第十二話 闇を断つ
夜明け前の石切場で、朔は水を飲んだ。
冷たい水が喉を通り、腹へ落ちる。口の渇きは消えたが、胸の奥にある重苦しさまでは変わらなかった。
入口の脇では、兵たちが装備を確かめていた。盾の紐を締め直す者。槍の柄を握り、手の位置を変えている者。声は少なく、革や金属が擦れる音ばかりが聞こえる。
岳は助手二人と荷を囲んでいた。
何を話しているかまでは聞こえなかった。ただ、三人とも同じところへ顔を寄せず、一人が品を確かめている間、もう一人は記録を見ていた。
景綱が来ると、兵たちが姿勢を正した。
「これまで確かめたとおりに動く」
落ち着いた声だった。
「敵が違う動きをすれば、待つ。前へ出た者が戻るまでは、次を始めない」
景綱は各組を預かる者へ目を向けた。
「大きい方が落ちても、小蜘蛛を受け持つ者は持ち場を離れるな。奥へ入った者を、後ろから守れ」
「はっ」
「負傷した者は、自分で戻れるうちに伝えろ。立てなくなってからでは、運ぶ手が要る」
返事が重なった。
朔は、水筒の栓を閉めた。いつもの騎兵が隣へ来て、腰の道具を確かめている。
「食ったか」
「ああ」
「俺もだ。腹が減ったままだと、余計なことを考える」
そう言われ、朔は少しだけ笑った。
食べたものの味は、ほとんど覚えていない。だが、腹には入っていた。
景綱が、最後に岳を見た。
「行けるか」
「はい。現地で状況が変わっておりましたら、その場で申し上げます」
「頼む」
短いやり取りだった。
入口の松明が、風に揺れた。
先頭の兵が暗い穴へ入っていく。朔も、そのあとへ続いた。外の薄青い空が、背中の向こうへ隠れていった。
*
第一層には、すでに兵が立っていた。
角を曲がるたび、見張りが小さく手を上げる。湧き場所と考えられている部屋の前にも、盾と槍が置かれていた。
奥へ進む兵だけが、今日の戦いへ加わるわけではない。
ここを守る者がいなければ、戻る道へ魔物が入る。
朔は見張りへ頷き返しながら、足を進めた。
第二層の広間を通るころには、地下の冷たさにも慣れていた。柱の足元に置かれた水と、替えの盾が見える。その脇へ、担架を持つ兵が控えていた。
景綱は、そこで一度、隊を止めた。
前へ出る者を確かめ、残す者へ命令を渡す。
岳たちは荷を下ろし、助手と最後の確認をしていた。護衛の兵が、その周囲から離れずにいる。
朔は照明の魔道具を見た。
白い光が、机代わりの石を照らしている。試しに明るさを変え、元へ戻す。その輪を動かす兵の手つきは、届いた日より滑らかだった。
何度も練習した。
灯りを上へ向けるとき、足元を見る者を残す。
近くへ何かが来れば、朔へ知らせる。
使い方を覚えることと、戦いの中で使えることは違う。今日は、その違いを埋めなければならなかった。
「朔」
景綱に呼ばれた。
「見たことだけを伝えろ。分からぬまま、合図を出すな」
「承知いたしました」
「待たせることを、恐れるな」
その言葉に、朔は顔を上げた。
景綱は、もう次の兵へ目を向けていた。
朔は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
皆が待っていると思えば、早く答えたくなる。見えたような気がしただけでも、声を出してしまうかもしれない。
それを、先に止められたのだと思った。
第三層へ下る隊が、動き始めた。
*
広間の手前には、薄い糸が増えていた。
床へ張りついたものの上に、別の糸が重なっている。照明を低く向けると、その一部が白く浮かんだ。
盾兵たちが足を止める。
後ろから、道を確かめる兵が出た。動ける場所を見定め、味方の足元へ目を向ける。奥を見たい気持ちをこらえ、朔も、まず近くを確かめた。
柱の根元に、小蜘蛛がいた。
「左、二匹」
声を抑えて伝える。
小蜘蛛は、光を避けるように柱の裏へ回った。そのうち一匹が壁へ上る。
担当の兵が、そちらへ盾を向けた。
大蜘蛛を狙う者たちは、動かなかった。別の組の仕事へ、皆で寄ってはいけない。
壁を伝ってきた一匹が、通路の縁へ出た。
短い槍が伸びる。
蜘蛛の体が傾き、後ろから添えられた盾へ押さえられた。もう一匹は床を走ったが、その先にも穂先があった。
戦いが済むと、兵はすぐに持ち場へ戻った。
朔は、その動きを見た。
朝に聞いた命令が、一つずつ現実になっている。
それから、ようやく上を見た。
柱の途中へ、長い脚が掛かっていた。
大蜘蛛は、前に観察した場所より奥にいる。石のような殻が、光の端で鈍く見えた。
「奥の柱です。体は、高い足場の上にございます」
景綱へ声が伝わる。
岳が、朔の示す場所を見た。
「まだ、予定したところではございません」
「分かった」
景綱は頷いた。
兵が広間へ入り始めた。
大勢ではない。
糸の少ない場所を選び、盾を見せながら少しずつ進む。大蜘蛛の目が、そちらへ向いた。
朔は遠見を使った。
殻の下へ収まっていた脚が、一本、伸びる。
次に、もう一本。
大きな体が、柱から高い足場へ移った。
「動きます」
朔は伝えた。
兵たちは止まらず、決めた範囲を越えないように進んでいる。
蜘蛛の腹が、わずかに持ち上がった。
「糸が来ます!」
声を聞いた盾兵が横へ動いた。
白いものが床へ落ち、石の欠片を絡め取る。
兵の腕には、触れなかった。
朔は、自分の喉が乾いていくのを感じた。
外れた。
そう安心する暇もなく、大蜘蛛が脚を掛け替えた。
予定していた足場ではない。
さらに高い方へ、体を引き上げようとしている。
「上へ移っています。まだ、違います!」
朔は声を張った。
岳が手を上げる。
景綱が、すぐに応じた。
「待て。前の組は、そこから戻せ」
命令が走る。
広間に出ていた兵が、盾を向けたまま後退した。
大蜘蛛は、それを追うように体を回した。だが、狙ったところへは来ない。伸びた脚が、別の梁をつかんだ。
朔は瞬きした。
一度、目の焦点が合わなくなった。
「足元だ」
隣の騎兵に言われ、視線を戻す。
小蜘蛛が、石の間から現れていた。
別の兵が槍を向ける。
朔は半歩下がり、照明の位置を変える者へ道を空けた。
急いで合図を出していたら、どうなっていた。
そんな考えが浮かんだが、追い払った。
まだ、終わっていない。
*
一度目の動きで、蜘蛛がこちらを追うことは分かった。
だが、思った道を通るとは限らない。
景綱は岳と短く話し、前へ出す兵の位置を変えた。最初の組は下げ、休ませていた組へ替える。
誰も、失敗したとは言わなかった。
予定と違ったから、止めた。
そのための合図だった。
岳は助手のもとへ戻り、確認を済ませてから、また景綱のそばへ来た。
「こちらは、変わりございません」
「分かった。次を出す」
照明が、蜘蛛のいる場所を照らした。
新しい盾が、広間へ進む。
大蜘蛛は、動く兵を見ていた。
口元が開く。
白い糸が、盾の端へ触れた。
「捨てろ!」
兵が留め具を外し、盾を離す。
板が床を滑り、大蜘蛛の方へ引かれた。その兵は追わず、後ろの盾の陰へ入った。
大蜘蛛が、脚を伸ばした。
空になった盾を打ち、床へ押しつける。
そのとき、殻のある体が少し前へ出た。
朔は、脚の掛かる場所を見た。
一本。
次に、体を支える脚。
光が届いている。
見える。
「こちらへ来ます。足場の上です」
岳が顔を上げた。
朔は、まだ言葉を続けた。
「体も移っています。奥の脚が、離れました」
岳の目が、広間の上を追う。
やがて、景綱へ向き直った。
「前の方々を、お下げください」
「引け!」
景綱が命じた。
盾兵たちが戻る。
走らない。
だが、動きは速かった。
小蜘蛛を受け持つ兵も、通路の側へ寄せる。最後の一人が味方の盾の後ろへ入るまで、岳は動かなかった。
景綱が、退いた兵の数を確かめる。
手が上がる。
岳は助手と合図を交わした。
朔は、目の前の柱から身を離し、指示された場所へ下がった。
そこで初めて、上を見るのをやめた。
次の瞬間、地下が鳴った。
*
音は、胸の内側まで届いた。
朔は思わず歯を食いしばった。足元から震えが上がり、壁へ添えた手にも、ざらついた感触が伝わる。
何かが裂けるような音が続いた。
石が落ちる。
一つではない。
重いものが、何度も床を叩いた。
その間へ、魔物の声が混じった。
小鬼でも、獣でもない、甲高い音だった。
白い埃が、広間から押し寄せてくる。照明の光が、その中で途切れた。さっきまで見えていた柱が消える。
「動くな!」
景綱の声がした。
「前へ出るな。顔を伏せろ」
兵たちが、盾の陰へ身を寄せる。
朔は袖で口元を覆った。
耳が、じんじんしていた。
何かが、まだ落ちている。
岳が広間を見ていた。助手も、その隣にいる。
誰も成功だと叫ばなかった。
朔には、蜘蛛が落ちたかどうかも分からない。
見えないものを、見えたとは言えなかった。
石の音が、少しずつ減った。
その代わりに、別の音が聞こえた。
硬いものが、床を掻いている。
脚だ。
大蜘蛛の脚が、石を掻いている。
「生きています」
朔は、低く告げた。
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
景綱は聞いていた。
「構えろ。まだ入るな」
埃が流れ、少しずつ薄くなる。
光の向こうへ、黒い脚が現れた。
床にある。
その奥に、殻を持つ大きな胴体が見えた。
落ちていた。
高い足場にいた魔物が、石の床へ横倒しになっている。
ただし、動かなくなってはいなかった。
曲がった脚の一本を床へ突き、体を起こそうとしていた。
*
岳が、床と上の様子を確かめた。
崩れた部分からは、まだ細かな欠片が落ちている。
兵の進める道を示すまでに、時間がかかった。
その間に、大蜘蛛は体を立て直しかけていた。
折れた脚を引きずり、残る脚で床を押す。殻の一部にはひびが走っていたが、牙も、口も動いている。
「こちらを使ってください。奥へは寄らぬように」
岳が告げた。
景綱は頷き、兵へ合図した。
「小蜘蛛の組、先に道を押さえろ。槍は、その後ろだ」
盾が進む。
大蜘蛛が、こちらを向いた。
白い糸が飛んだ。
先頭の兵が横へ逃げ、後ろにいた者が盾を傾ける。糸は板をかすめ、石の床へ張りついた。
そこへ足を置かぬよう、兵の進路が少しずつずれる。
大蜘蛛は、長い脚を振った。
横から来た一撃だった。
盾へ当たり、男が倒れる。
隣の兵が引こうとしたところへ、もう一本の脚が落ちた。
盾が割れた。
短い叫び声がした。
朔の肩が動いた。
行かなければと思った。
だが、その前に、搬送の組が走っていた。槍兵が間へ入り、動く脚へ穂先を向ける。
「前を空けるな!」
景綱の声が飛んだ。
「右の組、脚を見ろ。胴へ急ぐな!」
大蜘蛛の体は、床にある。
それだけで、簡単な相手になったわけではなかった。
殻は硬く、正面の牙は太い。糸へ触れれば、武器も盾も取られる。
ただ、高い場所へ逃げることはできなかった。
右側の二本の脚は、不自然な向きへ折れている。体を回すたび、腹が床を擦った。
朔は、その動きを見た。
「右へ回れません。左の脚で、体を起こそうとしています!」
景綱が、そちらへ目を向ける。
槍兵へ指示が伝わった。
脚の付け根へ、横から穂先が伸びた。
大蜘蛛が身をひねる。
一本の槍が、殻の縁へ弾かれた。
もう一本が、柔らかいところへ入った。
鋭い声がした。
大蜘蛛が、脚を振り回す。
兵が離れる。
抜けなかった槍は、そのまま放された。
景綱は、兵が下がったのを見届け、次の組へ命じた。
「交代。前の者を戻せ」
疲れた兵が下がる。
新しい盾が入る。
その脇を、小蜘蛛が走っていた。
「左の壁!」
朔が知らせると、担当の組が向きを変えた。
大蜘蛛を囲む者たちは、そちらへ寄らなかった。壁へ上った一匹を槍で落とし、床へ来たものを盾で止める。
その後ろで、負傷者が運ばれていった。
朔は、一瞬だけ、その担架へ目を向けた。
すぐに戻す。
見続ける役を離れれば、また誰かが不意を打たれる。
指先が冷たかった。
照明の持ち手を握る兵も、同じように汗を流していた。
「もう少し、腹の下を」
朔が言った。
光が低く差し込む。
石の殻の下に、薄い皮が見えた。
そこへ届く道を作るため、兵たちは脚を一本ずつ抑えていた。
*
景綱は、弓を受け取った。
前へ走ることはできない。槍を持って踏み込めば、膝がついてこないだろう。
だが、ここからなら見える。
大蜘蛛が体を持ち上げるたび、殻の下がわずかに開いていた。
ただし、その手前に味方がいる。
景綱は弓を引かず、機を待った。
「右の槍、下がれ。左は、そのままだ」
命令が伝わる。
右側の兵が一歩退く。
大蜘蛛は、そちらへ向き直ろうとした。折れた脚が床を擦り、体が傾く。
腹の一部が見えた。
景綱は弦を引いた。
息を止め、放す。
矢が殻の下へ入った。
大蜘蛛の体が、大きく跳ねた。
脚が上がる。
「来るぞ、離れろ!」
景綱が叫んだ。
兵が退く。
長い脚が、石の床を打った。割れた欠片が飛び、一人の頬をかすめた。
その脚が戻る前に、別の槍が出た。
関節へ穂先が入り、支えていた脚が曲がった。
胴が、また床へ落ちた。
大蜘蛛の口が開いた。
糸は飛ばなかった。
代わりに、低い、擦れるような音が漏れた。
景綱は、弓を下ろさなかった。
槍兵たちは、まだ近づきすぎない。
突いて、引く。
動けば離れる。
一人で仕留めようと、深く入らない。
朝から繰り返してきたことを、皆が守っていた。
それでも、時間はかかった。
大蜘蛛の脚は、弱ってからも危険だった。
最後の一本が床を掻かなくなるまで、誰も武器を下ろせなかった。
やがて、口の動きが止まった。
腹が、わずかに震える。
それも、おさまった。
広間に、兵の呼吸だけが残った。
朔は、自分がいつから歯を食いしばっていたのか分からなかった。
顎が痛かった。
「……動きません」
声にすると、喉がかすれた。
景綱は頷いたが、まだ兵を寄せなかった。
距離を取ったまま反応を確かめる。生きた小蜘蛛が残っていないか、周囲も調べさせた。
副官が、ようやく顔を上げた。
「討ち取っております」
景綱は、弓を兵へ渡した。
「救護を始めろ。動ける者も、勝手に奥へ行くな」
歓声より先に、その命令が広がった。
*
王城の机で、俺は紙をめくっていた。
豊原から届いた糧食の報告だった。
倉にある分。
買い付けの相談がついた分。
王都へ送るため、荷車を集めている分。
数字の横にある日付を見て、俺は宗玄へ尋ねようとした。
そのとき、視界が光った。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+一〇〇〇】
口が止まった。
千。
俺は、その文字を見つめた。
これまでと違う、大きな数字だった。
「陛下?」
宗玄に呼ばれ、顔を上げる。
何かを倒した。
強いものを。
だが、それが大蜘蛛かどうかは、分からなかった。
姉上のいる北門砦で、何かが起きたのかもしれない。
別の場所かもしれない。
それでも、机の脇へ置いた広間の図へ、目が向いた。
梁の上の蜘蛛。
岳が書き足した足場。
景綱が記した、兵の待機場所。
俺は図へ手を置いた。
掌が、冷えていた。
「……いや。すまない。続きを聞こう」
そう答えたが、宗玄はすぐには話を再開しなかった。
俺の顔を見てから、静かに水を頼んだ。
運ばれてきた椀を持つ。
指先へ、器の温度が伝わる。
俺は一口飲んだ。
倒したのなら、戻ってきてくれ。
誰が何を倒したかも知らぬまま、そんなことを願っていた。
「負傷者を受け入れる場所は、空いているか」
俺が尋ねると、宗玄は頷いた。
「玄庵殿と確認しております。布と湯の手配も、続けております」
「もう一度、伝えてくれ。今日、前線から人が戻るかもしれない」
「承知いたしました」
宗玄は理由を問わなかった。
俺は紙へ目を戻した。
けれど、さっきまで読めていた数字が、何度も頭から抜けた。
*
石殻の大蜘蛛は、広間の中央へ横たわっていた。
間近で見ると、殻には細かな傷がいくつもある。新しいものも、古そうなものもあった。
岳は、そのそばへ不用意に寄らず、先に上を見た。
崩した足場。
残った梁。
柱と壁の間。
助手とともに周囲を確かめ、兵が通れる道を示す。
朔は、少し離れた場所へ座っていた。
手を開くと、指がうまく伸びなかった。
隣の騎兵が、地面へ水筒を置く。
「飲め」
朔は受け取った。
口へ運ぼうとして、少しこぼした。
「……すまん」
「水でよかった」
騎兵は言って、朔の横へ腰を下ろした。
笑おうとしたが、笑えなかった。
近くで、衛生兵が誰かへ呼びかけている。
返事は聞こえなかった。
朔は、そちらを見た。
盾が二枚、脇へ置かれていた。
その向こうで、兵が一人、静かに横たわっている。
朝、一緒に入口を越えた者だった。
顔は、見えなかった。
朔は水筒を下ろした。
倒した。
皆で、倒した。
そのことを、喜んでいたはずだった。
だが、胸の奥へ広がりかけた安堵は、そこで止まった。
景綱が、横たわる兵のもとへ来た。
膝をつく代わりに、体を低くして顔を見た。衛生兵から短く話を聞き、やがて頷く。
声は聞こえなかった。
ただ、景綱が手を伸ばし、男の肩へ触れるのが見えた。
そのあと、布がかけられた。
朔は顔を伏せた。
いま水を飲んでいる自分の隣に、朝には、その男もいたのだと思った。
*
負傷者の搬送を始め、広間の外周を確かめたあと、景綱は奥へ進む者を選んだ。
蜘蛛を倒したからといって、ダンジョンが止まったわけではない。
第一・第二層では、まだ見張りが必要だった。
岳が通れると判断した道を、盾兵が先へ進む。朔は休ませたまま、別の偵察兵を連れた。
広間の奥にも、糸があった。
だが、大蜘蛛が動いていた場所より少ない。
石の台が、壁際に置かれていた。
その上に、赤紫の結晶がある。
照明を向けても、その輝きは変わらなかった。石の内側から、弱い光が脈打っている。
景綱は、そこで足を止めた。
「核か」
副官が、小声で言った。
景綱は、結晶の周囲を見た。
魔石を床へ置いた姿とは違う。台座から伸びる石の筋が、結晶を抱えるように取り巻いている。
これまで報告で聞いてきた、ダンジョンコアの特徴に近かった。
だが、近づいた途端に何かが起きる可能性もある。
景綱は、周囲を先に調べさせた。
壁際に小蜘蛛が一匹残っていた。
それを倒し、台座の裏を確かめる。
別の通路は見つからなかった。
岳が、足元と台座の周りを見た。
「上から落ちるおそれのあるものは、いま見える範囲にはございません」
景綱は頷いた。
兵の一人が、運んできた槌を下ろした。
王都から届いた工具の一つだった。
切り出した石を動かし、道を整えるために使ってきた道具が、いまは核の前にある。
「ほかの者は、離れろ」
景綱が告げた。
「割れたものへ、素手で触るな」
盾兵が構えた。
槌を持つ兵が、足場を確かめる。
一度、景綱を見る。
景綱は頷いた。
槌が振り下ろされた。
澄んだ音が、広間へ響いた。
結晶に、細い線が入る。
二度目で、その線が広がった。
光が強くなったように見え、兵の一人が身を引いた。
景綱は、動かなかった。
槌を持つ男が息を入れ、もう一度、振り下ろした。
結晶が割れた。
光が、台座の上へこぼれるように揺れた。
風が吹いたわけではなかった。
それでも、広間へ満ちていた何かが、奥へ引いていくような感覚があった。
壁も、床も、崩れなかった。
割れた核の中から、最後の光が消えた。
景綱は、しばらく台座を見ていた。
それから、副官へ告げる。
「各層へ知らせろ。核を破壊した。だが、見張りは解くな」
「はっ」
「発生が止まったか、記録と照らして確かめる。残った魔物は、そのままだと思え」
伝令が走った。
広間に、また足音が戻った。
*
核を壊しても、小蜘蛛は消えなかった。
瓦礫の陰から見つかったものを、兵が倒す。
第一層でも、部屋に残っていた小鬼は、そのまま武器を振り上げてきた。
だから、最初は何が変わったのか、分かりにくかった。
ただ、時間が過ぎても、新しい敵が出てこない。
これまで、何度も小鬼を確認していた部屋が静かだった。
見張りの兵が、記録を見直す。
前には、この間に二度、現れていた。
今日は、何もない。
別の部屋でも、同じ報告が上がった。
景綱は、それらを一つずつ聞いた。
石切場の外へも、以前のように魔物が流れてきていない。
重蔵のもとからも、橋周辺で新たな群れは確認していないと知らせが来た。
夕方が近づいたころ、景綱はようやく、攻略報告を書かせた。
石殻を持つ大蜘蛛を討伐。
第三層最奥で核を破壊。
第一・第二層の監視地点にて、新たな発生を確認せず。
残存する魔物の掃討を継続。
その下に、被害が記される。
戦死二名。
負傷十四名。
うち、重傷三名。
景綱は、その数字を長く見た。
衛生兵へ、数の確認を頼む。
部隊を預かる者にも、戻っていない兵がいないか、改めて確かめさせた。
その間に、岳が報告へ来た。
「破砕薬は二包を使用いたしました。残る一包は、引き続き、こちらで保管しております」
「分かった。数量を、書き添えてくれ」
「はい」
岳は、書状の被害欄へ目を止めた。
何かを言いかけ、口を閉じる。
景綱は、その顔を見た。
「そなたの仕事で、届く場所へ落とせた」
岳が顔を上げた。
「そこから先は、我らの戦いだった」
それ以上、慰めるようなことは言わなかった。
岳も、軽々しく頷かなかった。
ただ、一礼して下がった。
景綱は、報告書へ印を入れた。
「陛下へ。できるだけ早く、届けてくれ」
伝令が受け取り、胸元へ収めた。
外へ向かう足音を聞いてから、景綱はようやく椅子へ腰を下ろした。
右膝が、ひどく重かった。
*
夜になっても、俺は執務室にいた。
何度か、休むように言われた。
食事も運ばれた。
少し食べて、また机へ戻った。
窓の外を見るたび、同じ城下の灯が見える。報告が近づいているかどうかなど、分かるはずもなかった。
それでも、何度も見た。
宗玄が入ってきたとき、俺は足音だけで立ち上がっていた。
彼の手に、書状がある。
「景綱殿より、攻略の報告でございます」
俺は受け取った。
封を開く。
最初の一行が、すぐには頭へ入らなかった。
読み直す。
大蜘蛛を討伐。
核を破壊。
発生停止を確認。
俺は紙を持ったまま、息を吐いた。
止まった。
あの穴から、魔物が出続けることは、なくなったのだ。
椅子へ座るよう、宗玄に促された。
俺は座り、続きを読む。
戦死二名。
そこへ目が止まった。
名前が、別紙にある。
負傷十四名。
重傷三名。
俺は、紙を机へ置いた。
千ポイントの通知が来たとき、倒したのかもしれないと思った。
その瞬間にも、誰かが傷つき、誰かはもう戻らなくなっていた。
俺が、ここで水を飲んでいた間に。
目を閉じると、城を出る六百の兵が浮かんだ。
あの列のどこに、この二人がいたのだろう。
顔を思い出そうとしても、分からなかった。
俺は別紙へ手を添え、頭を下げた。
しばらく、何も言えなかった。
宗玄も、黙っていた。
やがて顔を上げると、涙で文字が少しにじんでいた。
拭ってから、俺は口を開いた。
「景綱と、兵たちへ礼を伝えてくれ」
声は、思っていたより静かだった。
「岳たちにもだ。皆が戻るまで、必要なものは送り続ける。負傷者の搬送と治療を、優先してほしい」
「承知いたしました」
「亡くなった者は……」
言葉が詰まった。
俺は一度、息を入れた。
「家族への知らせを、曖昧にしないでくれ。遺品と、渡すべき給金も、直澄に確かめてもらいたい」
宗玄が、深く頷いた。
「すぐに、手配いたします」
「攻略したからと、すぐ全部の兵を動かさぬように。残った魔物と、坑道の状態を確かめてから、帰還の順を決めてくれ」
「はい」
宗玄の筆が動く。
俺は報告書へ目を戻した。
被害の下には、景綱の短い文があった。
兵はよく命令を守り、互いを支えて戦った。
俺は、その一文を何度も読んだ。
*
その夜、石切場へ戻された兵たちは、交代で食事を取った。
温かい汁が配られた。
椀を受け取ったあと、しばらく手へ持ったまま動かない者もいた。
朔も、その一人だった。
地下から出たときには、もう空が暗かった。
外の風を吸った途端、脚の力が抜けそうになった。ここまで戻ったのだと分かってから、あの広間で聞いた音が、何度も頭の中へ戻ってきていた。
石の落ちる音。
盾の割れる音。
仲間の叫び。
朔は汁を一口飲んだ。
熱かった。
舌が少し痛み、それで初めて、自分が急いで飲んだことに気づいた。
隣の騎兵が、椀を置いた。
「明日は、交代が一つ遅いらしい」
「そうか」
「ああ。寝られるぞ」
朔は頷いた。
眠れるかどうかは、分からなかった。
それでも、眠ってよいと決まっていることが、ありがたかった。
入口には、まだ兵がいる。
奥へ残った魔物を確かめる者もいる。
だが、新しい群れが湧き、次々と南へ流れてくることは、もうない。
その話を聞いても、体はすぐには理解しなかった。
朔は、食事のあとで少しだけ離れた場所へ歩いた。
石切場の縁から、空が見えた。
雲の切れ間に、星が一つある。
隣に来た騎兵も、同じ方を見上げた。
「何か見えるか」
冗談のような声だった。
朔は、遠見を使わなかった。
「星だ」
「それは、俺にも見える」
二人とも、少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
戻らなかった者がいる。
傷を負い、運ばれていった者もいる。
けれど、自分たちは、いま外へ立っていた。
朔は、もう一度、空を見上げた。
見張るためではなかった。
敵を探すためでもない。
ただ、そこに夜空があった。
しばらく眺めてから、彼は背を向けた。
火のそばには、まだ温かい湯が残っている。
その向こうに、自分の休む場所があった。




