第十話 岩を知る者
翌朝、紗那が持ってきたのは、薄い帳面だった。
革の表紙は角が擦れ、何度も開かれた頁が、少し波打っている。彼女は俺へ一礼すると、宗玄の勧めた椅子へ腰を下ろした。
「鉱山の仕事に詳しい者をお探しと、伺いました」
「ああ。まず、これを見てほしい」
俺は机へ、景綱から届いた図を広げた。
下りの通路。その先の広間。太い柱と、上へ渡された梁。
紗那の視線が、図の中央へ止まった。
大きな蜘蛛が描かれている。
「ダンジョンの中でございますか」
「調査隊が、ここで引き返した。床に糸があり、上にはこれがいる。槍が届くところまで、体を下ろさぬそうだ」
紗那は、図へ顔を寄せた。
「こちらの柱は、石でできているのですね」
「そう報告を受けている。ただ、図は見えた範囲を描いたものだ。高さも、太さも、正確には測れていない」
俺は、梁へ指を置いた。
「岩を砕くための薬が、手元にある。これを使えば、蜘蛛の足場を崩せるかもしれぬと思った」
紗那が顔を上げる。
俺は続けた。
「だが、私には判断がつかない。壊してよい場所なのかも、兵が巻き込まれずに済むかもだ。そういうことを、分かる者に見てもらいたい」
宗玄は黙って聞いていた。
紗那も、すぐには答えなかった。持参した帳面を開き、指先で頁をめくる。やがて一か所へ止まり、俺を見た。
「黒鉄鉱業という会社がございます」
「鉄嶺の会社か」
「はい。黒鉄鉱山の採掘を請け負うほか、ほかの鉱山でも坑道の整備や、岩盤の調査を行っております。父の代から、鉱石の運送で取引がございました」
「人を呼べるか」
「王都にも、取引の窓口がございます。まず、そちらへ話を通せます。ただ、技師は鉄嶺から来ていただくことになるかと」
俺は頷きかけ、途中で止まった。
鉄嶺。
地図では、王都の東南にある都市だった。
印の上へ指を置くのは簡単だ。そこから人が歩いてくるには、何日もかかる。
「すぐ、明日にというわけにはいかぬな」
「はい。馬で知らせることはできますが、道具を持った技師が来るまでには、日が必要です」
紗那は、言いにくそうにはしなかった。
事実として、そう告げた。
俺は地図から手を離した。
「分かった。まず、窓口の者に会いたい。必要なことを伝え、派遣を頼もう」
「承知いたしました」
「費用もだ。王の命令だからと、すべて向こうに持たせるつもりはない」
紗那の筆が動く。
俺は、広間の図をもう一度見た。
何かを思いついても、それが前線へ届くまでには時間がある。
薬は、もうここにある。
だが、それを使える者が、まだいなかった。
*
黒鉄鉱業の窓口を預かる男は、その日の午後に来た。
鉱石の売買を扱う者らしく、品の名前や量については、よく知っていた。ただ、広げられた地下の図を見せると、慎重に首を横へ振った。
「私では、お答えいたしかねます」
返事は明瞭だった。
「帳面で鉱石を扱うことと、坑道で岩を見ることは、別の仕事でございます」
「では、誰なら分かる」
「岳という技師がおります。新しい坑道を開く際にも、傷んだ坑道を直す際にも、現場へ入っている者です」
「破砕薬も扱うか」
「はい。ただし、今回のお話を引き受けられるかは、本人へ確かめる必要がございます」
男は、俺と宗玄の顔を順に見た。
「恐れながら、採掘の技師は、魔物を討つ者ではございません。地下へ入るのであれば、護衛をお願いすることになります」
「当然だ」
俺は答えた。
「戦わせるために呼ぶのではない。兵をどこへ置き、どう戦うかは景綱が決める。そのために、岩や坑道について知る者の判断が欲しい」
男の肩が、少し下がった。
宗玄が、依頼の条件をまとめた書付を差し出す。
往復の旅費。
派遣される間の費用。
同行する助手と、道具。
それから、地下での護衛と宿営場所について。
男は一つずつ読み、最後に顔を上げた。
「こちらの図を、写させていただけますでしょうか」
「ああ。持たせてくれ」
宗玄へ目を向けると、すでに書記が控えていた。
図が新しい紙へ写されていく。
大蜘蛛の描かれた線を見ながら、男が少し眉を寄せた。
「この梁を、壊すおつもりでございますか」
「壊せるかどうかを、尋ねたい」
俺は答えた。
「使えぬなら、使えぬと教えてほしい。薬があるからという理由だけで、兵を危うくしたくはない」
男は、深く一礼した。
「そのように、本人へ伝えます」
使いが出たのは、日が傾き始めたころだった。
鉄嶺へ急ぎの書状を運ぶ馬が、城門を抜けていく。
俺は窓から、その姿を見送った。
いまから、待つ。
そう決まった途端、手元にある薬が、さっきより遠いものに感じられた。
*
旧石切場では、第三層へ続く通路に、見張りが置かれていた。
広間へ下りる途中、引き返しても互いを押し倒さずに済む場所を選んである。そこへ盾を向け、後ろに槍を置いた。
大蜘蛛は、追ってこなかった。
小蜘蛛は、ときどき姿を見せた。
壁を伝うものもあれば、床へ低く伏せたまま進んでくるものもある。こちらから広間へ踏み込まなければ、一度に群れで押し寄せることはなかったが、警戒を緩めることもできなかった。
朔は、見張りの兵と交代し、第二層の端へ戻った。
手袋へついた糸は、布ごと箱へ収められている。
盾を引かれた兵は無事だった。ただ、腕を抜く際に肩をひねり、いまは後ろで休んでいる。
朔は、その空いた持ち場へ目を向けた。
あと一息、留め具を外すのが遅ければ、あの兵は広間へ引きずり込まれていた。
床へ落ちた長い脚を、思い出した。
盾の板が裂けた音も。
「朔」
呼ばれ、顔を上げる。
景綱が、地図の前にいた。
「上の梁だが、入口から見えたのは何本だった」
「はっきり確認できたのは、二本でございます。奥にも続いているように見えましたが、暗く、全体は分かりませんでした」
「柱とのつなぎ目は」
朔は記憶をたどった。
脚を見た。
胴を見た。
そのあとは、足元の小蜘蛛へ気づき、引いた。
梁そのものの形は、ほとんど覚えていなかった。
「申し訳ございません。そこまでは、見ておりません」
「よい」
景綱は、すぐに答えた。
「いま、思い出したように描かれても困る。見ていないところは、空けておけ」
紙の上には、梁を示す線が二本ある。
その周りは、白いままだった。
景綱は、そこへ小さな印をつけた。
「王都へ出した報告にも、未確認と記してある。次に入るなら、何を見るべきかを決めてからにする」
「もう一度、見てまいりましょうか」
朔が言うと、景綱は顔を上げた。
しばらく、朔の目を見ていた。
「いまは行かせん」
「ですが」
「見たいものがあるからといって、見る方法があるとは限らぬ」
静かな声だった。
「床には糸がある。上には大蜘蛛がいる。照明を上へ向ければ、近くが暗くなる。そなたが戻った話で、それは分かった」
朔は口を閉じた。
遠見なら、見られる。
そう言いかけていた。
だが、光の届かない場所は見えない。高いところへ意識を向ければ、近くを誰かに見てもらわなければならない。
景綱は、その両方を聞いていた。
「まず、ここまでの道を守る。奥は、そのあとだ」
「承知いたしました」
朔は頭を下げた。
役に立ちたい気持ちは、消えなかった。
それでも、自分の力を使うために兵を動かすわけではないのだと、改めて思った。
*
王都からの返書は、その日のうちには来なかった。
次の日になって、技師を手配していると知らされた。
景綱は書状を読み、副官へ渡した。
「黒鉄鉱業か」
副官が、会社の名へ目を止める。
「ご存じでございますか」
「鉄嶺へいたころ、坑道を直す者たちを見たことがある。人が通る前に、何日も壁を調べていた」
景綱は、第二層の地図へ視線を戻した。
いま必要なのは、そういう者なのだろう。
兵は敵を見る。
敵の脚や牙、武器、数を見る。
だが、この柱が何を支え、どこまで傷んでいるかは、見慣れていない。
景綱は、王から届いた一文を思い返した。
技師の判断によっては、破砕薬を使用しないことも考慮せよ。
方法まで命じられているわけではなかった。
それが、助かった。
もし梁を壊せとだけ言われていたなら、できぬ理由を並べるところから始めなければならない。
「到着を待つ間、交代を続ける」
景綱が告げた。
「第一層の記録を、もう一度揃えろ。湧き場所と思われる部屋は、時間ごとの変化を残す。第二層の脇道も、空けぬように」
「はっ」
「第三層へは入らない。見張りから戻る時刻も、これまでどおりだ」
副官が頷いた。
攻略を進めない日にも、兵は働いていた。
水を運ぶ。
食料を分ける。
灯りを替える。
死骸を運び出し、魔石を回収し、通路へ残った血や泥を拭う。
そうしなければ、明日も同じ場所へ立つことはできなかった。
*
待つ時間は、思っていたより長かった。
鉄嶺へ知らせを届けるまでに、まず日がかかる。
そこから技師が支度をし、道具を積んで王都へ来る。
頭では分かっていた。
それでも、朝になるたび、まだかと考えてしまった。
宗玄へ尋ねかけて、やめたことが何度かある。
聞かれたからといって、道が短くなるわけではない。
その間にも、前線から報告は届いた。
第一層のある部屋で、魔物の出現を継続して確認。
第二層の脇道で、小鬼を討伐。
第三層へ続く道に、小蜘蛛が現れる。
負傷者の容体。
矢の残り。
糧食の消費。
同じように見える報告でも、少しずつ違っていた。
昨日はいなかった場所に、今日は敵がいる。
昨日は歩けなかった兵が、今日は食事のために体を起こせた。
そういう変化を読みながら、俺は返書を書いた。
宝庫の通知も、ときどき浮かんだ。
ポイントは増えている。
だが、今回は引かなかった。
まだ使い方の定まっていないものが、手元にある。それをどう役立てるかも分からぬうちに、次の品だけを増やしたくはなかった。
ある夜、執務室へ一人になったとき、俺は椅子の背へ体を預けた。
「……間に合うよな」
声にしてから、誰も答えないことを思い出した。
天井を見上げる。
景綱が待てると判断している。
見張りを置き、補給も届いている。
いまは、その判断を信じるしかない。
それでも、灯りを落とす前に、机の報告書をもう一度読んだ。
*
技師が王都へ着いたのは、派遣を頼んでから八日目だった。
黒鉄鉱業の窓口から知らせが来ると、俺はすぐに面会の支度を頼んだ。
紗那と律にも、同席してもらう。
破砕薬を見せる場所は、水明商会の専用倉庫と決めた。
呼ぶ前に、俺は人払いをした倉へ一人で入った。
小麦の袋は、最初より少なくなっていた。
出荷された分。
加工へ回された分。
その記録は、律の帳面へ残っている。
空いた敷板を横目に、俺は宝庫を開いた。
小さな箱を取り出す。
床ではなく、用意してもらった台の上へ置いた。
箱の中には、三包の鉱山用破砕薬が収まっている。
初めて、現実の場所へ出した。
俺は蓋を閉じ、その横から離れた。
どう扱えばよいか分からぬものを、自分の手で確かめるつもりはなかった。
外へ声をかける。
ほどなくして、紗那と律、それから一人の男が入ってきた。
背は、さほど高くない。
肩幅があり、旅の埃が裾へ残っていた。手は大きく、爪の縁へ黒いものが入り込んでいる。
王の前へ出るために整えたのだろう。着物は清潔だったが、腰の道具袋だけは、使い込まれたものだった。
男は俺を見ると、片膝をついた。
「黒鉄鉱業より参りました、岳と申します」
「遠いところを、よく来てくれた。立ってくれ」
「恐れ入ります」
岳が顔を上げる。
旅疲れはあるのだろうが、目ははっきりしていた。
俺は鑑定を使った。
【名前】岳
【年齢】41歳
【役職】黒鉄鉱業・採掘技師
HP:183/198
MP:27/27
筋力:22
耐久:24
敏捷:14
魔力:9
器用:26
【スキル】
採掘
岩盤調査
測量
破砕作業
【状態】
疲労
表示を消す。
技は分かった。
だが、それだけで、今回できることが分かるわけではない。
「道中は、どうだった」
「大きな支障はございませんでした。助手を二名、連れております。道具は、商会の方に置き場をお借りしました」
紗那が頷いた。
「屋根のある場所へ、下ろしていただいております」
「そうか。まず、座って話そう」
俺は倉の隣に用意した部屋を示した。
岳は、台の上の箱を一度見たが、尋ねずについてきた。
*
図を広げると、岳は長く黙った。
王都へ先に送られていた写しにも目を通していたらしい。
それでも、実際の報告と合わせ、一つずつ確かめていった。
広間へ至る道。
柱の位置。
梁の高さ。
蜘蛛がいた場所。
調査隊が引き返したところ。
「ここから先は、見ておられぬのですね」
岳の指が、白い部分へ止まる。
「ああ。照明の届く範囲にも限りがある。調査隊は、糸で盾を引かれ、小蜘蛛に追われて戻った」
俺は答えた。
「大蜘蛛は、柱と梁を使って動いていたそうだ。体は高いところへ置いたまま、脚を伸ばしてきたと」
岳は、蜘蛛の描かれた位置を見た。
「こちらを、下へ落としたいと」
「それが可能ならばな」
俺は言った。
「だが、足場を崩せばよいと、決めているわけではない。兵の立つ床まで壊れるなら、使えぬ」
岳が、ゆっくり頷いた。
「この図だけでは、どこまで崩れるかは分かりませぬ」
返事は、予想していたものだった。
それでも、胸が少し沈んだ。
岳は、俺の顔を見て続けた。
「柱が何を支えているか。梁が、どのように渡されているか。壁とつながっているのか。それを見ずには、お答えできません」
「現地へ入れば、分かるか」
「分かることは増えます。ただ、ダンジョンの造りが、私の知る坑道や建物と同じかどうかも、まだ分かりませぬ」
俺は黙って聞いた。
王の前で、できると言う方が楽だったかもしれない。
それでも岳は、分からないところを隠さなかった。
「破砕薬も、拝見したく存じます。ですが、品が使えることと、あの場所で使えることは、分けてお考えください」
「ああ」
俺は頷いた。
「その判断を頼みたくて、呼んだ」
岳は、一礼した。
机へ置かれた図を、もう一度見る。
「まずは、調査隊の方に話を伺いたいです。目で見た者が何を覚えておられるかで、確かめる順も変わります」
「朔という偵察兵がいる。現地の指揮官、景綱にも話を聞いてくれ」
「承知いたしました」
俺は、少しだけ息を吐いた。
すぐに解決する答えは出なかった。
だが、何を確かめるべきかは、俺よりずっとはっきりしていた。
*
倉へ戻ると、岳は箱の前で足を止めた。
「こちらでございますか」
「ああ。鉱山用の破砕薬だと聞いている。三包ある」
俺は、箱から距離を取ったまま答えた。
「岩盤や障害物を砕くためのものだ。それ以上の扱いについては、私も知らぬ」
岳は頷き、まず箱の外を見た。
紗那は、その横へ帳面を置いていた。
律が、受け渡す品の名と数を読み上げる。
「鉱山用破砕薬、三包。これまで、こちらでは開封しておりません」
「承知しました」
岳は、その場で中身を広げようとはしなかった。
包みの状態を確かめ、俺へ顔を向ける。
「当社で普段扱うものとは、包みが異なります。性質を確かめる間、私どもで預からせていただけますでしょうか」
「任せる。ただし、調べる場所も、必要なものも、先に伝えてくれ。商会の者へ、知らぬまま手を出させたくない」
「もちろんでございます」
岳は、紗那へ向き直った。
「人の出入りを避け、ほかの荷と分けて置ける場所を、しばらくお借りしたく存じます。助手も、こちらへ呼ばせてください」
「承知いたしました。場所を確認してまいります」
紗那が外へ出る。
律は、預けた時刻と、岳の名を記した。
その筆の動きを見ながら、俺は台の上の箱へ目を向けた。
宝庫の中では、小さな品の一つだった。
外へ出た途端に、置く場所と、触れる者を決めなければならなくなる。
これを、最初から兵の荷へ混ぜて送らなくてよかった。
「陛下」
岳に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「調べたうえで、今回には使えぬと申し上げることも、あるかと存じます」
「構わない」
俺は答えた。
「使わせるために呼んだのではない。使えるかを、判断してほしいのだ」
岳は一瞬、俺を見た。
それから、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
*
岳が王都で品と道具を確かめている間、前線では新しい図がまとめられていた。
朔は、梁の位置をもう一度描いていた。
覚えているものだけを描く。
光の外へ続いていた部分は、線を伸ばさない。
その脇へ、見えたときの自分の位置を記した。
図だけでは、どこから見たのか分からない。
技師へ渡すなら、それも必要だと景綱に言われたのだった。
「糸を飛ばされたのは、この辺りでございます」
盾を失った兵が、紙へ指を置いた。
肩の痛みは、少し引いたらしい。
ただ、腕を上げると、まだ顔をしかめた。
「私は、床の糸を見ておりました。顔を上げる前に、盾へ白いものが当たりました」
「蜘蛛の体は、見えたか」
景綱が尋ねる。
「いえ。脚が落ちてきたところだけです」
景綱は頷いた。
朔の見たものと、盾兵の見たものは違う。
同じ広間へ立っていても、同じ景色を見ていたわけではなかった。
隣で近くを見張っていた騎兵も、話を足した。
「小蜘蛛は、柱の根元から来ておりました。奥にもおりましたが、数までは確かめておりません」
「こちらへ入ってきたものは」
「後ろの兵が記録しております。追ってきた分は、途中で止めました」
景綱は、新しい図へ目を落とした。
梁だけではない。
床の糸も、小蜘蛛も残る。
大蜘蛛を下へ落としたとしても、そのあと兵が動けるとは限らなかった。
「技師が来たら、このまま話してくれ」
景綱が言った。
「うまくまとめようとせず、覚えていることを伝えろ。思い出せぬところは、そう言えばよい」
朔は頷いた。
怖かった。
そのことまで、話す必要があるのだろうかと思った。
だが、盾兵の指が、紙の上でわずかに止まるのを見て、言葉には出さなかった。
皆、あの場所を思い出していた。
*
王都を発つ前に、岳はもう一度、城へ来た。
助手二人は、商会で出立の支度を進めているという。
岳の手には、折り畳まれた図と、必要な道具を書いた紙があった。
「現地へ運ぶ支度は、整いました」
岳は告げた。
「破砕薬も、ほかの荷と分け、こちらで管理いたします。現地で使うかどうかは、調査を終えてから判断させていただきます」
「頼む」
俺は頷いた。
その返事だけで終えるつもりだったのに、言葉が続いた。
「蜘蛛を倒すことだけを、考えぬようにしてほしい」
岳が顔を上げる。
俺は、机の上の図を見た。
「兵が帰る道を残せるかも、確かめてくれ。相手の足場を壊して、こちらが閉じ込められたのでは困る」
「承知いたしました」
「危険で使えぬなら、そう景綱へ伝えてよい。私が薬を用意したからと、無理に使う必要はない」
岳は、しばらく俺を見ていた。
叱られると思ったわけではないだろうが、何かを確かめるような目だった。
「陛下」
「何だ」
「地下では、進める道を見つけることより、戻れる道を残す方が難しいことがございます」
落ち着いた声だった。
「掘る者は、前を見たがります。よい鉱脈が見えれば、なおさらです。ですが、後ろを確かめる者がおりませぬと、全員が帰れなくなります」
俺は黙って聞いた。
岳は、図を畳み直した。
「今回も、先へ進む方々とは別に、私どもで見られるものを見てまいります」
「ああ」
俺は答えた。
「よろしく頼む」
岳が一礼する。
その姿を見ながら、俺はようやく、技師を呼んだのだと実感した。
強い兵を増やしたのではない。
同じ場所から、別のものを見る者を呼んだ。
*
出立の日、水明商会の倉の前には、いつもの補給の荷車が並んでいた。
その列から少し離れ、岳たちの荷が置かれている。
長い棒。
縄。
革へ包まれた道具。
測るために使うらしい、見慣れない器具もあった。
俺には用途の分からぬものが多かったが、助手たちは慣れた手つきで確かめていた。
一人が数を読み、もう一人が荷へ触れて応じる。
破砕薬の箱は、岳自身が確認した。
運ぶ者と、置く場所が決まっている。
紗那は、道中の宿営と、橋での受け渡しについて説明していた。
「月白大橋では、重蔵様へこちらをお見せください。技師の方々が来られることは、先に伝えております」
書状を渡す。
律も、その横で記録を取っていた。
「受領は、景綱様側の担当者からいただきます。途中で荷を分ける必要が生じた場合には、誰へ渡したかを残してください」
「承知しました」
岳が答えた。
紗那は、一通りの説明を終えると、俺へ向き直った。
「護衛も揃っております。出立できます」
俺は岳たちを見た。
鎧を着た兵の列とは違う。
道具を背負い、手袋の具合を確かめている者たちだった。
「道中も、現地でも、無理をするな」
岳が頭を下げる。
「分かりましたことは、必ず報告いたします」
荷車が動き始めた。
護衛の兵が、その横へつく。
岳は歩きながら、一度、道具を積んだ車を見た。荷が揺れすぎていないかを確かめたらしい。助手へ短く声をかけ、車の歩調へ合わせて進んでいった。
俺は、その背を見送った。
ここから先は、また報告を待つことになる。
だが、今度は、何もせずに待っているわけではなかった。
手元にあったものが、人の知識と一緒に、前線へ向かっている。
紗那が、隣で小さく息を吐いた。
「どうした」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ目を伏せた。
「父が、よく申しておりました。鉱石を売る前に、掘る者の話を聞けと」
「なぜだ」
「運び出せぬものは、売れないからだと」
俺は、遠ざかる荷車へ目を戻した。
図の上にあるものを、実際に動かせるか。
そのために、紗那も、岳も、考えている。
「戻ったら、話を聞こう」
「はい」
紗那は頷いた。
荷車の音が、通りの向こうへ消えていった。
*
月白大橋へ着くと、岳はまず、橋の東詰めで足を止めた。
補強された障害物。
使える材を寄せ直した荷車。
欠けた欄干へ張られた縄。
まだ、新しい木の色が目立つ場所があった。
迎えに出た重蔵が、書状を受け取る。
「黒鉄鉱業の岳殿でございますな」
「はい。王都より参りました」
「お待ちしておりました。ここから先は、こちらの兵が案内いたします」
「恐れ入ります」
岳は、橋の方へ一度目を向けた。
「こちらでも、大きな魔物が出たと伺いました」
「ああ。荷車では、受けきれませんでした」
重蔵は、砕けた材の残る場所を見た。
「王都から届いた巻物と、先遣隊のおかげで、何とか取り戻した橋です」
岳は頷いた。
慰めも、驚いた声も出さなかった。
ただ、欠けた石の縁へ目を止め、それから自分の荷を振り返った。
重蔵は、その視線に気づいた。
「石切場までは、荷を上げられます。道の狭かったところも、いくらか片づけました」
「助かります。道具の中には、手で長く運ぶには重いものもございますので」
「兵をつけます。必要なものがあれば、案内の者へ」
「承知しました」
王都からの補給品は、橋で記録を確かめられ、行き先ごとに分けられていく。
岳たちの荷は、その作業を終えたあと、護衛とともに北へ進んだ。
道端に、古い土壁が残っていた。
表面は崩れ、初めの高さは分からなくなっている。それでも、街道の一部を塞ぐだけの厚さはあった。
岳は歩きながら、その土の重なり方を見ていた。
「王都からの巻物で、作られたものです」
案内の兵が説明した。
「ここで、北から来る群れを分けました」
岳は、壁の向こうへ目を向けた。
「よい場所に、立てられたのですな」
「私には、詳しくは分かりません。ただ、あれができてから、助けられた者がおります」
兵の返事に、岳は静かに頷いた。
それ以上、話を広げなかった。
北から、石を打つ音が聞こえてきた。
旧石切場は、もう近かった。
*
景綱は、到着した技師たちを入口の近くで迎えた。
「よく来てくださった」
岳が一礼する。
「黒鉄鉱業の岳と申します。陛下より、お話を伺っております」
「こちらの報告図だけでは、分からぬところが多かったであろう」
「はい。ですので、まず、実際に見た方々へ話を伺いたく存じます」
景綱は頷き、朔を呼んだ。
奥から出てきた青年は、岳たちの道具を見て、少しだけ足を止めた。
兵の荷とは違う。
それに気づいたのだろう。
「偵察兵の朔です」
「岳と申します。広間を見られたのは、あなたですな」
「はい」
岳は、まず入口へ目を向けた。
岩壁に開いた、暗い穴。
その前には、盾と槍を持つ兵が立っている。
少し離れた場所には、厚い殻を持つ獣の残骸が寄せられていた。
「本日は、無理に奥まで入るつもりはございません」
岳が言った。
「道具を下ろし、こちらの地図と、皆様のお話を確かめさせてください。そのうえで、どこまで見に行くかをご相談したく存じます」
「それでよい」
景綱は答えた。
技師が来たからといって、すぐに広間へ向かわせるつもりはなかった。
旅をしてきた者だ。
地下の道も、知らない。
まず、ここで眠り、食べ、戻る場所を覚えてもらう必要がある。
副官が助手たちを案内する。
破砕薬の箱は、決めた場所へ分けて置かれた。
岳はその確認を終えてから、地図の前へ座った。
*
朔は、最初から話した。
第二層の大広間を抜けたこと。
奥に、浅い段の続く下り道があったこと。
その先で、天井が高くなったこと。
柱と梁が見えたこと。
床の糸へ気づき、足を止めたこと。
岳は、途中で何度か質問した。
声の響きは、どこで変わったか。
床は平らだったか。
柱の根元に、崩れた石はあったか。
朔が見ていないと答えると、岳は頷き、その場所へ印をつけた。
責める様子はなかった。
それが、朔には少し意外だった。
「梁の上に、蜘蛛がいたのですな」
「はい。体は高いところへ置いたまま、脚を伸ばしてきました」
「その脚が床へ当たったとき、上から石は落ちましたか」
朔は目を閉じかけ、記憶を探した。
盾が跳ねた。
板が裂けた。
白い糸が、光の中で張っていた。
「……覚えておりません」
「分かりました」
岳は、その答えも紙へ残した。
景綱が、横から尋ねた。
「何を確かめておる」
「どこが、どのように動いたかです。強い力が加わったとき、周りへ何が起きるのか。見られる範囲で、集めておきたく存じます」
岳は地図へ目を戻した。
「ただ、話だけで決めるつもりはございません。明朝から、まず皆様が戻られた道を、同じように歩かせてください」
景綱は頷いた。
「護衛をつける。灯りも、こちらで用意する」
「ありがとうございます」
岳は、図の白い部分を見た。
「破砕薬を使う場所を探す前に、人が退ける場所を確かめとうございます」
景綱の視線が、岳へ移った。
しばらく、その顔を見てから、ゆっくり頷く。
「陛下からも、そう頼まれたか」
「はい」
「こちらも、同じだ」
景綱は、地図の入口側へ指を置いた。
「蜘蛛を倒しても、ここまで戻れぬのでは困る」
岳の口元が、わずかに緩んだ。
「では、まず、そこから見てまいりましょう」
外では、夕方の交代が始まっていた。
兵が入口へ向かい、地下から戻った者が、水の置かれた場所へ歩いてくる。
岳は、疲れた兵たちの足元を見た。
泥のついた靴。
石に擦れた裾。
誰かに肩を借り、段差を越える者。
明日、自分が見る道を、今日はその者たちが歩いてきた。
岳は図を畳まず、入口から続く線を、もう一度たどった。
隣では、朔が新しい紙を広げていた。
これまで見たものを、今度は岩を知る者へ伝えるために。




