスクロールを使用。
脇腹への深手。衛生兵の判断を聞き、景綱が使用を命じた。傷は塞がり、出血は止まった。ただし、失血による衰弱があるため、後送。
その下に、兵の名が記されていた。
俺は、同じところをもう一度読んだ。
使われた。
あの一枚が。
宝庫の中で見たときには、誰へ使えばよいのか決められなかった。いまは、その相手に名がある。
まだ会ったことのない兵だった。
だが、これから戻ってくる。
「陛下」
使いの兵が、戸口で待っていた。
「お返事は、おありでしょうか」
俺は顔を上げた。
「玄庵へ、こちらの容体を伝えてくれ。受け入れを頼みたい」
「承知いたしました」
「景綱への返書は、城へ戻ってから出す。まず、報告を受け取ったと伝えてくれ」
兵が頭を下げ、出ていった。
部屋は静かになっていた。
紗那も律も、書状の中身を尋ねなかった。俺は紙を畳み、懐へ収めた。
「追加で送れるものを、確認したい」
紗那が姿勢を正す。
「何をお求めでしょうか」
「油と布、それから糧食だ。現地の残りと合わせ、次の荷を用意しておきたい」
「はい。いま仕入れを進めている分を、お見せいたします」
彼女が開いた帳面には、俺が渡していない品も並んでいた。
普通に買われ、普通に届けられるものだ。
俺が宝庫から出した品へ、それが加わっていく。紗那は納期を読み上げ、律は王室側の支払いと照合していた。
俺は二人の声を聞きながら、懐の書状へ、そっと手を添えた。
*
第二層への二度目の進出では、階段を下りた兵は、まず左へ盾を向けた。
正面へ進む者たちは、その配置が整うまで待った。
小鬼が来た。
脇道からも、二匹現れた。
だが、今度は、その先に槍があった。
「左、受けております!」
声が届く。
景綱は頷き、正面へ合図を送った。
「一本目まで」
兵が動く。
柱の陰から獣が飛び出したが、盾兵は、それを追おうとしなかった。盾へぶつけさせ、横から槍を向ける。
逃れた獣が柱の間へ走る。
そこへ、弓兵が矢を通した。
一本目の柱を押さえると、兵がその足元へ残った。後ろの組が追いつき、左右へ目を配れるようになる。
それから、次へ進む。
遅い前進だった。
だが、右へ敵が回れば、残した兵が知らせた。左から来れば、脇道へ向けた盾が受けた。
朔は照明のそばへ立ち、光を向ける先を短く伝えていた。
「右の柱、その奥です」
灯りが動く。
小鬼の顔が見えた。
矢が飛ぶ。
壁際へ逃げたものは、槍兵が追わずに進路を塞いだ。倒したあとも、その勢いで奥へ走り込む者はいなかった。
景綱は、広間の少し後ろから兵を見ていた。
右膝は痛んでいる。自分が先頭へ出れば、踏み込むたびに動きが鈍るだろう。
だから、前で槍を振るう役は任せた。
「右、待て。左が追いつくまで動くな」
兵が止まる。
左右が揃ったところで、また進ませる。叫び声と足音の中へ、自分の命令が届いたことを確かめてから、次を出した。
柱の陰から小鬼が一匹、這い出してきた。
伏せていたのか、倒れたものが起きたのかは分からない。先へ進む兵の足へ手を伸ばした。
後ろへ残っていた兵が、槍の柄でその腕を払った。
穂先が、すぐに続いた。
前の兵が振り返る。
助けた男は何も言わず、また柱の陰へ目を戻した。
景綱は、その二人を見た。
残した兵が、前へ進んだ者の背を守っている。
それを確かめ、次の柱へ合図を出した。
*
大広間を確保したころには、兵たちの顔へ汗が浮いていた。
地下の空気は冷たい。それでも、鎧の下には熱がこもっていた。水を飲ませ、盾を替え、傷ついた者を上へ送る。
朔も交代した。
壁へ背を預けると、脚がひどく重かった。見張っている間は気づかなかった疲れが、座った途端に押し寄せてくる。
奥を調べた組が戻り、景綱へ報告を始めた。
「脇道は、広間の外側を通っておりました。途中に小部屋が二つ。奥で、また広間へ戻ります」
景綱は地図へ線を引いた。
最初の進出で、回り込まれた道だった。
「小部屋の一つには、敵が残っております。入り口を押さえておりますが、中までは確かめておりません」
「出入り口を、どちらも押さえろ。部屋の調査は、交代してからだ」
「はっ」
朔は、広げられた地図を眺めた。
下りる前には、一つの大きな暗がりだった場所へ、柱と道と部屋が描かれている。敵がどこから来たのかも、線でたどれるようになっていた。
あの柱を越えるとき、右から獣が来た。
左の道からは、小鬼が現れた。
紙へ描けば、ほんの短い線だった。けれど、その場所へ立ったときの息苦しさまで、朔の中には残っていた。
「今日は休め」
景綱が言った。
朔が顔を上げる。
「奥は、別の組へ見せる。いま無理をして、明日使えなくなるな」
「……承知いたしました」
まだ見られると、言いかけていた。
だが、目の奥は重い。照明の輪郭が、時折にじんで見えた。
隣の騎兵が、水筒を差し出した。
朔は、それを素直に受け取った。
*
翌日には、第二層の奥にある通路が調べられた。
大広間を抜けると道は狭くなり、左右に小部屋が続いていた。骨が積もった部屋もあれば、何もない部屋もある。
一度空にしたはずの場所で、再び小鬼が見つかった。
床には、第一層で見たものと似た、薄い模様があった。
景綱は、そこへ見張りを置かせた。入った時刻、敵を倒した時刻、その後の変化を記させる。
魔物が現れる場所は、ある程度決まっているのではないか。
記録は、少しずつその考えを強めていた。
ただ、模様が見えない部屋なら安全だと、決めることはしなかった。
「まだ、確かめた場所の方が少ない。見張りを外すときは、必ず報告しろ」
命令を受けた兵が頷く。
朔が奥の組へ戻ったのは、その日の昼前だった。
大広間の柱を通り過ぎる。壁際では、交代した兵が水を飲んでいた。替えの盾と、灯りのための荷が置かれている。
最初に下りた日には、あそこへ獣が伏せていた。
朔はその前を通り、さらに奥へ向かった。
入口から少しずつ遠ざかっている。
それでも、戻る道には味方がいた。曲がり角で声をかければ、返事が来る。
その返事を聞くたび、朔は肩へ入った力を少し抜くことができた。
*
さらに下る道が見つかったのは、昼を過ぎてからだった。
階段というより、浅い段を挟んだ坂に近かった。天井は、それまでより高くなっている。
照明を持つ兵が、つまずかぬよう光を足元へ落とした。
その明かりの端で、壁が鈍く光った。
朔は足を止めた。
「少し、こちらを照らしてください」
光が寄る。
灰色の石の中へ、青紫の筋が走っていた。
初めは濡れているのかと思った。だが、雫はない。角度を変えると、金属のように光を返す。
「鉱石か」
護衛の兵が呟いた。
「分かりません」
朔は答えた。
「場所だけ、記しておきましょう」
削って持ち帰る道具はあったとしても、いま使う必要はなかった。音を立てれば、先にいるものへ知らせることになる。
記録の兵が、地図の脇へ書きつける。
朔たちは、また歩き始めた。
進むにつれ、足音の響きが変わっていった。
広い場所が近い。
第一層から第二層へ下りたときに似ている。だが、今回は、先ほどまで聞こえていた小鬼の声がしなかった。
代わりに、何かが擦れるような音が、時折、奥から流れてきた。
先頭の盾兵が手を上げた。
全員が止まる。
通路の先が開けていた。
照明を前へ出すと、石の床と、太い柱が見えた。柱の上へ、横に渡された梁がある。
高い。
光を上へ向けなければ、天井の一部だと思って見落としていたかもしれなかった。
朔は、まだ広間へ入らず、床へ目を戻した。
白い線がある。
石の継ぎ目とは違っていた。光を受けると、細く浮かび上がる。
一本ではない。
床を横切り、柱の根元へ続いている。通路から一歩出たところにも、それが渡されていた。
「止まってください」
朔は告げた。
「床に、糸のようなものがございます」
盾兵は、上げかけていた足を戻した。
*
照明を下へ向けると、白い線は思っていたより多かった。
太いものもあれば、薄く広がって床へ張りついているものもある。石の欠片が、その上へ不自然に留まっていた。
「蜘蛛か」
隣の騎兵が呟いた。
朔は返事をせず、柱へ目を向けた。
足元ばかり見ていてはいけない。
そう思ったのは、理屈より先だった。
柱の途中から、奥へ伸びる一本の糸が揺れた。
誰も触れていない。
それが、ゆっくり張る。
「上です」
朔の声に、照明が持ち上げられた。
光が梁へ届く。
長い脚が、そこへ掛かっていた。
節があり、先が細い。石の縁を、鉤のようにつかんでいる。
その隣にも、もう一本あった。
さらに奥で、丸い塊が動いた。
朔は息を止めた。
荷車ほどの胴体へ、石の塊のような殻が重なっている。その下から、何本もの脚が伸びていた。
蜘蛛だった。
大きすぎる蜘蛛が、梁へ体を預け、頭をこちらへ向けていた。
光を受け、小さな点が幾つも反射する。
目だった。
朔は遠見を使った。
使わずにはいられなかった。
脚の表面へ並ぶ突起。殻の下でわずかに動く腹。口元にある、太い牙のようなもの。
その一つ一つが、はっきりした。
肩をつかまれた。
「近くも見ろ」
隣の騎兵だった。
朔は、はっとして視線を戻した。
柱の根元で、小さなものが動いている。
小さい、と感じたのは、大蜘蛛を見たあとだったからだ。
床を這う蜘蛛にも、桶ほどの大きさがあった。
一匹、糸を伝って進んでくる。
その後ろにも、いる。
「戻ります」
盾兵が言った。
誰も反対しなかった。
彼らが一歩退いたとき、白いものが飛んできた。
音は、ほとんどしなかった。
糸が盾の上へ張りつき、広がる。
盾兵が腕を引いた。
引けなかった。
上から、何かに引かれている。
「離せ!」
後ろの兵が叫んだ。
盾兵は紐から腕を抜こうとした。だが、慌てて動かした手袋へ糸が触れ、指先へ白いものが絡んだ。
隣の騎兵が、その肩をつかんだ。
後ろへ引く。
盾が広間の方へ滑り、男の体も半歩前へ出た。
「盾を捨ててください!」
朔は叫んだ。
盾兵が、残った手で留め具を外す。
腕が抜けた。
盾が床を滑った。
その上へ、黒い脚が落ちてきた。
硬い音が響いた。
盾が跳ね、板へ亀裂が走る。
大蜘蛛の体は、まだ高いところにあった。伸ばした一本の脚だけで、床を打ったのだ。
朔たちは通路へ引いた。
小蜘蛛が追ってくる。
先頭の一匹が、床から壁へ上った。
「右の壁!」
短い槍が向けられる。
蜘蛛が体を沈めたところへ、後ろの兵が盾を押しつけた。脚が折れ、石の壁へ擦れる音がした。
別の一匹が、床を走った。
朔は弓へ手をかけたが、すぐに離した。前に味方がいる。この幅では、構えることさえ難しい。
短い刃物を抜く。
足元へ来た蜘蛛を、隣の騎兵の槍が突いた。朔は、その脚が靴へ触れぬよう、横へ足をずらした。
後ろから声がした。
「敵、接近!」
通路の途中へ残した兵が、さらに後方へ知らせている。
戻る道がある。
味方が、そこにいる。
朔は、その声を聞いて足を動かした。
前の兵へぶつからぬように。倒れた蜘蛛へつまずかぬように。
盾を失った男を中央へ入れ、残った盾が後ろを受ける。
梁を擦るような音が、広間から聞こえた。
頭上を回っているのかもしれない。
朔は振り返りたかった。どこにいるのか、見て確かめたかった。
だが、いま首を巡らせれば、足元がおろそかになる。
戻る道を見る。
前の兵の足を見る。
白い糸が、通路の縁へ張りついた。
その向こうへ、長い脚が現れた。
けれど、胴体は入ってこない。入口の幅が足りないのか、奥へ引いたのか、確かめる余裕はなかった。
「そのまま下がれ!」
後方の兵が呼んだ。
さらに追ってきた小蜘蛛を、待ち構えていた槍が止める。
段のある坂へ戻っても、朔たちは足を止めなかった。
第二層の見張りが見え、味方の盾が並ぶ場所まで来て、ようやく止まった。
朔は壁へ手をついた。
息を吸おうとしても、浅くしか入らない。
握っていた刃物を戻すことさえ、しばらく思い出せなかった。
*
景綱は、戻ってきた者たちを見ると、まず座らせた。
盾が一枚ない。
一人の手袋には白い糸が残り、別の兵の頬からは細く血が流れていた。
「人数は」
「全員、戻っております」
組を預かる兵が答えた。
「重い傷は」
「ございません。ですが、盾を一枚、失いました」
「盾はよい」
景綱は言った。
人が戻った。
それを確かめてから、水を飲ませた。
手袋の糸は、無理に剥がさせなかった。手袋ごと外し、布で包ませる。何の性質があるかも分からぬものへ、素手で触らせたくなかった。
朔の呼吸が落ち着くのを待ち、景綱は地図を広げた。
「何を見た」
「広間に、大きな蜘蛛がおります」
朔は、まだ少し乾いた声で答えた。
下りの道。その先の広間。柱と、上へ渡された梁。
指で場所を示しながら、見た順に話した。
床へ張られた糸。
小蜘蛛。
石の殻を持つ、大きな胴体。
飛んできた糸と、盾へ打ち込まれた脚。
景綱は、最後まで遮らなかった。
「床へ下りたか」
話し終えたあとで、尋ねる。
朔は首を横へ振った。
「見ていた間には、全身を下ろしておりません」
「槍は届くか」
「脚なら、伸ばしてきたときに届くかもしれません。ただ、胴は高いところにございました」
景綱の指が、梁の線へ止まった。
朔は、広間で見た脚の長さを思い出した。
「床には、ほとんど下りてきません。柱と梁を伝って、こちらの上へ回っておりました」
地図を囲む者たちが黙った。
入口で倒した獣とは違う。
正面へ盾を並べれば、背や脇を狙える相手ではなかった。上にいて、下には糸と小蜘蛛がいる。
「今日は、そこへ戻さない」
景綱は告げた。
「通路の上へ見張りを置く。追ってくるものがあれば、広間へ入らず、こちらで受ける」
「はっ」
「陛下へ報告を出す。図も添えろ」
副官が筆を取った。
景綱は梁の線から指を離した。
届かぬ相手へ、兵を順に差し出すことはできない。
地図の上へ残った大きな空白を、しばらく見つめていた。
*
書状が届いたころ、王都では日が落ちようとしていた。
俺は机へ紙を広げ、上から読んだ。
第二層の広間を確保。
さらに下る道を発見。
最奥と思われる広間に、大型の蜘蛛を確認。
調査隊は撤退。全員帰還。
最後の一文まで読んで、ようやく息を吐いた。
戻った。
まず、そのことに安堵した。
それから、添えられた図を見る。
高い柱と、梁。その上に、大きな蜘蛛が描かれている。
細かな絵ではない。
だが、床へ立つ兵との位置の違いは、十分に分かった。
槍が届かない。
弓が殻へ通るかも不明。
足元には糸があり、小蜘蛛もいる。
俺は椅子へ座り直した。
景綱は無理に進んでいない。戻った者の話を聞き、こうして報告を送ってきた。
どう倒すか。
その問いへ、いま答えを出す必要はない。
ただ、考えなければならなかった。
視界の端が光った。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+五】
俺は宝庫を呼んだ。
【所持ポイント:一五〇〇】
千五百。
物資を得るために使い切ったはずのポイントが、いつの間にか、ここまで貯まっていた。
大蜘蛛の分ではない。そいつは、まだあの広間にいる。
ここまで道を開いた兵と、帰り道を守る兵たちの戦いが、この数字になっていた。
召喚の文字を見たあと、俺は宝庫の中へ目を向けた。
未使用の危機感知。
それから、小さな箱がある。
鉱山用破砕薬、三包。
俺は、説明を読み直した。
岩盤や障害物の破砕に用いる。
使用には、専門知識を要する。
机の図へ目を戻す。
石の柱。
その上を渡る梁。
壊せるのだろうか。
壊してよいのだろうか。
蜘蛛を下へ落とせたとして、その下で兵が戦えるのか。天井まで崩れたら、どうなる。
考えるほど、分からないことが増えた。
俺には判断できない。
だが、分かる者はいるかもしれなかった。
鉄嶺には、岩を調べ、坑道を掘る者たちがいる。
俺は宝庫を閉じた。
「弥一」
戸の外から返事がした。
「はい、陛下」
「明朝、宗玄と紗那に話を聞きたい。鉱山の仕事を知る者を、紹介できるか確かめておいてくれ」
「承知いたしました」
足音が遠ざかった。
俺はもう一度、蜘蛛の描かれた図を見た。
兵たちは、槍が届かぬと報告してきた。
ならば、槍の届く場所へ下ろす方法を探せばいい。
その方法を、俺一人で思いつく必要はない。
図の脇へ、短く書きつけた。
採掘技師。
墨が乾くまで、その四文字を見ていた。




