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第十二話 闇を断つ

夜明け前の石切場で、朔は水を飲んだ。


 冷たい水が喉を通り、腹へ落ちる。口の渇きは消えたが、胸の奥にある重苦しさまでは変わらなかった。


 入口の脇では、兵たちが装備を確かめていた。盾の紐を締め直す者。槍の柄を握り、手の位置を変えている者。声は少なく、革や金属が擦れる音ばかりが聞こえる。


 岳は助手二人と荷を囲んでいた。


 何を話しているかまでは聞こえなかった。ただ、三人とも同じところへ顔を寄せず、一人が品を確かめている間、もう一人は記録を見ていた。


 景綱が来ると、兵たちが姿勢を正した。


「これまで確かめたとおりに動く」


 落ち着いた声だった。


「敵が違う動きをすれば、待つ。前へ出た者が戻るまでは、次を始めない」


 景綱は各組を預かる者へ目を向けた。


「大きい方が落ちても、小蜘蛛を受け持つ者は持ち場を離れるな。奥へ入った者を、後ろから守れ」


「はっ」


「負傷した者は、自分で戻れるうちに伝えろ。立てなくなってからでは、運ぶ手が要る」


 返事が重なった。


 朔は、水筒の栓を閉めた。いつもの騎兵が隣へ来て、腰の道具を確かめている。


「食ったか」


「ああ」


「俺もだ。腹が減ったままだと、余計なことを考える」


 そう言われ、朔は少しだけ笑った。


 食べたものの味は、ほとんど覚えていない。だが、腹には入っていた。


 景綱が、最後に岳を見た。


「行けるか」


「はい。現地で状況が変わっておりましたら、その場で申し上げます」


「頼む」


 短いやり取りだった。


 入口の松明が、風に揺れた。


 先頭の兵が暗い穴へ入っていく。朔も、そのあとへ続いた。外の薄青い空が、背中の向こうへ隠れていった。


     *


 第一層には、すでに兵が立っていた。


 角を曲がるたび、見張りが小さく手を上げる。湧き場所と考えられている部屋の前にも、盾と槍が置かれていた。


 奥へ進む兵だけが、今日の戦いへ加わるわけではない。


 ここを守る者がいなければ、戻る道へ魔物が入る。


 朔は見張りへ頷き返しながら、足を進めた。


 第二層の広間を通るころには、地下の冷たさにも慣れていた。柱の足元に置かれた水と、替えの盾が見える。その脇へ、担架を持つ兵が控えていた。


 景綱は、そこで一度、隊を止めた。


 前へ出る者を確かめ、残す者へ命令を渡す。


 岳たちは荷を下ろし、助手と最後の確認をしていた。護衛の兵が、その周囲から離れずにいる。


 朔は照明の魔道具を見た。


 白い光が、机代わりの石を照らしている。試しに明るさを変え、元へ戻す。その輪を動かす兵の手つきは、届いた日より滑らかだった。


 何度も練習した。


 灯りを上へ向けるとき、足元を見る者を残す。


 近くへ何かが来れば、朔へ知らせる。


 使い方を覚えることと、戦いの中で使えることは違う。今日は、その違いを埋めなければならなかった。


「朔」


 景綱に呼ばれた。


「見たことだけを伝えろ。分からぬまま、合図を出すな」


「承知いたしました」


「待たせることを、恐れるな」


 その言葉に、朔は顔を上げた。


 景綱は、もう次の兵へ目を向けていた。


 朔は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


 皆が待っていると思えば、早く答えたくなる。見えたような気がしただけでも、声を出してしまうかもしれない。


 それを、先に止められたのだと思った。


 第三層へ下る隊が、動き始めた。


     *


 広間の手前には、薄い糸が増えていた。


 床へ張りついたものの上に、別の糸が重なっている。照明を低く向けると、その一部が白く浮かんだ。


 盾兵たちが足を止める。


 後ろから、道を確かめる兵が出た。動ける場所を見定め、味方の足元へ目を向ける。奥を見たい気持ちをこらえ、朔も、まず近くを確かめた。


 柱の根元に、小蜘蛛がいた。


「左、二匹」


 声を抑えて伝える。


 小蜘蛛は、光を避けるように柱の裏へ回った。そのうち一匹が壁へ上る。


 担当の兵が、そちらへ盾を向けた。


 大蜘蛛を狙う者たちは、動かなかった。別の組の仕事へ、皆で寄ってはいけない。


 壁を伝ってきた一匹が、通路の縁へ出た。


 短い槍が伸びる。


 蜘蛛の体が傾き、後ろから添えられた盾へ押さえられた。もう一匹は床を走ったが、その先にも穂先があった。


 戦いが済むと、兵はすぐに持ち場へ戻った。


 朔は、その動きを見た。


 朝に聞いた命令が、一つずつ現実になっている。


 それから、ようやく上を見た。


 柱の途中へ、長い脚が掛かっていた。


 大蜘蛛は、前に観察した場所より奥にいる。石のような殻が、光の端で鈍く見えた。


「奥の柱です。体は、高い足場の上にございます」


 景綱へ声が伝わる。


 岳が、朔の示す場所を見た。


「まだ、予定したところではございません」


「分かった」


 景綱は頷いた。


 兵が広間へ入り始めた。


 大勢ではない。


 糸の少ない場所を選び、盾を見せながら少しずつ進む。大蜘蛛の目が、そちらへ向いた。


 朔は遠見を使った。


 殻の下へ収まっていた脚が、一本、伸びる。


 次に、もう一本。


 大きな体が、柱から高い足場へ移った。


「動きます」


 朔は伝えた。


 兵たちは止まらず、決めた範囲を越えないように進んでいる。


 蜘蛛の腹が、わずかに持ち上がった。


「糸が来ます!」


 声を聞いた盾兵が横へ動いた。


 白いものが床へ落ち、石の欠片を絡め取る。


 兵の腕には、触れなかった。


 朔は、自分の喉が乾いていくのを感じた。


 外れた。


 そう安心する暇もなく、大蜘蛛が脚を掛け替えた。


 予定していた足場ではない。


 さらに高い方へ、体を引き上げようとしている。


「上へ移っています。まだ、違います!」


 朔は声を張った。


 岳が手を上げる。


 景綱が、すぐに応じた。


「待て。前の組は、そこから戻せ」


 命令が走る。


 広間に出ていた兵が、盾を向けたまま後退した。


 大蜘蛛は、それを追うように体を回した。だが、狙ったところへは来ない。伸びた脚が、別の梁をつかんだ。


 朔は瞬きした。


 一度、目の焦点が合わなくなった。


「足元だ」


 隣の騎兵に言われ、視線を戻す。


 小蜘蛛が、石の間から現れていた。


 別の兵が槍を向ける。


 朔は半歩下がり、照明の位置を変える者へ道を空けた。


 急いで合図を出していたら、どうなっていた。


 そんな考えが浮かんだが、追い払った。


 まだ、終わっていない。


     *


 一度目の動きで、蜘蛛がこちらを追うことは分かった。


 だが、思った道を通るとは限らない。


 景綱は岳と短く話し、前へ出す兵の位置を変えた。最初の組は下げ、休ませていた組へ替える。


 誰も、失敗したとは言わなかった。


 予定と違ったから、止めた。


 そのための合図だった。


 岳は助手のもとへ戻り、確認を済ませてから、また景綱のそばへ来た。


「こちらは、変わりございません」


「分かった。次を出す」


 照明が、蜘蛛のいる場所を照らした。


 新しい盾が、広間へ進む。


 大蜘蛛は、動く兵を見ていた。


 口元が開く。


 白い糸が、盾の端へ触れた。


「捨てろ!」


 兵が留め具を外し、盾を離す。


 板が床を滑り、大蜘蛛の方へ引かれた。その兵は追わず、後ろの盾の陰へ入った。


 大蜘蛛が、脚を伸ばした。


 空になった盾を打ち、床へ押しつける。


 そのとき、殻のある体が少し前へ出た。


 朔は、脚の掛かる場所を見た。


 一本。


 次に、体を支える脚。


 光が届いている。


 見える。


「こちらへ来ます。足場の上です」


 岳が顔を上げた。


 朔は、まだ言葉を続けた。


「体も移っています。奥の脚が、離れました」


 岳の目が、広間の上を追う。


 やがて、景綱へ向き直った。


「前の方々を、お下げください」


「引け!」


 景綱が命じた。


 盾兵たちが戻る。


 走らない。


 だが、動きは速かった。


 小蜘蛛を受け持つ兵も、通路の側へ寄せる。最後の一人が味方の盾の後ろへ入るまで、岳は動かなかった。


 景綱が、退いた兵の数を確かめる。


 手が上がる。


 岳は助手と合図を交わした。


 朔は、目の前の柱から身を離し、指示された場所へ下がった。


 そこで初めて、上を見るのをやめた。


 次の瞬間、地下が鳴った。


     *


 音は、胸の内側まで届いた。


 朔は思わず歯を食いしばった。足元から震えが上がり、壁へ添えた手にも、ざらついた感触が伝わる。


 何かが裂けるような音が続いた。


 石が落ちる。


 一つではない。


 重いものが、何度も床を叩いた。


 その間へ、魔物の声が混じった。


 小鬼でも、獣でもない、甲高い音だった。


 白い埃が、広間から押し寄せてくる。照明の光が、その中で途切れた。さっきまで見えていた柱が消える。


「動くな!」


 景綱の声がした。


「前へ出るな。顔を伏せろ」


 兵たちが、盾の陰へ身を寄せる。


 朔は袖で口元を覆った。


 耳が、じんじんしていた。


 何かが、まだ落ちている。


 岳が広間を見ていた。助手も、その隣にいる。


 誰も成功だと叫ばなかった。


 朔には、蜘蛛が落ちたかどうかも分からない。


 見えないものを、見えたとは言えなかった。


 石の音が、少しずつ減った。


 その代わりに、別の音が聞こえた。


 硬いものが、床を掻いている。


 脚だ。


 大蜘蛛の脚が、石を掻いている。


「生きています」


 朔は、低く告げた。


 誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 景綱は聞いていた。


「構えろ。まだ入るな」


 埃が流れ、少しずつ薄くなる。


 光の向こうへ、黒い脚が現れた。


 床にある。


 その奥に、殻を持つ大きな胴体が見えた。


 落ちていた。


 高い足場にいた魔物が、石の床へ横倒しになっている。


 ただし、動かなくなってはいなかった。


 曲がった脚の一本を床へ突き、体を起こそうとしていた。


     *


 岳が、床と上の様子を確かめた。


 崩れた部分からは、まだ細かな欠片が落ちている。


 兵の進める道を示すまでに、時間がかかった。


 その間に、大蜘蛛は体を立て直しかけていた。


 折れた脚を引きずり、残る脚で床を押す。殻の一部にはひびが走っていたが、牙も、口も動いている。


「こちらを使ってください。奥へは寄らぬように」


 岳が告げた。


 景綱は頷き、兵へ合図した。


「小蜘蛛の組、先に道を押さえろ。槍は、その後ろだ」


 盾が進む。


 大蜘蛛が、こちらを向いた。


 白い糸が飛んだ。


 先頭の兵が横へ逃げ、後ろにいた者が盾を傾ける。糸は板をかすめ、石の床へ張りついた。


 そこへ足を置かぬよう、兵の進路が少しずつずれる。


 大蜘蛛は、長い脚を振った。


 横から来た一撃だった。


 盾へ当たり、男が倒れる。


 隣の兵が引こうとしたところへ、もう一本の脚が落ちた。


 盾が割れた。


 短い叫び声がした。


 朔の肩が動いた。


 行かなければと思った。


 だが、その前に、搬送の組が走っていた。槍兵が間へ入り、動く脚へ穂先を向ける。


「前を空けるな!」


 景綱の声が飛んだ。


「右の組、脚を見ろ。胴へ急ぐな!」


 大蜘蛛の体は、床にある。


 それだけで、簡単な相手になったわけではなかった。


 殻は硬く、正面の牙は太い。糸へ触れれば、武器も盾も取られる。


 ただ、高い場所へ逃げることはできなかった。


 右側の二本の脚は、不自然な向きへ折れている。体を回すたび、腹が床を擦った。


 朔は、その動きを見た。


「右へ回れません。左の脚で、体を起こそうとしています!」


 景綱が、そちらへ目を向ける。


 槍兵へ指示が伝わった。


 脚の付け根へ、横から穂先が伸びた。


 大蜘蛛が身をひねる。


 一本の槍が、殻の縁へ弾かれた。


 もう一本が、柔らかいところへ入った。


 鋭い声がした。


 大蜘蛛が、脚を振り回す。


 兵が離れる。


 抜けなかった槍は、そのまま放された。


 景綱は、兵が下がったのを見届け、次の組へ命じた。


「交代。前の者を戻せ」


 疲れた兵が下がる。


 新しい盾が入る。


 その脇を、小蜘蛛が走っていた。


「左の壁!」


 朔が知らせると、担当の組が向きを変えた。


 大蜘蛛を囲む者たちは、そちらへ寄らなかった。壁へ上った一匹を槍で落とし、床へ来たものを盾で止める。


 その後ろで、負傷者が運ばれていった。


 朔は、一瞬だけ、その担架へ目を向けた。


 すぐに戻す。


 見続ける役を離れれば、また誰かが不意を打たれる。


 指先が冷たかった。


 照明の持ち手を握る兵も、同じように汗を流していた。


「もう少し、腹の下を」


 朔が言った。


 光が低く差し込む。


 石の殻の下に、薄い皮が見えた。


 そこへ届く道を作るため、兵たちは脚を一本ずつ抑えていた。


     *


 景綱は、弓を受け取った。


 前へ走ることはできない。槍を持って踏み込めば、膝がついてこないだろう。


 だが、ここからなら見える。


 大蜘蛛が体を持ち上げるたび、殻の下がわずかに開いていた。


 ただし、その手前に味方がいる。


 景綱は弓を引かず、機を待った。


「右の槍、下がれ。左は、そのままだ」


 命令が伝わる。


 右側の兵が一歩退く。


 大蜘蛛は、そちらへ向き直ろうとした。折れた脚が床を擦り、体が傾く。


 腹の一部が見えた。


 景綱は弦を引いた。


 息を止め、放す。


 矢が殻の下へ入った。


 大蜘蛛の体が、大きく跳ねた。


 脚が上がる。


「来るぞ、離れろ!」


 景綱が叫んだ。


 兵が退く。


 長い脚が、石の床を打った。割れた欠片が飛び、一人の頬をかすめた。


 その脚が戻る前に、別の槍が出た。


 関節へ穂先が入り、支えていた脚が曲がった。


 胴が、また床へ落ちた。


 大蜘蛛の口が開いた。


 糸は飛ばなかった。


 代わりに、低い、擦れるような音が漏れた。


 景綱は、弓を下ろさなかった。


 槍兵たちは、まだ近づきすぎない。


 突いて、引く。


 動けば離れる。


 一人で仕留めようと、深く入らない。


 朝から繰り返してきたことを、皆が守っていた。


 それでも、時間はかかった。


 大蜘蛛の脚は、弱ってからも危険だった。


 最後の一本が床を掻かなくなるまで、誰も武器を下ろせなかった。


 やがて、口の動きが止まった。


 腹が、わずかに震える。


 それも、おさまった。


 広間に、兵の呼吸だけが残った。


 朔は、自分がいつから歯を食いしばっていたのか分からなかった。


 顎が痛かった。


「……動きません」


 声にすると、喉がかすれた。


 景綱は頷いたが、まだ兵を寄せなかった。


 距離を取ったまま反応を確かめる。生きた小蜘蛛が残っていないか、周囲も調べさせた。


 副官が、ようやく顔を上げた。


「討ち取っております」


 景綱は、弓を兵へ渡した。


「救護を始めろ。動ける者も、勝手に奥へ行くな」


 歓声より先に、その命令が広がった。


     *


 王城の机で、俺は紙をめくっていた。


 豊原から届いた糧食の報告だった。


 倉にある分。


 買い付けの相談がついた分。


 王都へ送るため、荷車を集めている分。


 数字の横にある日付を見て、俺は宗玄へ尋ねようとした。


 そのとき、視界が光った。


【討伐ポイントを獲得しました】


【獲得ポイント:+一〇〇〇】


 口が止まった。


 千。


 俺は、その文字を見つめた。


 これまでと違う、大きな数字だった。


「陛下?」


 宗玄に呼ばれ、顔を上げる。


 何かを倒した。


 強いものを。


 だが、それが大蜘蛛かどうかは、分からなかった。


 姉上のいる北門砦で、何かが起きたのかもしれない。


 別の場所かもしれない。


 それでも、机の脇へ置いた広間の図へ、目が向いた。


 梁の上の蜘蛛。


 岳が書き足した足場。


 景綱が記した、兵の待機場所。


 俺は図へ手を置いた。


 掌が、冷えていた。


「……いや。すまない。続きを聞こう」


 そう答えたが、宗玄はすぐには話を再開しなかった。


 俺の顔を見てから、静かに水を頼んだ。


 運ばれてきた椀を持つ。


 指先へ、器の温度が伝わる。


 俺は一口飲んだ。


 倒したのなら、戻ってきてくれ。


 誰が何を倒したかも知らぬまま、そんなことを願っていた。


「負傷者を受け入れる場所は、空いているか」


 俺が尋ねると、宗玄は頷いた。


「玄庵殿と確認しております。布と湯の手配も、続けております」


「もう一度、伝えてくれ。今日、前線から人が戻るかもしれない」


「承知いたしました」


 宗玄は理由を問わなかった。


 俺は紙へ目を戻した。


 けれど、さっきまで読めていた数字が、何度も頭から抜けた。


     *


 石殻の大蜘蛛は、広間の中央へ横たわっていた。


 間近で見ると、殻には細かな傷がいくつもある。新しいものも、古そうなものもあった。


 岳は、そのそばへ不用意に寄らず、先に上を見た。


 崩した足場。


 残った梁。


 柱と壁の間。


 助手とともに周囲を確かめ、兵が通れる道を示す。


 朔は、少し離れた場所へ座っていた。


 手を開くと、指がうまく伸びなかった。


 隣の騎兵が、地面へ水筒を置く。


「飲め」


 朔は受け取った。


 口へ運ぼうとして、少しこぼした。


「……すまん」


「水でよかった」


 騎兵は言って、朔の横へ腰を下ろした。


 笑おうとしたが、笑えなかった。


 近くで、衛生兵が誰かへ呼びかけている。


 返事は聞こえなかった。


 朔は、そちらを見た。


 盾が二枚、脇へ置かれていた。


 その向こうで、兵が一人、静かに横たわっている。


 朝、一緒に入口を越えた者だった。


 顔は、見えなかった。


 朔は水筒を下ろした。


 倒した。


 皆で、倒した。


 そのことを、喜んでいたはずだった。


 だが、胸の奥へ広がりかけた安堵は、そこで止まった。


 景綱が、横たわる兵のもとへ来た。


 膝をつく代わりに、体を低くして顔を見た。衛生兵から短く話を聞き、やがて頷く。


 声は聞こえなかった。


 ただ、景綱が手を伸ばし、男の肩へ触れるのが見えた。


 そのあと、布がかけられた。


 朔は顔を伏せた。


 いま水を飲んでいる自分の隣に、朝には、その男もいたのだと思った。


     *


 負傷者の搬送を始め、広間の外周を確かめたあと、景綱は奥へ進む者を選んだ。


 蜘蛛を倒したからといって、ダンジョンが止まったわけではない。


 第一・第二層では、まだ見張りが必要だった。


 岳が通れると判断した道を、盾兵が先へ進む。朔は休ませたまま、別の偵察兵を連れた。


 広間の奥にも、糸があった。


 だが、大蜘蛛が動いていた場所より少ない。


 石の台が、壁際に置かれていた。


 その上に、赤紫の結晶がある。


 照明を向けても、その輝きは変わらなかった。石の内側から、弱い光が脈打っている。


 景綱は、そこで足を止めた。


「核か」


 副官が、小声で言った。


 景綱は、結晶の周囲を見た。


 魔石を床へ置いた姿とは違う。台座から伸びる石の筋が、結晶を抱えるように取り巻いている。


 これまで報告で聞いてきた、ダンジョンコアの特徴に近かった。


 だが、近づいた途端に何かが起きる可能性もある。


 景綱は、周囲を先に調べさせた。


 壁際に小蜘蛛が一匹残っていた。


 それを倒し、台座の裏を確かめる。


 別の通路は見つからなかった。


 岳が、足元と台座の周りを見た。


「上から落ちるおそれのあるものは、いま見える範囲にはございません」


 景綱は頷いた。


 兵の一人が、運んできた槌を下ろした。


 王都から届いた工具の一つだった。


 切り出した石を動かし、道を整えるために使ってきた道具が、いまは核の前にある。


「ほかの者は、離れろ」


 景綱が告げた。


「割れたものへ、素手で触るな」


 盾兵が構えた。


 槌を持つ兵が、足場を確かめる。


 一度、景綱を見る。


 景綱は頷いた。


 槌が振り下ろされた。


 澄んだ音が、広間へ響いた。


 結晶に、細い線が入る。


 二度目で、その線が広がった。


 光が強くなったように見え、兵の一人が身を引いた。


 景綱は、動かなかった。


 槌を持つ男が息を入れ、もう一度、振り下ろした。


 結晶が割れた。


 光が、台座の上へこぼれるように揺れた。


 風が吹いたわけではなかった。


 それでも、広間へ満ちていた何かが、奥へ引いていくような感覚があった。


 壁も、床も、崩れなかった。


 割れた核の中から、最後の光が消えた。


 景綱は、しばらく台座を見ていた。


 それから、副官へ告げる。


「各層へ知らせろ。核を破壊した。だが、見張りは解くな」


「はっ」


「発生が止まったか、記録と照らして確かめる。残った魔物は、そのままだと思え」


 伝令が走った。


 広間に、また足音が戻った。


     *


 核を壊しても、小蜘蛛は消えなかった。


 瓦礫の陰から見つかったものを、兵が倒す。


 第一層でも、部屋に残っていた小鬼は、そのまま武器を振り上げてきた。


 だから、最初は何が変わったのか、分かりにくかった。


 ただ、時間が過ぎても、新しい敵が出てこない。


 これまで、何度も小鬼を確認していた部屋が静かだった。


 見張りの兵が、記録を見直す。


 前には、この間に二度、現れていた。


 今日は、何もない。


 別の部屋でも、同じ報告が上がった。


 景綱は、それらを一つずつ聞いた。


 石切場の外へも、以前のように魔物が流れてきていない。


 重蔵のもとからも、橋周辺で新たな群れは確認していないと知らせが来た。


 夕方が近づいたころ、景綱はようやく、攻略報告を書かせた。


 石殻を持つ大蜘蛛を討伐。


 第三層最奥で核を破壊。


 第一・第二層の監視地点にて、新たな発生を確認せず。


 残存する魔物の掃討を継続。


 その下に、被害が記される。


 戦死二名。


 負傷十四名。


 うち、重傷三名。


 景綱は、その数字を長く見た。


 衛生兵へ、数の確認を頼む。


 部隊を預かる者にも、戻っていない兵がいないか、改めて確かめさせた。


 その間に、岳が報告へ来た。


「破砕薬は二包を使用いたしました。残る一包は、引き続き、こちらで保管しております」


「分かった。数量を、書き添えてくれ」


「はい」


 岳は、書状の被害欄へ目を止めた。


 何かを言いかけ、口を閉じる。


 景綱は、その顔を見た。


「そなたの仕事で、届く場所へ落とせた」


 岳が顔を上げた。


「そこから先は、我らの戦いだった」


 それ以上、慰めるようなことは言わなかった。


 岳も、軽々しく頷かなかった。


 ただ、一礼して下がった。


 景綱は、報告書へ印を入れた。


「陛下へ。できるだけ早く、届けてくれ」


 伝令が受け取り、胸元へ収めた。


 外へ向かう足音を聞いてから、景綱はようやく椅子へ腰を下ろした。


 右膝が、ひどく重かった。


     *


 夜になっても、俺は執務室にいた。


 何度か、休むように言われた。


 食事も運ばれた。


 少し食べて、また机へ戻った。


 窓の外を見るたび、同じ城下の灯が見える。報告が近づいているかどうかなど、分かるはずもなかった。


 それでも、何度も見た。


 宗玄が入ってきたとき、俺は足音だけで立ち上がっていた。


 彼の手に、書状がある。


「景綱殿より、攻略の報告でございます」


 俺は受け取った。


 封を開く。


 最初の一行が、すぐには頭へ入らなかった。


 読み直す。


 大蜘蛛を討伐。


 核を破壊。


 発生停止を確認。


 俺は紙を持ったまま、息を吐いた。


 止まった。


 あの穴から、魔物が出続けることは、なくなったのだ。


 椅子へ座るよう、宗玄に促された。


 俺は座り、続きを読む。


 戦死二名。


 そこへ目が止まった。


 名前が、別紙にある。


 負傷十四名。


 重傷三名。


 俺は、紙を机へ置いた。


 千ポイントの通知が来たとき、倒したのかもしれないと思った。


 その瞬間にも、誰かが傷つき、誰かはもう戻らなくなっていた。


 俺が、ここで水を飲んでいた間に。


 目を閉じると、城を出る六百の兵が浮かんだ。


 あの列のどこに、この二人がいたのだろう。


 顔を思い出そうとしても、分からなかった。


 俺は別紙へ手を添え、頭を下げた。


 しばらく、何も言えなかった。


 宗玄も、黙っていた。


 やがて顔を上げると、涙で文字が少しにじんでいた。


 拭ってから、俺は口を開いた。


「景綱と、兵たちへ礼を伝えてくれ」


 声は、思っていたより静かだった。


「岳たちにもだ。皆が戻るまで、必要なものは送り続ける。負傷者の搬送と治療を、優先してほしい」


「承知いたしました」


「亡くなった者は……」


 言葉が詰まった。


 俺は一度、息を入れた。


「家族への知らせを、曖昧にしないでくれ。遺品と、渡すべき給金も、直澄に確かめてもらいたい」


 宗玄が、深く頷いた。


「すぐに、手配いたします」


「攻略したからと、すぐ全部の兵を動かさぬように。残った魔物と、坑道の状態を確かめてから、帰還の順を決めてくれ」


「はい」


 宗玄の筆が動く。


 俺は報告書へ目を戻した。


 被害の下には、景綱の短い文があった。


 兵はよく命令を守り、互いを支えて戦った。


 俺は、その一文を何度も読んだ。


     *


 その夜、石切場へ戻された兵たちは、交代で食事を取った。


 温かい汁が配られた。


 椀を受け取ったあと、しばらく手へ持ったまま動かない者もいた。


 朔も、その一人だった。


 地下から出たときには、もう空が暗かった。


 外の風を吸った途端、脚の力が抜けそうになった。ここまで戻ったのだと分かってから、あの広間で聞いた音が、何度も頭の中へ戻ってきていた。


 石の落ちる音。


 盾の割れる音。


 仲間の叫び。


 朔は汁を一口飲んだ。


 熱かった。


 舌が少し痛み、それで初めて、自分が急いで飲んだことに気づいた。


 隣の騎兵が、椀を置いた。


「明日は、交代が一つ遅いらしい」


「そうか」


「ああ。寝られるぞ」


 朔は頷いた。


 眠れるかどうかは、分からなかった。


 それでも、眠ってよいと決まっていることが、ありがたかった。


 入口には、まだ兵がいる。


 奥へ残った魔物を確かめる者もいる。


 だが、新しい群れが湧き、次々と南へ流れてくることは、もうない。


 その話を聞いても、体はすぐには理解しなかった。


 朔は、食事のあとで少しだけ離れた場所へ歩いた。


 石切場の縁から、空が見えた。


 雲の切れ間に、星が一つある。


 隣に来た騎兵も、同じ方を見上げた。


「何か見えるか」


 冗談のような声だった。


 朔は、遠見を使わなかった。


「星だ」


「それは、俺にも見える」


 二人とも、少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに消えた。


 戻らなかった者がいる。


 傷を負い、運ばれていった者もいる。


 けれど、自分たちは、いま外へ立っていた。


 朔は、もう一度、空を見上げた。


 見張るためではなかった。


 敵を探すためでもない。


 ただ、そこに夜空があった。


 しばらく眺めてから、彼は背を向けた。


 火のそばには、まだ温かい湯が残っている。


 その向こうに、自分の休む場所があった。

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