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第八話 水明商会の荷

水明商会の倉庫には、乾いた木と、古い麻袋の匂いが残っていた。


 壁際には、使われていない敷板が積まれている。荷のない床が、奥まで広く見渡せた。


 天井は高かった。梁の上には埃が積もっていたが、雨漏りの跡は見当たらない。


 俺は入口へ立ち、倉の中を見回した。


 広い。


 少なくとも、城の備品倉よりずっと広かった。


「こちらが、昨日お話しした倉でございます」


 紗那が言った。


 藍色の着物は、昨日と同じように飾りが少ない。


 彼女は俺の視線を追い、天井へ目を向けた。


「屋根は、去年の雨季前に直しております。ただ、奥の戸の下が少し傷んでおりますので、鼠が入らぬよう、板を当て直す必要がございます」


「荷を入れる前に直せるか」


「はい。大がかりな工事ではございません」


 紗那は、よいところだけを見せようとはしなかった。


 床の一部が沈む場所。


 荷車をつけた際に、車輪が取られやすい溝。


 鍵はかかるが、留め金を替えた方がよい扉。


 一つずつ、先に教えてくれる。


 俺は頷きながら聞いた。


 隣では、宗玄が書付へ目を通している。


 その少し後ろに、見慣れない女性が立っていた。


 年は三十だと聞いている。


 名は、律。


 直澄の配下で、帳簿と受払の記録を扱ってきた文官だった。


 髪をきっちりまとめ、細い筆箱と帳面を抱えている。倉へ入ってから、まだ必要なことしか話していなかった。


「裏手へ回れるか」


 俺が尋ねると、紗那は頷いた。


「こちらでございます」


 案内され、倉の横を通る。


 裏には、荷車を二台ほど寄せられる空き地があった。


 狭すぎはしない。


 かといって、通りから丸見えでもなかった。


「向こうの道へ出られます。表の店を通さず、荷を送り出すことができます」


 紗那が示した先で、馬を引く男が立ち止まっていた。


 こちらを見て、すぐに頭を下げる。


 俺が来ることは、商会の者にも伝わっている。


 ただ、詳しい目的までは知らせていなかった。


 御用の調達に使う倉を、王が確認している。


 外へ説明するなら、それで十分だった。


 宗玄が、静かに口を開いた。


「警備の者は、表と裏へ置けますな」


「はい。ただ、いつも大勢が立っておりますと、荷の出入りに差し支えるかと存じます」


 紗那の返事に、俺は頷いた。


「私が来るとき以外は、商会の仕事を妨げぬ人数にしよう」


「ありがとうございます」


 俺は、もう一度、倉の扉を見た。


 ここなら、使えるだろうか。


 宝庫の中に残した二十袋の小麦が、頭へ浮かぶ。


 出す場所が決まるだけで、ずいぶん肩が軽くなった。


     *


 店の奥に、話のできる部屋があった。


 大きな部屋ではない。


 机の端には、使い込まれた算木と、束ねた書付が置かれていた。


 紗那が自分で片づけようとしたので、俺は止めた。


「そのままでいい。使っている場所へ、こちらが来たのだからな」


「恐れ入ります」


 彼女は書付だけを寄せ、席を整えた。


 窓の外から、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。


 城とは違う音だった。


 ここでは、こういう音の中で帳簿をつけ、金を数え、人を動かしている。


 宗玄が契約書を広げた。


 まず、遠征軍への未払い代金について。


 直澄が確認した額と、水明商会の帳面が照合されている。


 そのうち、今回支払う分。


 残額を、いつ、どのように支払うか。


 俺は、昨日渡した銀貨のことを思い出した。


 宝庫から私室で取り出し、直澄へ預けた二百枚。


 王室から入れた臨時の金として記録され、その一部が今回の支払いへ回っていた。


 紗那の前へ、封をした金袋が置かれる。


 彼女は、それを見たまま、少し動かなかった。


「確かめてくれ」


 俺が言うと、紗那は顔を上げた。


「こちらで、よろしいのでしょうか」


「ああ。数も、中身もだ」


 紗那は一礼し、袋を開いた。


 銀貨が、布の上へ並ぶ。


 一枚ずつ。


 途中で急ぐことなく、最後まで数える。


 律も、向かい側から数を確かめていた。


 金属が触れ合う音だけが、しばらく部屋へ響いた。


「確かに、お預かりいたしました」


 紗那が言った。


 声が、昨日より少し低かった。


 安堵したのだろうか。


 俺には分からなかった。


 ただ、袋を結び直す彼女の指から、昨日のような強張りが消えていた。


 受領書へ、紗那が名を書いた。


 そのあと、宗玄が次の書面を差し出す。


 水明商会を、王室の御用商人とすること。


 専用倉庫の使用。


 保管と検査、輸送について。


 費用と手数料。


 そして、倉の使用中に立ち入らず、王から引き渡される品の出所を詮索しないこと。


 紗那は、最初から最後まで読んだ。


 俺も急かさなかった。


「こちらの、納入時の確認についてですが」


 紗那が、紙の一か所を示した。


「受け取る側にも、数量を確かめていただく形で、よろしいでしょうか」


「もちろんだ」


「でしたら、こちらの記録と、受領の記録を一組ずつ残します。道中で不足が出た場合も、どこまで運ばれたかを確かめられますので」


 律が、そこで口を開いた。


「王室側にも、控えをいただきます」


「はい」


 紗那が頷く。


 宗玄は文を確かめ、必要なところを書き足した。


 最後に、俺が印を押す。


 紗那も名を記した。


 紙が一枚、交わされた。


 それだけで商会の借金がすべて消えるわけではない。


 だが、今日から始める仕事が決まった。


     *


「それから、こちらの律を、受払役として置く」


 俺が紹介すると、律は静かに頭を下げた。


「律と申します。王室からお預けする品の数量確認と、納入記録、費用の精算を担当いたします」


 紗那も、一礼を返した。


「水明商会の紗那でございます。よろしくお願いいたします」


「王から預ける品を扱う以上、こちらにも確認する者が必要だ」


 俺は続けた。


「そなた一人へ、すべての責任を負わせるつもりはない。扱いについて困ったことがあれば、律にも伝えてくれ」


「承知いたしました」


 紗那は、律を一度見た。


 その目に、警戒がなかったとは言えない。


 監督も兼ねている。


 そのくらいは察するだろう。


 実際、律には別の役目もあった。


 城を出る前、宗玄から命じてもらっている。


 紗那が出所を探ろうとした場合。


 不審な相手へ、倉の内情を伝えた場合。


 そうしたことがあれば、記録とともに宗玄へ報告する。


 ただし、疑わしいという気分だけで決めつけないこと。


 何を見聞きしたかを、そのまま伝えること。


 律も、宝庫の仕組みは知らない。


 倉の中で何が起きるかを調べる役ではなかった。


 俺が品を引き渡したあと、その品と金が、契約どおり動いているかを確かめる。


 それが、彼女の立つ場所だった。


「帳面は、どちらへ置かれますか」


 律が尋ねた。


「こちらの棚を、お使いいただけます。鍵のかかる箱も用意いたします」


「ありがとうございます。商会の仕入れ帳と、王室からの受入帳は、分けさせてください」


「その方が、こちらも助かります」


 二人は、もう仕事の話を始めていた。


 俺は、その様子を見た。


 すぐに仲よくなる必要はない。


 確かめるべきものを確かめ、間違いがあれば言える関係なら、まずはそれでよかった。


     *


 倉庫へ戻るころには、傷んだ戸の下へ板が当てられていた。


 敷板も、中央へ並べられている。


「小麦はこちらへ置いていただけます」


 紗那が示した。


「壁から少し離してございます。検める際にも、袋の周りを歩けます」


「木箱は」


「こちらへ。重いものは下へ置き、荷を動かす道を空けていただけますと」


 俺は頷いた。


 床に置けばよいとしか考えていなかった。


 運ぶ者が入る道。


 袋を確かめるための隙間。


 先に教えてもらわなければ、全部を中央へ積んでいたかもしれない。


「では、しばらく空けてくれ」


 俺が言うと、紗那は一礼した。


「承知いたしました」


 律も、何も尋ねずに外へ出た。


 最後に弥一が入口を確かめる。


「外でお待ちしております」


「ああ。呼ぶまで、人を入れないでくれ」


 戸が閉じた。


 倉が、静かになった。


 高い窓から入る光の中で、埃がゆっくり浮いている。


 俺は、周囲を見回した。


 誰もいない。


 敷板は、教わったとおりに空いていた。


「……よし」


 宝庫を開く。


 まず、小麦。


 一袋目を、敷板の上へ出した。


 麻袋が、重い音を立てて置かれる。


 二袋目。


 三袋目。


 積み上げすぎず、列を分ける。


 十袋を出しても、まだ場所があった。


 続けて、残りの十袋。


 出し終えると、床の上に、小さな壁ができたように見えた。


 俺は、その前へ立った。


 一トン。


 王国全体を支える量ではない。


 けれど、何もない場所へ、確かな重さを持って現れた食料だった。


 次に、矢の木箱。


 工具の箱。


 縄。


 薬。


 魔石の袋。


 照明の魔道具。


 治癒のスクロールは、汚れぬように、空けておいた小さな台の上へ出した。


 残るものを確かめる。


 鉱山用破砕薬が三包。


 危機感知。


 どちらも、宝庫の中にある。


 破砕薬は、いま取り出さない。


 扱う者も、使う場所も、まだ決まっていなかった。


 俺は宝庫を閉じた。


 倉の中に、物がある。


 さっきまで空いていた場所へ、袋と木箱が並んでいる。


 人を呼ぶ前に、俺は一度、深く息を吐いた。


     *


 戸を開けた紗那は、敷居のところで止まった。


 俺を見た。


 それから、小麦の列を見た。


 視線が、裏の戸へ移る。


 そこには、内側から掛け金が下りていた。


 彼女の口が、わずかに開いた。


 けれど、言葉は出てこなかった。


 律も、戸口の横で一度、足を止めた。


 そのあと、抱えていた帳面を開いた。


「引き渡しを、始めてよろしいでしょうか」


 俺へ尋ねる。


「ああ。頼む」


 律は頷き、袋へ近づいた。


「小麦、五十キロ入り、二十袋」


 紗那は、その声で動き出した。


「口を開ける袋を、幾つか選ばせていただきます」


「構わない」


「荷を扱う者を呼んでも、よろしいでしょうか」


「もう呼んでいい」


 紗那が外へ声をかける。


 二人の男が入ってきた。


 彼らも、並んだ荷を見て少し驚いた顔をした。


 だが、会長に袋の検査を命じられると、すぐに手を動かし始めた。


 口をほどく。


 小麦をすくう。


 匂いを確かめる。


 秤を運ぶ。


 紗那も、自分の手へ小麦を受けた。


 窓の光へかざし、指の間から落とす。


「よく乾いております」


 呟くように言った。


 それから、俺へ向き直る。


「こちらは、食用として検めさせていただきます。製粉を頼む先も、押さえとうございます」


「頼む」


 工具の箱が開く。


 つるはしを持ち上げた男が、柄と鉄のつなぎ目を見た。


 律は、道具を一本ずつ数えていた。


 紗那は木箱の中を覗き、運ぶ際に動かぬよう、詰め物を足すと言った。


 驚きが消えたわけではないのだろう。


 ときどき、彼女の目が、荷のない戸口へ向いた。


 だが、尋ねなかった。


 どこから来たのか。


 誰が運んだのか。


 その代わりに、袋の口と、箱の底を確かめていた。


     *


 一通りの確認を終えたあと、紗那が俺へ近づいた。


「陛下。今後の荷について、一つ、ご相談がございます」


「何だ」


 彼女は声を落とした。


「こちらの倉だけ、荷が入らず、出ていくばかりでは目立ちます」


 俺は黙った。


 気にしていたことを、そのまま言われた。


「従業員へ細かく話さぬとしても、倉を預かる者は、出入りを見ております。いずれ、不思議に思う者は出ます」


「……ああ」


「通常の仕入れを再開し、同じ倉庫群で扱わせてください。買い付けた品と、お預かりした品を、同じ荷列で送り出します」


 紗那は、隣の倉を示した。


「専用の一棟は、こちらとして分けます。ですが、外へ出る荷車まで、すべて分ける必要はないかと存じます」


 俺は考えた。


 水明商会へ穀物が届く。


 別の品も届く。


 倉で検め、まとめて出ていく。


 その中に、俺が用意したものが混じる。


 何も入らない倉から、物だけが消えていく。


 それより、ずっと自然だった。


「帳簿は、どうする」


 紗那は律へ目を向けた。


 律が答える。


「内部では分けます。どの品を王室から受け、どの品を商会が仕入れたかは、残す必要がございます」


「はい。納入する際の品目と数量は、合わせて確かめます」


 紗那が頷いた。


「商会が買った品と、王室からお預かりした品を、取り違えることはございません。預かり品については、検査と保管、運送の費用を計上いたします」


「それで進めてくれ」


 俺は言った。


「ただ、仕入れを再開するための金は」


「本日お支払いいただいた分で、まず仕入れ先への支払いを進めます。従業員への給金も、一部を渡せます。そのうえで、今回の注文に必要な前金をいただけましたら、少量から再開できます」


 紗那は、そこで少し言葉を切った。


「すぐ、以前と同じ量へ戻せるとは申し上げられません」


「構わない。動かせる分からでいい」


 俺が答えると、紗那は一礼した。


 何でもできるとは、言わない。


 それが、かえって頼もしかった。


     *


 照明の魔道具を確かめるため、城で魔道具を扱う職人が呼ばれた。


 白い石のようなものを囲む、金属の枠。


 持ち手。


 下部には、外せそうな蓋がある。


 職人は、いきなり動かそうとはしなかった。


 机の上へ布を敷き、置き方を変えながら見ていく。


「魔石を収める場所は、こちらでしょうな」


 俺は、魔道具へ意識を向けた。


【名称】照明の魔道具

【分類】携帯用照明器具

【動力】下級魔石

【状態】魔石未装着


【効果】

魔力を光へ変換し、周囲を照らす。


【注意】

使用中は魔石を消耗する。明るさにより消耗量が変わる。


 鑑定で分かるのは、そこまでだった。


 何時間使えるかは、出てこない。


 職人は蓋を開け、内側を見た。


「ここへ収めるようです。大きさは、こちらの石で合います」


 下級魔石が一つ、くぼみへ収まる。


 蓋を戻す。


 枠の横にある輪を、少し回した。


 白い部分が、淡く光った。


 俺は、思わず顔を近づけた。


 火ではない。


 揺れない光だった。


 輪をさらに動かすと、明るさが増した。


 机の上に、はっきり影ができる。


「……これは」


 紗那が、小さく呟いた。


 職人は持ち手を確かめ、周りの金属へ触れた。


「すぐ熱くなる様子はございません。ですが、しばらく点けておきましょう」


 窓の光を遮る。


 倉の奥へ持っていく。


 足元と、棚の陰を照らす。


 明るさを変え、文字が読める距離も確かめる。


 律は、その結果を書き留めていた。


「最も明るくすると、持っている者の目にも眩しゅうございます」


 職人が言った。


「暗いところで使うなら、足元へ向けることも必要でしょう。光へ目を慣らしすぎれば、外れた場所が見えにくくなります」


 俺は頷いた。


 明るければ、それでよいわけでもない。


 松明とは違う道具には、違う使い方があった。


 一刻ほど試しても、光は消えなかった。


 ただ、それで長く使えると決めることはできなかった。


「予備の魔石もつけよう。現地でも、使用した時間を記録してもらう」


 俺が言うと、律が書き足した。


 職人は、開け方と消し方を紙へ記した。


 文字だけで分かりにくいところには、簡単な図も描く。


 それを見て、紗那が言った。


「運ぶ箱は、中で揺れぬものを用意いたします」


 魔道具が、届けられる荷物へ変わっていった。


     *


 治癒のスクロールは、照明とは別の箱へ収められた。


 湿らせない。


 折り曲げない。


 何の品か、受け取る者がすぐに分かるようにする。


 玄庵にも説明を伝え、使用について分かることを書いてもらった。


 傷を修復する。


 だが、失った血は戻らない。


 使ったあとにも、休息と手当ては必要になる。


 俺は、景綱への指示を書かせた。


「衛生兵と相談し、使う相手と時機は、現地で判断するように」


 宗玄の筆が動いた。


「王都の許しを待つ必要はない。必要なら、温存しないでほしい」


 俺は、巻物の箱を見た。


 一枚しかない。


 だから、持っていれば安心だと思いたくなる。


 だが、使わずに持ち帰ることが目的ではなかった。


 俺には、これから誰が傷つくか分からない。


 そのとき、目の前にいる者が判断できるようにしておく。


 それしかなかった。


「この指示も、箱へ添えてくれ」


「かしこまりました」


 宗玄が紙を畳む。


 紗那は、その箱の封を確かめた。


 中身の価値を聞いても、軽く扱わなかった。


 同時に、ほかの荷と混ぜ、誰が受け取ったか分からなくすることもしなかった。


 特別な品には、それが必要だった。


     *


 荷の出発は、翌朝になった。


 検査と詰め直し。


 運ぶ車の手配。


 通常の仕入れ品との仕分け。


 どれも、時間がかかった。


 俺は、その朝、もう一度だけ商会へ来た。


 倉の前には、荷車が並んでいた。


 王から預けたものだけではない。


 商会が買い付けた油や布、加工された糧食も積まれている。


 小麦の全部を、そのまま前線へ送ることにはならなかった。


 兵糧方から示された必要量と、現地で扱える量を合わせる。


 残す分は、製粉と加工を進める。


 王都で備えるものもあった。


 どの荷車へ何を積んだか、紗那と律が別々に確かめている。


「こちらの袋、数量が一つ違います」


 律が言った。


 紗那が帳面へ顔を寄せる。


「後ろの車へ回した分です。こちらへ移す際の記録が、まだ移っておりません」


「では、いま直してください。受領の控えも合わせます」


「はい」


 紗那は、すぐに書き直した。


 険悪ではなかった。


 気安くもない。


 ただ、どちらも、曖昧なまま車を出そうとはしていなかった。


 俺は、その様子を見ていた。


 紗那を見張るために律を置いた。


 けれど、こうして間違いを拾う者がいることは、紗那自身を守ることにもなるのだろう。


 荷車の一台へ、水明商会の名が記された荷札がつけられた。


 納入先は、旧石切場攻略部隊。


 物品代のうち、王室の現物供給分は、内部の記録で区別してある。商会が受け取る費用も、契約で決めたものだった。


 前線で受け取る兵には、水明商会から届いた荷となる。


「準備が整いました」


 紗那が言った。


「道中の警備は、手配したな」


 俺が尋ねると、同行する兵が頷いた。


「はい。橋までは、前の輸送隊と同じ連絡先を使います」


「無理に急がず、確実に届けてくれ」


「承知いたしました」


 紗那は、先頭の車へ近づいた。


 御者と何かを確かめ、車輪の横から離れる。


 合図が出た。


 荷車が動く。


 一台。


 また一台。


 車輪の音が、通りへ広がった。


 紗那は、それを見送っていた。


 空いていた倉から、荷が出ていく。


 従業員が声を交わし、次の仕事へ戻っていく。


 俺は、彼女の横顔を見た。


 昨日、銀貨を数え終えたときより、表情が少しはっきりしていた。


「動き始めたな」


 俺が言うと、紗那は顔を向けた。


「はい」


 それから、一礼する。


「無事に納めて、受領をいただくまで、気は抜けません」


「……そうだな」


 俺も、荷車の消えた道へ目を向けた。


 出しただけでは、まだ終わらなかった。


     *


 旧石切場では、その日も調査が続いていた。


 入口へ立つ兵は、決まった時刻で交代する。


 奥へ入る組。


 通路を押さえる組。


 外で負傷者と荷を受ける組。


 景綱は、役目を分けていた。


 すべてを同じ兵へさせれば、奥で疲れきった者が、帰り道の見張りまで続けることになる。


 それを避けたかった。


 朔は、また地図へ線を足していた。


 第一の曲がり角。


 左右の部屋。


 さらに奥へ続く通路。


 見つかった分岐には、順に印をつける。


 似たような壁が続く場所では、記憶だけに頼れなかった。


 松明を持つ手が替われば、影の見え方まで違う。


 自分が通った場所でも、一瞬、初めて見るように感じることがあった。


「次は、あの部屋を使う」


 組を預かる盾兵が言った。


 入口から三つ目の小部屋だった。


 一度、敵がいないことを確かめている。


 そこへ水と替えの灯りを少し置ければ、先へ進む者の助けになる。


 ただし、部屋の奥を、まだ長く見張ったことはなかった。


 朔たちは、入口で止まった。


 中から、音がする。


 小さな爪が、石を擦る音。


 昨日は、なかった。


 朔は、盾兵と目を合わせた。


 松明を前へ出す。


 小鬼がいた。


 壁際へ、一匹。


 その手前に、もう一匹。


「前に見たときは、いなかったな」


 盾兵が囁いた。


「はい」


「別の道から来たか」


 朔は部屋の奥を見た。


 見えている範囲に、出口はない。


 だが、影の中へ隠れた穴があるかもしれない。


 床が動く場所があるかもしれない。


 ここで生まれたのかもしれなかった。


「まだ、分かりません」


 朔は答えた。


 盾兵が頷いた。


「確かめよう。だが、いま決めつけるな」


 二匹を通路へ誘い出し、倒す。


 そのあと、部屋へ二人ずつ入り、壁際と床を調べた。


 隠し通路らしいものは見つからなかった。


 地図へ、短く書き込む。


 再び敵を確認。


 湧き場所の疑い。


 その横には、まだ疑問を示す印が残った。


     *


 水明商会の荷が橋へ着いたのは、翌日のことだった。


 重蔵のもとへ、納入書が差し出される。


 受け取る兵が、荷札と書付を照合した。


 勝手に一つの荷車から積み替えず、何をどこへ運ぶかを決めてから動かす。


 橋へ残すもの。


 石切場へ上げるもの。


 王都へ戻る負傷者のために使うもの。


 送り出した紗那の控えと、受け取った側の記録が、同じ数量になるよう確かめられた。


 北へ運ぶ荷には、護衛がついた。


 道は確保している。


 それでも、木々の間から魔物が出てこないとは限らなかった。


 旧石切場へ着くと、副官が荷を確認した。


 景綱は、その隣で書状を読んでいた。


 照明の魔道具。


 下級魔石。


 止血薬。


 治癒のスクロール。


 最後の一つで、目が止まる。


 添えられた指示を読む。


 衛生兵と相談し、使う相手と時機は現地で判断。


 必要なら温存せず使用。


 景綱は、紙を畳んだ。


「巻物は、衛生兵へ説明する。すぐ使える場所へ置け。ただし、勝手に開かせるな」


「はっ」


「止血薬も、数と残りを合わせておけ」


 副官が頷く。


 景綱は、照明の箱へ近づいた。


 蓋が外される。


 白い石を囲む、金属の枠が現れた。


 説明書きを見ながら、兵が魔石を確かめる。


 輪を動かすと、光が点いた。


 周囲の兵が、わずかに顔を寄せた。


「火ではないのか」


 誰かが呟いた。


 景綱も、光の中心を見つめた。


 煙が出ない。


 揺れない。


 その下へ紙を差し出すと、描かれた線がはっきり見えた。


「中へ持っていく前に、ここで扱いを覚えろ」


 景綱は言った。


「点ける者を一人にするな。全員が消し方と、石の替え方を知っておけ」


「承知いたしました」


 荷が届くたび、できることは少し増える。


 ただし、何でも一度にできるようにはならない。


 景綱は、その順序を崩さなかった。


     *


 照明を初めて持って入ったとき、朔は自分の足音を意識した。


 明かりはある。


 だが、松明の燃える音がない。


 それだけで、通路がいつもより静かに感じられた。


 前を歩く盾兵の背が、はっきり見える。


 壁の継ぎ目も。


 床へ落ちた小さな石も。


 炎の影に隠れていたものが、揺れずにそこにあった。


「下へ向けすぎるな。奥の壁も見たい」


 盾兵が言った。


 照明を持つ兵が、角度を変える。


 光が、部屋の奥へ伸びた。


 朔は、遠見を使った。


 以前は見えなかった壁際が、明瞭になる。


 何もない場所を見通す力ではない。


 だが、光が届いた場所なら、細かなものまで拾えた。


「右の壁、下に窪みがあります」


 朔が告げた。


 兵が止まる。


 近づきすぎず、光を寄せる。


 壁が一部、浅くへこんでいた。


 出入りできる穴ではない。


 ただ、そこに小さな骨が溜まっていた。


「部屋の形へ、足しておく」


 記録の兵が言った。


 朔は頷いた。


 光が増えれば、見えるものが増える。


 見えるものが増えれば、分からないものも、別の形で現れた。


 床に走る、薄い模様。


 他の部屋にはない、壁の黒ずみ。


 小鬼が再び見つかった部屋にも、それに似た跡があった。


 だが、それだけで湧き場所だと決めることはしなかった。


 見張りを残す。


 入った時刻を記す。


 敵を出したあと、どれほどで変化があるかを見る。


 地図には、場所だけでなく、時刻と数も加わっていった。


     *


 調査は、一日では終わらなかった。


 奥へ進む組が戻れば、次の組へ話をする。


 敵を見た場所。


 道が狭くなる場所。


 声の届きにくい角。


 縄を寄せても、足を引っかけやすい段差。


 そうしたものを、一つずつ書き足した。


 入口付近の工具も、使われ始めていた。


 鉄梃で、南の進入路へ残った石を動かす。


 シャベルで、その下に溜まった土砂を除く。


 手で持ち上げられぬものへ、無理に兵を群がらせずに済んだ。


 担架を運ぶ道が、少し広くなる。


 荷を背負う者も、足を止めずに通れるようになった。


 景綱は、その様子を見ていた。


 剣でも、槍でもない道具が、部隊の動きを変えている。


 王が用意したものは、兵の手へ渡り、兵だけではない仕事を支えていた。


 夕方には、王都へ返す報告がまとめられた。


 物資を受領。


 照明、使用可能。


 第一層の調査を継続。


 新たな敵の発生が疑われる部屋を確認。


 治癒のスクロールは、衛生兵へ説明のうえ保管。


 景綱は、その最後へ目を止めた。


 使わずに済んでいる。


 それは、いまのところの話だった。


 誰かが重く傷つけば、迷っている時間がないかもしれない。


 彼は衛生兵を呼び、巻物を置く場所と、報告の順序をもう一度確かめた。


     *


 王都へ受領の控えが戻ると、紗那は律と向かい合って帳面を開いた。


 俺は、その場で報告を聞いていた。


 品目。


 数量。


 運ぶために掛かった費用。


 受け取った側の署名。


 一つずつ、読み合わせる。


「こちらの布は、橋で留め置いた分がございます」


 紗那が言った。


「負傷者の搬送に使うと、書き添えられております」


 律が、別の控えを開く。


「確認できました。こちらは、石切場への未着ではなく、橋への納入として記します」


「お願いいたします」


 二人の間で、紙が動く。


 倉で引き渡したものが、どこへ届いたか。


 俺にも、追える形になっていた。


 紗那が帳面を閉じた。


「初回の納入は、数量に不足なく終えております」


 俺は、その言葉を聞いて、ようやく肩を下ろした。


「そうか。よく届けてくれた」


「運んだ者たちへも、お伝えいたします」


 紗那は一礼した。


 そのあと、少しだけ表情を変えた。


「仕入れ先への支払いも、一部を済ませました。次の小口の取引は、受けていただけることになりました」


「商会の者たちは」


「給金を渡せました。すべてではございませんが……」


 彼女は、一度、言葉を切った。


「続けられます」


 短い言葉だった。


 俺は頷いた。


 倉から物が出た。


 前線へ届いた。


 その仕事で、商会も動き始めた。


 まだ、何もかもがよくなったわけではない。


 それでも、昨日と同じ場所で止まってはいなかった。


 律は、紗那の横で帳面を閉じていた。


 その顔から、何を考えているかは分からない。


 だが、俺が退室するとき、彼女は静かに言った。


「本日の記録は、夕刻までに直澄様へ届けます」


「ああ。頼む」


 見えないところへ渡したものを、見失わずに済む。


 それは、宝庫とは違う力だった。


     *


 第二層へ下る階段が見つかったのは、その翌日だった。


 朔たちは、第一層の奥にある、長い通路を調べていた。


 途中には、小さな部屋が二つ。


 一方は、すでに確かめた場所だった。


 もう一方は、入口の前から骨が見え、まだ調査を終えていない。


 後続の兵が、その手前を押さえている。


 朔たちは、通路の先へ進んだ。


 照明の光が、まっすぐ伸びる。


 足元に、段があった。


 最初は、床が欠けているのかと思った。


 盾兵が止まる。


 光を下へ向けた。


 一段。


 その下に、また一段。


 階段だった。


「止まれ」


 盾兵が告げた。


 後ろへ合図が送られる。


 誰も、続けて下りようとはしなかった。


 朔は、前の兵の脇から覗いた。


 石段が、緩く下っている。


 その先は、広くなっているように見えた。


 光を、少し持ち上げる。


 大きな柱が現れた。


 一本。


 その奥にも、もう一本。


 第一層の小部屋とは、広さが違う。


 天井は、明かりの届く範囲より高いところへ消えていた。


 朔は遠見を使った。


 光が当たる柱の表面は、見えた。


 傷。


 石の継ぎ目。


 柱の根元へ落ちた、黒いもの。


 その奥は、分からない。


 暗さが、厚く残っていた。


 下から声がした。


 小鬼の声だった。


 一匹ではない。


 右から聞こえる。


 そのあと、左でも響いた。


 壁に反響しているのか、別の個体なのか、判断できなかった。


 さらに奥で、何かが床を擦った。


 朔の指が、弓の柄へ触れた。


 だが、射るものは見えない。


「柱が、複数あります」


 朔は、小声で告げた。


「広間のようです。ただ、全体は見えません」


「敵は」


「声は聞こえます。姿は、確認できません」


 盾兵が頷いた。


 階段の最初の段へ、印を残す。


 地図を描く兵が、いまの位置を確かめた。


「今日は、下りない」


 盾兵が言った。


 朔は、もう一度だけ、柱の向こうを見た。


 第一層では、角の一つ先を確かめるたび、地図へ線を足せた。


 だが、ここは広い。


 光をどちらへ向けても、その外に暗い場所が残る。


 大勢が並べるかもしれない。


 その代わり、敵も別の方向から来られる。


 下へ一歩踏み出す前に、知らせなければならなかった。


 朔たちは、静かに引いた。


 照明の光が、階段から離れる。


 柱が、また暗がりへ沈んでいった。


     *


 景綱は、戻ってきた報告を最後まで聞いた。


 下り階段。


 その先の広間。


 複数の石柱。


 魔物の声。


 姿は未確認。


 地図の端へ、階段の印が描き加えられる。


 その下は、まだ白かった。


「戻ってきたのは、よい判断だ」


 景綱が言った。


 盾兵が頭を下げる。


「明日、改めて見る。階段の上へ、見張りを置く場所を決めよう」


「承知いたしました」


「下の様子を見る者と、第一層を守る者を分ける。奥へ進んだからといって、後ろを空けるな」


 副官が頷いた。


 朔は地図を見ていた。


 入口から続いた線が、地下へ下り始めている。


 王都から届いた灯りが、その先を少しだけ照らした。


 だが、まだ見えないものの方が多かった。


 景綱は、階段の印へ小さな石を置いた。


 それから、入口を守る兵の交代表へ目を移す。


 次に進むためには、まず今日、戻った者を休ませなければならない。


「朔」


「はい」


「飯を食って、休め。明日も、その目を使ってもらう」


 朔は、顔を上げた。


「承知いたしました」


 外へ出ると、石切場の上に、夕方の空があった。


 川の方から風が吹いてくる。


 朔は、その明るさの中で、一度、目を閉じた。


 地下には、まだ広間がある。


 柱の向こうに、何かがいる。


 それを確かめるのは、明日だった。

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