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第十一話 明日のための種

岳が地下へ入る支度を始めたのは、朝の食事が終わってからだった。


 朔は、入口の脇でその様子を見ていた。


 持っていく道具は、思っていたより少ない。旅の荷から出したものを全部運ぶのかと思っていたが、岳は助手と話しながら、必要なものを選んでいた。


 測るための縄と、先端に金属をつけた棒。それから、小さな槌。


 破砕薬の箱は、持っていかない。


「今日は、岩を壊しに行くのではございませんから」


 朔の視線に気づいた岳が、そう言った。


「まず、どこを歩くかを覚えます」


「第一層は、交代の兵を置いております。第二層までの道も、こちらでご案内できます」


「助かります。ただ、何もないところでも、立ち止まることがあると思います」


 岳は道具袋を肩へ掛け直した。


「兵の方には、遅いと感じられるかもしれませぬ」


 朔は、昨日まで自分たちが描いた地図を見た。


 一本の線で表した通路にも、暗い角があり、滑る床がある。初めて通ったときには、その一つ一つで足を止めていた。


「いえ。私どもも、最初は何度も止まりました」


 岳が、わずかに笑った。


「では、お互いに、分からぬところで止まることにいたしましょう」


 景綱が入口へ来た。


 朔と護衛、それから岳たちの人数を確かめると、地図を広げた。


「まず第二層までだ。第三層の広間を見るかどうかは、そこへ着いてから判断する」


「承知いたしました」


「技師が足元を見ている間、周囲を見る者を別につける。全員で同じものを覗き込むな」


 護衛の兵が頷いた。


 朔も、その言葉を胸へ留めた。


 珍しいものがあれば、見たくなる。岳が何を調べるのか、もう気になっていた。


 けれど、その間にも魔物は動く。


 照明が点けられた。


 先頭の盾兵が入口を越え、朔たちは、そのあとへ続いた。


     *


 岳は、本当に何もないように見える場所で止まった。


 最初の曲がり角を越えたところだった。


 壁へ光を寄せてもらい、石の継ぎ目を目で追っている。朔には、何度も通った壁だった。


「何か、ございますか」


 尋ねると、岳はすぐには答えなかった。


 腰を少し落とし、床と壁の境を見てから、立ち上がる。


「人が積んだ石に、よく似ております」


「以前、私どもも、そのように思いました」


「ええ。ですが、見慣れた積み方とは、少し違いますな」


 岳は、そこまでで話を切った。


 助手が何かを書きつける。


 朔は理由を聞きたかったが、通路の先へ目を向けた。見張りの兵が、こちらへ手を上げている。異状はないという合図だった。


 岳は、壁だけを見ているわけではなかった。


 床が下るところでは、振り返って上りを確かめる。狭くなる場所では、盾を持つ兵と自分の体を並べ、どれほど余地があるかを見る。


 小部屋へ水や替えの灯りが置かれているのを見つけると、入口からの距離を尋ねた。


「ここまで、負傷した者を運んだことはございますか」


「はい。担架では、あちらの角を曲がる際に、少し苦労いたしました」


 朔が示すと、岳はそちらへ戻った。


 角の内側には、石が張り出していた。


 それを見て、彼は助手へ短く何かを伝えた。


 敵を見ていない。


 朔は、初めてそう思った。


 岳の目は、槍の穂先が向く場所とは違うところへ向けられている。


 足の置き場。


 人がすれ違う幅。


 荷を下ろせる場所。


 同じ通路を歩いていても、拾うものが違った。


 第二層へ着くと、岳は一度、長く息を吐いた。


 広間を見渡し、それから階段を振り返る。


「こちらで、押し戻されたのでしたな」


 朔は頷いた。


「最初は、左の脇道を押さえられておりませんでした」


 柱の位置と、獣が回った道を示す。


 岳は地図を開き、実際の柱と見比べた。


「この図が、あるだけでも助かります」


「まだ、描けていないところがございます」


「だから、見に来たのでございます」


 岳は答え、紙の端を押さえ直した。


 その返事を聞いて、朔は少し肩の力を抜いた。


     *


 朝の報告を読み終えたあと、俺は水明商会へ向かった。


 城から西へ進むと、街の音が近くなる。


 店先で荷を下ろす音。通りを空けてくれと呼ぶ声。袋を担いだ男が、荷車の横をすり抜けていく。


 商会の前でも、従業員たちが働いていた。


 紗那は店の奥から出てきて、一礼した。


「倉は、空けてございます」


「ああ。今日は、また品を用意する」


「承知いたしました。引き渡しの際には、律殿もお呼びいたします」


 彼女は、何が、どれだけ出るのかを尋ねなかった。


 ただ、検査に必要な場所を確保し、荷を動かす者を待たせてくれていた。


 倉へ入り、人払いを頼む。


 戸が閉じると、俺は壁際の台へ手を置いた。


 八日間、技師を待った。


 岳が王都を発ってからも、日が過ぎている。


 その間、前線の兵は戦い、見張りを続けていた。


 宝庫を呼ぶ。


【所持ポイント:二四〇〇】


 千五百だった数字が、二千四百になっていた。


 すぐに全部を使おうとは思わなかった。


 まずは、前に考えていた十五回。


 何が出ても、届ける相手と運ぶ道はある。使い方が分からなければ、相談する者も、少しずつ増えていた。


【十回召喚】


【消費ポイント:一〇〇〇】


 選ぶと、宝庫の奥へ光が広がった。


 麻袋が現れる。


 次に、革袋。


 木箱と、布の包みが並んでいった。


 俺は一つずつ、説明へ目を通した。


【穀物・五十キロ入り十袋】


【食用に適した乾燥小麦。製粉、加熱などの調理を要する】


 また五百キロ。


 前なら、その量へ驚いていた。


 いまは、倉へ出したあと、どれだけを加工へ回すか、紗那と兵糧方に相談しようと思った。


 二つ目は、銀貨百枚。


 続いて、止血薬が十包。


 どちらも、渡す相手がすぐ浮かぶ品だった。


【下級魔石・十個】


【魔力を蓄えた石。対応する魔道具の動力として使用できる】


 照明へ使う分は、前線でも回収している。


 だが、確実に使える石を補給へ加えられるなら、それに越したことはなかった。


 次は、白い布の束だった。


【清潔な麻布・十反】


【衣料、包帯、荷包みなどに使用できる麻布】


 俺は、その説明を見て、救護所の桶を思い出した。


 赤く汚れた布を運ぶ者と、洗った布を届ける者が、廊下ですれ違っていた。


 薬だけあれば治療できるわけではない。


 これも、玄庵へ相談しよう。


 六つ目は、軍用矢百本。


 七つ目には、もう一度、小麦五百キロが出た。


 八つ目は、蓋をした壺だった。


【灯油・十リットル】


【灯火に用いる油。火気に注意して取り扱うこと】


 松明も、油を使う灯りも、まだ要る。


 照明の魔道具は一基しかなかった。地下の見張りすべてへ持たせることはできない。


 その次に出たのは、手袋だった。


【硬革製作業手袋・十双】


【掌や指を擦れから保護する作業用手袋。刃や牙を防ぐものではない】


 兵が石を動かすところを、何度か見ている。


 手へ布を巻いて作業していた者もいた。


 武具ではないが、使う者はいるだろう。


 十個目は、麻縄だった。


【麻縄・五十メートル巻き二本】


【運搬、固定などに用いる丈夫な麻縄。損傷や荷重により破断する】


 俺は、並んだ品を見渡した。


 食料と金。


 消耗するものと、仕事へ使うもの。


 珍しい品はなかったが、どれも、なくなれば誰かが困るものだった。


 続けて、一回召喚を選ぶ。


 小さな麻袋が、光の中へ現れた。


     *


【早生飼料麦の種・十キロ】


【播種から約九十〜百二十日で成熟する麦。粒は硬く、苦味とえぐみが強いため人の食用には不向きだが、家畜の補助飼料として利用できる】


 俺は説明を読み直した。


 麦の種。


 袋の口から、小さな粒が見えている。


 食料を増やせるのではないかと思った直後、食用には不向きという文字が目へ入った。


「……人には、向かないか」


 声に出してから、もう一度、最後まで読む。


 家畜の補助飼料。


 無駄なものではないはずだった。


 ただ、馬や牛がどれほど食べるのか、どう与えるのか、俺には分からない。種を播いたことさえ、ほとんどなかった。


 袋へ触れようとして、手を止める。


 まずは、残りを引こう。


 十二回目は、銀貨百枚。


 十三回目は、止血薬十包。


 十四回目に、中級魔石が一個出た。


【中級魔石・一個】


【下級魔石より多くの魔力を蓄えた石。使用する魔道具との適合確認を要する】


 下級の代わりに何へでも入れてよいわけではないらしい。


 それも、職人へ確かめてもらうことにした。


 最後の一回は、また小麦だった。


 五十キロ入りが十袋。


 今日だけで、三十袋になる。


【所持ポイント:九〇〇】


 十五回を引き終え、俺は台へ手をついた。


 増えた品を、頭の中で数え直す。


 小麦一トン半。


 銀貨二百枚。


 薬が二十包。


 魔石と、布と、矢と、油と、手袋と縄。


 そして、飼料麦の種。


 いま使える品の間に、まだ何も生まない小さな袋が混じっていた。


     *


 品を取り出し終えて紗那たちを呼ぶと、律は、まず小麦の数を確かめ始めた。


 もう、戸口で驚いて止まることはなかった。


 ただ、袋の列を見てから、紗那へ目を向ける。


「前回分と混ざらぬよう、今日の日付をつけます」


「お願いいたします。新しく入った分は、こちらの列として扱いましょう」


 二人が動く。


 俺は、ほかの荷と分けておいた小袋を持ち上げた。


「紗那。種を得た」


 彼女は帳面から顔を上げた。


「何の種でございますか」


「早く育つ麦だそうだ。ただ、人が食べるには硬く、味も悪い。家畜の餌へ使うものらしい」


 紗那は、差し出した袋を受け取った。


 口を少し開け、粒を見る。


 すぐに味を確かめるようなことはしなかった。


「栽培できれば、助かるかと存じます」


「そうか」


「はい。馬も、牛も、荷を引くためには餌が要ります。草だけでは足りぬ分を、穀物で補っているところもございますので」


 紗那は、袋の口を閉じた。


「これを使えるなら、その分、人の食べる麦を残せるかもしれません」


 俺は、小袋を見た。


 人が食べられないというだけで、少し落胆していた。


 だが、荷車は、人の力だけでここへ来るわけではない。糧食を積んだ車を引く馬にも、食べるものが必要だった。


「育て方を、分かる者はいるか」


 紗那は少し考えた。


「植物を調べている方なら、存じております。薬草の買い付け先から、紹介されたことがございます」


「農家か」


「ご本人は、植物の研究をしていると仰っております。王都の東南で畑を借り、各地の種を育てておられます」


「会えるだろうか」


「使いを出してみます」


 紗那は答えた。


 その横で、律が小袋へ札をつけた。


 早生飼料麦。


 食料の袋とは、別に分けられる。


 俺は、札の文字を見ながら、この種を全部なくしてしまわぬようにしようと思った。


 育たなかったとき、もう一度引けるとは限らない。


     *


 第三層へ下る道で、岳が足を止めた。


 朔には、理由がすぐ分かった。


 壁の中に、青紫の筋が走っている。


 以前、記録へ残した場所だった。


「こちらでございます」


 朔が言うと、岳は頷いた。


 照明を寄せてもらい、まず手を触れずに見た。少し離れ、違う角度から光を当てる。それから、床へ落ちていた欠片を探した。


 助手が、小さな石を一つ拾う。


 その中にも、細い筋が入っていた。


「魔力を帯びた鉱石に、似ております」


 岳が言った。


 朔は顔を上げた。


「魔鉱石でしょうか」


「その可能性は、高いかと。ただ、色だけで値はつけられませぬ」


 岳は欠片を布へ包ませた。


「どれほど金属を含むか。精錬して使えるか。調べねば分かりません。ここに見えている分だけでは、量も判断できませんので」


 護衛の一人が、壁を見つめた。


 その目に、さっきまでとは違うものが浮かんでいる。


 岳は、それにも気づいたらしかった。


「いま、掘るつもりはございません」


 穏やかに言った。


「まず、奥にいるものを何とかしなければ、調べる者も、掘る者も入れませぬ」


 兵が、少し気まずそうに頷いた。


 朔は、地図の端へ印を加えた。


 魔鉱石の疑い。


 採取した欠片一つ。


 そこまで記して、先へ目を向ける。


 広間は、この下にあった。


     *


 岳たちは、前に朔が立った場所より手前で止まった。


 護衛が盾を構える。


 床の糸は、まだ残っていた。少し増えているようにも見えたが、朔には確信がなかった。


 照明を低く向け、足元を確かめる。


 それから、ゆっくり上へ移した。


 柱。


 梁。


 暗い奥。


 岳は、いきなり広間の全体を見ようとはしなかった。


「入口の右側を、照らしていただけますか」


 朔が、照明を持つ兵へ伝える。


 光が動いた。


 岳は、柱の根元から上へ視線をたどった。助手が、その横で図へ線を加える。


 朔は、別の柱と、その奥を見た。


 蜘蛛が、いない。


 そう思った途端、背中へ冷たいものが走った。


 前にいた場所から、動いている。


「まだ、姿を確認できません」


 朔は小声で告げた。


 護衛の盾が、少し上がる。


 岳は顔を上げたが、光をむやみに振らせなかった。


「では、短くいたしましょう。見えるところだけ、確かめます」


 柱の上へ、石の張り出しがある。


 そこから、横へ足場が続いていた。朔が梁だと思って描いた線の一部は、広間の壁沿いを巡る、高い通路のようにも見えた。


 岳が、そこを指した。


「朔殿。あの上で動かれたのですな」


「はい。少なくとも、こちら側へ来た際には」


 朔は遠見を使った。


 光の当たった石の継ぎ目が、近く見える。


 岳に尋ねられるまま、段になった部分や、欠けた縁を伝えた。ただし、暗いところは暗いと答えた。


 その途中で、奥の糸が揺れた。


 朔の声が止まる。


 柱の陰から、長い脚が現れた。


「来ます」


 全員が、少しずつ下がった。


 岳も、道具を広げたまま粘ろうとはしなかった。助手が紙を畳み、先に通路へ戻す。


 光が、蜘蛛の殻へ当たった。


 朔は、見ている自分の顔まで相手へ見えているのではないかと思った。


 大蜘蛛は、脚を掛け替えていた。


 高い足場の上を、ゆっくり移っている。その動きに合わせ、梁と柱の間へ張られた糸が揺れた。


 下では、小蜘蛛が一匹、床を横切った。


「戻ります」


 護衛が告げた。


 岳は頷いた。


「十分です。引きましょう」


 朔たちは通路へ下がった。


 白い糸が一度、入口の近くへ落ちたが、誰にも触れなかった。


 盾を向けたまま退き、曲がり角を越える。


 広間が見えなくなってから、朔はようやく息を吐いた。


 岳も、額に汗を浮かべていた。


「……あれが、上から来るのでございますか」


「はい」


 朔が答える。


 岳は、少しの間、口を閉じていた。


 それから、広間の方へ一度だけ顔を向けた。


「お話だけで考えていたものより、脚が長い」


 声には、率直な驚きがあった。


 朔は、その言葉へ頷いた。


 自分も初めて見たとき、同じことを思った。


     *


 柊玄という男が城へ来たのは、その翌日だった。


 五十二歳。


 紗那から年を聞いていたが、戸口へ現れた姿は、思っていたより軽快だった。色褪せた上着をきちんと整え、布で包んだ帳面を抱えている。


 ただ、靴の縁には、土が少し残っていた。


 それに自分で気づいたらしく、敷居の手前で足を止めた。


「失礼いたしました。落としたつもりだったのですが」


「構わない。畑から来たのか」


「はい。使いの方が来られたとき、ちょうど種を分けておりましたので」


 柊玄は、一礼した。


 緊張していないわけではないのだろう。帳面を持つ指が、表紙の端を何度か押さえていた。


 俺は椅子を勧め、その様子を見ながら鑑定した。


【名前】柊玄

【年齢】52歳

【役職】植物研究者


HP:82/97

MP:32/35


筋力:8

耐久:10

敏捷:9

魔力:13

器用:19


【スキル】

植物知識

栽培

薬草識別

記録


【状態】

疲労


 表示を消す。


 疲れてはいる。


 だが、机へ置いた小麦の粒を見ると、目つきが変わった。


「こちらが、お話の種でございますか」


「ああ。早生飼料麦という」


 俺は、分かっている性質を伝えた。


 九十日から百二十日ほどで成熟する。


 ただし、土や気候、育て方によって変わる。


 粒は硬く、味は人向きではない。


 家畜の補助飼料へ使えるという。


 柊玄は、途中で一度も遮らなかった。


 話し終えると、紙の上へ置いた数粒を、指先で向きを変えながら眺めた。


「種を、拝見してもよろしいでしょうか」


「そのために呼んだ。頼む」


 柊玄は一粒を手へ取った。


 光へ透かし、先の形と、表面を見る。


 口へ入れることはなかった。


「九十日で収穫できるのであれば、確かに早うございますな。ただ、同じ種でも、播く時期と土が違えば、育ち方は変わります」


「まず、それを確かめてほしい」


「はい。発芽するか、どの程度揃って育つか。最初は、そこからです」


 柊玄は、持参した帳面を開いた。


 何種類もの葉の形が、細かく描かれていた。横には、日付と、俺にはすぐ読めないほど小さな文字が並んでいる。


「珍しい種を、いきなり広い畑へ播くのは惜しゅうございます。少量ずつ分け、条件を変えて見とうございます」


「どれほど要る」


 柊玄は、すぐに大きな量を求めなかった。


 借りている畑の広さと、いま育てているものを説明し、使える区画を指で示す。


 俺は、王都の平面図を横へ置いた。


「畑は、この辺りか」


 南門から出て、東へ折れる道。


 郊外の小さな水路と、その近くの畑だった。


 柊玄が頷く。


「はい。作業小屋と井戸を、お借りしております」


「では、王都の近くで続けてくれ。まず種を二キロ渡す。残りは、こちらで保管する」


 柊玄は少し考え、それから頷いた。


「十分に試せます。保管する分も、湿気と虫を避けていただければ」


「律に記録を任せよう。研究に必要な費用も、使い道を挙げてくれ」


 そう言うと、柊玄は粒を紙の上へ戻し、俺を見た。


「結果が、よくないこともございます」


「ああ」


「早く実っても、粒が少ないかもしれません。家畜が好まぬことも、あるかもしれませぬ」


「それも知りたい」


 俺は答えた。


「よい報告を作るために、呼んだのではない。広めてよいものか、確かめてほしい」


 柊玄は、しばらく俺の顔を見ていた。


 やがて、帳面を閉じる。


「承知いたしました。それでしたら、調べたことを、そのままお届けいたします」


     *


 試験畑を見たのは、さらに翌日の午後だった。


 城を出て南へ進み、南門を抜ける。


 そこから東へ道を取ると、市街の屋根が少しずつ遠ざかり、畑が広がった。


 月白川は見えない。


 こちらにあるのは、小さな水路と、畑の間を通る細い道だった。


 王都の城壁を振り返ると、思っていたより近く感じられる。これなら、報告を待つだけでなく、折を見て自分でも確かめに来られそうだった。


 柊玄の借り畑には、低い杭が立っていた。


 区画ごとに札があり、植わっているものの姿も違う。葉の形が似ていても、札に書かれた名前は別だった。


「触れぬ方がよいものもございます」


 柊玄が、俺の視線に気づいて言った。


「どれだ」


「そちらは、薬に使われることがございますが、扱いを誤るとよくありません」


 俺は手を引っ込めた。


 触ろうとしていたわけではない。


 ただ、そう言われると、指先まで気をつけたくなった。


 作業小屋には、種の入った小さな袋と、乾かした植物が並んでいた。窓際には、日付を書いた鉢が置かれている。


 立派な研究所ではなかった。


 だが、一つの袋にも札があり、いつ、どこから得たものかが記されていた。


 柊玄は、飼料麦を入れた容器を持ってきた。


「まず、少量で発芽の様子を見ます。畑へ播く分も、一度に全部は使いません」


「収穫まで、三か月ほどか」


「うまく育てば、そのくらいと伺っております。ただ、ここでどうなるかは、これからです」


 柊玄は、空けた小さな畝へ目を向けた。


「毎日見て、記しておきます。伸びる速さだけでなく、病や虫、倒れやすさもですな」


 俺は頷いた。


 三か月。


 その間に、兵は何度、糧食を食べるだろう。


 荷を引く馬は、どれだけ餌を食うだろう。


 この種で、明日の不足が埋まるわけではない。


 それでも、いま播かなければ、三か月後にも何もなかった。


「採れた麦は、すぐ馬へ与えるのか」


 尋ねると、柊玄は首を横へ振った。


「私一人では、馬のことまでは分かりませぬ。世話をする方に、協力をお願いしたく存じます」


 そのために、今日は城の馬を預かる者にも来てもらっていた。


 年配の男が、脇から一礼した。


「粒が硬いのであれば、まず粗く砕いたものと比べることになろうかと。食べ方だけでなく、食べたあとの様子も見ねばなりません」


「草の代わりに、これだけを食わせるものではないな」


「はい。草や干し草は要ります。こちらは、必要な分を補う餌として考えるのがよろしいかと存じます」


 俺は二人を見た。


 植物を育てる者。


 馬を育てる者。


 同じ粒を見ていても、確かめたいことは違う。


「収穫できたら、丸いままの粒と、砕いた粒を比べよう。無理に食べさせず、少しずつだ」


「承知いたしました」


 柊玄が、帳面へ書き加えた。


 紗那も、その横から畝を見ていた。


「使えるものだと分かれば、加工を頼む先も探します。最初は少量でも、増えた際には、人の手だけでは追いつかなくなりますので」


 水車で動く臼の話を、短く聞いた。


 だが、その相談は、まだ先だった。


 今日は、小さな畑へ渡す種を量る。


 柊玄は、それを丁寧に袋へ分けた。


 俺は、その手元を見ていた。


 宝庫で得たときには、ただの十キロの種だった。


 いまは、次に何を調べるかが、帳面の上へ並んでいた。


     *


 岳が持ち帰った図は、朔のものより線が多かった。


 景綱は、その紙を前にして、長く話を聞いていた。


 柱と梁。


 壁際の高い足場。


 天井を支えている部分と、そこから張り出している部分。


 岳は、確認できた範囲を示し、分からぬところは別に分けた。


「すべてを崩す必要はございません」


 岳が言った。


「蜘蛛が使っている高い足場のうち、外側へ張り出した部分がございます。あそこだけであれば、広間全体を巻き込まずに落とせる可能性があります」


「可能性、か」


 景綱は、紙から目を上げた。


 岳も頷く。


「はい。地上の、造りを知っている建物とは違います。絶対に何も起きぬと、お約束はできませぬ」


 景綱は、少し黙った。


 兵の命を預かる以上、確かだと言ってほしくなる。


 だが、知り得ぬことまで断言する者を、信用するわけにはいかなかった。


「兵を、どこまで下げる必要がある」


 景綱が問う。


 岳が場所を示す。


 広間へ入ったまま、間近で待たせることはできない。退く道を空け、衝撃がおさまってから足場を確かめる必要がある。


 景綱は、自分の図を横へ並べた。


「落としたあと、すぐには攻められぬのだな」


「はい。石が動いている間に入れば、蜘蛛より先に、そちらで傷つくおそれがございます」


「では、小蜘蛛をどう抑えるかだ」


 副官が、通路へ指を置いた。


 梁の上にいる大蜘蛛へ気を取られれば、足元から来るものを見失う。


 景綱は、朔を呼んだ。


「蜘蛛が動いた道を、もう一度話せ」


 朔は、図へ指を添えた。


 最初に見た場所。


 こちらへ向かって脚を掛け替えたところ。


 その間に張られていた糸。


 岳は、それを自分の記録と見比べた。


 話は、一度で決まらなかった。


 退く場所を決めると、別の組が通れなくなる。


 盾を厚くすれば、後ろの槍を出す余地が減る。


 灯りを上へ向ければ、小蜘蛛が来る床が暗くなる。


 景綱は、一つずつ、役目を分け直した。


 朔は、その話を聞きながら、自分が見るべき場所を考えていた。


 蜘蛛の胴だけを追ってはいけない。


 どこへ脚を掛け、どちらへ向こうとしているのか。


 そこを見る必要があった。


     *


 その日の午後、景綱は選んだ兵たちを第二層へ集めた。


 全員を第三層へ入れるわけではない。


 第一層の湧き部屋と、第二層の脇道には、これまでどおり兵を残す。


 入口と石切場の外も、空けられなかった。


 奥へ向かう者の後ろには、何組もの兵が立つことになる。


 景綱は、各組を預かる者へ命じた。


「蜘蛛へ向ける組と、小蜘蛛を止める組を分ける。大きい方が落ちても、持ち場を離れるな」


「はっ」


「技師が作業する間の護衛も、別につける。退く合図が出たら、前の組から順に戻す。全員で同じ通路へ走るな」


 合図が、繰り返された。


 地下では、叫び声が重なると聞き取りにくい。


 誰が伝え、誰が応じたかを確かめる。


 その練習だけで、しばらく時が過ぎた。


 朔は、照明を持つ兵と、立つ場所を確かめていた。


 弓を使う役ではない。


 高い足場にいる蜘蛛の動きを見て、知らせる。


 その間、近くを見るのは、いつもの騎兵だった。


「上は、お前が見ろ」


 騎兵が言った。


「足元は、俺が見る」


 朔は頷いた。


 何度も頼んできたことだった。


 だが、今回は、その言葉を聞いても、すぐには安心できなかった。


 大蜘蛛の脚が、盾を割ったところを思い出す。


「あの糸が来たら」


「避ける。受けたら、盾を捨てる」


 騎兵は、短く答えた。


「物を惜しんで、引っ張られるな。そう命じられている」


 朔は、自分の弓へ目を落とした。


 慣れた武器だった。


 それでも、今度の役目で、それを握り続ける必要はないのかもしれない。


 見て、知らせて、戻る。


 そのために、両手を空ける場面もある。


 彼は弓を背負い直し、紐の具合を確かめた。


     *


 王都へ、岳の最初の報告が届いた。


 宗玄が持ってきた紙には、短い文と、描き直された広間の図があった。


 破砕薬を使える可能性がある。


 ただし、広間全体ではなく、蜘蛛が使う高い足場の一部を対象とする。


 使用後は、足場と周囲を確かめてから兵を進める。


 俺は、その文をゆっくり読んだ。


 進められる。


 それを喜びたかった。


 同時に、いよいよ戦うのだという怖さがあった。


「景綱殿と、作戦を詰めておられるようです」


 宗玄が言った。


 俺は頷いた。


 図へ目を落とす。


 ここへ兵が立つ。


 ここを通って退く。


 岳の記した線の隣に、景綱たちが書き足したらしい印があった。


 俺が薬を出しただけでは、できなかった図だった。


「必要なものは、送れているか」


「追加の布と糧食は、すでに商会から出しております。ほかに求められたものも、確認を進めております」


「そうか」


 俺は紙を置いた。


 言いたいことは、多かった。


 無事に戻ってほしい。


 無理をしてほしくない。


 けれど、敵を前に立つ者へ、何もかもを同時に求めることはできなかった。


「現地の判断で進めるよう、伝えてくれ。私への返答を待つために、機を逃す必要はない」


「承知いたしました」


「ただ、状況が変われば中止してよい。薬を使うことも、予定どおり戦うことも、目的ではない」


 宗玄の筆が動いた。


 俺は窓の外へ目を向けた。


 東南の畑は、ここからは見えない。


 今日も柊玄が、種を見ているのだろうか。


 奥へ進む者がいる。


 畑へ種を残す者もいる。


 どちらも、明日のために働いていた。


 俺は、そのどちらの報告も、受け取れる場所にいようと思った。


     *


 攻略の前夜、旧石切場は、いつもより静かだった。


 仕事がなくなったわけではない。


 むしろ、確かめることは多かった。


 盾の紐。


 槍の柄。


 灯りの残り。


 運ぶための担架。


 ただ、兵たちは大きな声で話さず、それぞれの手元へ目を向けていた。


 岳は助手とともに道具を確かめ、必要なものを荷へ分けていた。


 景綱は、入口へ置く兵の交代表を読み直している。明日、奥で戦う者だけを見ていればよいわけではない。


 朔は、地図の前に立った。


 初めて入口へ近づいたときには、黒い穴の向こうへ、何があるかも知らなかった。


 いまは、通路がある。


 部屋がある。


 柱の並ぶ広間があり、その先へ下る道がある。


 そして、あの蜘蛛がいる。


 明日、それを倒せるだろうか。


 考えても、答えは出なかった。


「朔殿」


 岳に呼ばれ、振り返る。


「明日は、動いたものを、そのまま教えてください。私どもの考えたとおりに動くとは、限りませぬので」


「はい」


 朔は答えた。


「違って見えたら、違うと伝えます」


「それが、ありがたい」


 岳が頷いた。


 景綱が地図の前へ来た。


 副官と、各組を預かる者たちが集まる。


 最後に役目と合図を確かめたあと、景綱は皆の顔を見渡した。


「今夜は、割り当てのない者を休ませろ」


 返事が重なる。


 景綱は、地図をゆっくり畳んだ。


「明朝、仕掛ける」


 朔は、畳まれた紙へ目を落とした。


 明日また、それは開かれる。


 そのとき、自分たちは、白く残った場所へ進むのだ。


 外へ出ると、夜の冷たい風が頬へ触れた。入口には松明が二本、置かれている。その間を、交代の兵が地下へ入っていった。


 朔は、その背を見送った。


 自分も明日、同じ入口を越える。


 彼は水を一口飲み、休むための場所へ戻った。

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