第六話 闇の入口
暗い穴の奥で、何かが擦れた。
石を引きずるような音だった。
景綱は槍を受け取り、入口を見据えた。
「前を空けろ。盾は下がれ」
入口に近かった兵たちが、ゆっくりと後退する。
走る者はいなかった。背を向けることもなく、盾を構えたまま足元を確かめている。
その足の間で、小石が震えた。
一度。
間を置いて、もう一度。
朔は、喉が狭くなるのを感じた。
何が来る。
遠見を使っても、穴の奥は暗いままだった。聞こえる音だけが、少しずつ大きくなっている。
最初に見えたのは、爪だった。
黒く、太い爪が、穴の縁へかかった。
五本ではない。三本だった。
その後ろから、岩の塊のような前脚が出てくる。
兵の一人が、短く息を呑んだ。
頭が現れた。
蜥蜴に似ていた。
ただし、鱗というには厚すぎる板が、額から首へ重なっている。口の端には泥のようなものがこびりつき、鼻先から、湿った息が漏れていた。
頭だけで、盾ほどの幅があった。
それが入口から出ようとして、止まった。
肩が、岩壁へつかえていた。
低い唸りがした。
右の前脚が、地面を掻く。
爪の先で、小さな石が砕けた。
「射て」
景綱が告げた。
弓弦が鳴った。
一本が額へ当たり、弾かれた。
もう一本は首の横へ刺さったように見えたが、次の瞬間、矢柄だけが折れて落ちた。
魔物が顔を振った。
穴の縁から、乾いた石の欠片が落ちる。
「止めろ」
景綱の声が飛んだ。
「同じところへ使うな。矢を残せ」
弓兵が手を止めた。
魔物の背が、少しずつ見えてきた。
灰色の板が、幾重にも重なっている。地面に伏せた岩へ、脚と尾が生えたような姿だった。
右の肩を前へ。
次に、左の肩。
体を斜めにして、狭い入口を抜けようとしている。
景綱は、周囲を見た。
南には、兵を入れてきた狭窄部。
西には、崩れた斜面。
東には、石材と古い木枠が残る作業場。
ここで列を固め、正面から受ければ、後ろへ退く者まで押し潰される。
「南へ道を残せ。左右へ分かれろ」
副官が合図を送った。
槍兵の列が割れる。
中央に、人が抜けられる幅を空ける。
「背へ打ち込むな。脚と腹を見る。前に立ち続けるな」
兵たちが頷いた。
魔物が、もう一度、体を押し出した。
岩壁が鳴った。
肩が抜けた。
*
朔は、思わず半歩下がった。
隣の騎兵も、同じだけ足を動かした。
魔物は、まだ全身を出していない。
それなのに、入口の前がひどく狭く感じられた。
前脚が、石切場の地面へ置かれる。
胴が続く。
背には、矢を弾いた厚い板が並んでいた。
長い尾が、暗がりから引き出される。
鼻先から尾まで、人が何人も横になれる長さだった。
「下がるぞ」
隣の騎兵が言った。
朔は頷いた。
二人は、景綱が示した東側へ移った。
積まれた石材の陰。
入口も、魔物の横も見える場所だった。
朔はそこで膝をついた。
遠見を使うほど離れてはいない。
まず、自分の目で見た。
前脚。
後脚。
尾。
頭が振られるたび、どこへ重さが移るのか。
魔物は兵を見ていた。
右の一団へ顔を向け、次に左へ戻す。
迷っているのか、狙っているのかは分からない。
ただ、その頭の動きに合わせて、首の板がずれていた。
柔らかそうな場所は、顎の下にある。
だが、そこへ槍を届かせるには、口の正面へ近づかなければならなかった。
朔は、脚へ目を戻した。
魔物が一歩、進む。
前脚を持ち上げたとき、その付け根に、細い影が見えた。
板がない。
次の一歩で、隠れた。
朔は息を詰めた。
もう一度。
見間違いでなければ、もう一度見える。
魔物が、左前脚を出した。
脇が開く。
灰色の鎧の間に、色の薄い皮があった。
「脚の付け根です」
朔は声を出した。
騎兵が顔を寄せる。
「前脚を出すと、脇の板が開きます。そこには、厚い板がありません」
「確かか」
「見えました。ただ、槍が通るかまでは分かりません」
騎兵は頷き、近くの連絡兵へ伝えた。
朔は、その場所を見続けた。
伝えただけでは終わらない。
次にどちらの脚が出るのか。
狙える角度が、どこにあるのか。
見なければならなかった。
*
魔物が走った。
速かった。
四つ足の大きな体が、低く沈んだと思った次の瞬間、地面を蹴っていた。
「退け!」
景綱が叫ぶ。
正面にいた盾兵が、横へ逃げる。
一人が足を滑らせた。
隣の兵が襟をつかんで引いた。
魔物の鼻先が、二人のいた場所を通り過ぎる。
積まれた石材へ、頭がぶつかった。
重い音が響いた。
上の石がずれ、土の上へ落ちる。
魔物は止まらなかった。
頭を持ち上げ、石へ体を擦りつけるように向きを変える。
「近づくな!」
景綱は、踏み出しかけた兵を止めた。
そのすぐあと、尾が振られた。
地面を這うような一撃だった。
石の欠片が跳び、古い木枠が砕けた。
兵たちが距離を取る。
魔物は、尾が届かなかったことなど気にしていないように、また前を向いた。
景綱のもとへ、朔の知らせが届いた。
前脚を踏み出したとき、脇が開く。
彼は魔物を見た。
確かに、歩くたび、板の間がずれている。
だが、一瞬だ。
しかも、脚を出した直後には、体重が前へ移る。
近づきすぎれば、突かれる前に踏み潰されるだろう。
「盾を、一枚だけ見せろ」
景綱が命じた。
兵たちの顔が動いた。
「受け止めろと言っているのではない。石の陰から出し、向きをこちらへ寄せる。走り始めたら引け」
副官が、配置を見た。
大きな石材が二つ、少し離れて残っている。
その間を使えば、盾を見せた者は横へ隠れられる。
ただし、魔物が石ごと押してくる可能性はあった。
「一度でよい。深追いするな」
景綱は、槍兵にも告げた。
「狙うのは左前脚の後ろだ。届かなければ、そのまま引け」
兵が前へ出た。
盾が、石材の端から現れる。
魔物が顔を向けた。
低い唸り。
爪が地面を掻く。
「まだだ」
景綱は槍兵を止めた。
魔物が、盾へ向かって歩き出した。
左の前脚が上がる。
「いま!」
横から、槍が伸びた。
板の隙間へ、穂先が入った。
魔物が吠えた。
これまでの唸りとは違う、鋭い声だった。
刺した兵の顔が変わる。
通った。
そう気づいた瞬間、魔物が体をひねった。
槍の柄が、横へ振られる。
「離せ!」
景綱が叫んだ。
兵は手を放した。
折れた柄が、石へ叩きつけられる。
魔物の前脚の下へ、血が落ちた。
傷はついた。
だが、まだ動ける。
景綱は槍兵を下げた。
「同じ場所へ立ち続けるな。次は、向こうだ」
副官が頷く。
兵たちは、互いの間を空けながら、ゆっくり位置を変えた。
*
王城の廊下で、俺は足を止めた。
視界の端に、淡い文字が浮かんでいた。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+五】
少しして、もう一度。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+五】
景綱たちは、まだ戦っているのだろうか。
それとも、北門砦か。
考えても、分からない。
昨夜から今朝まで、まとまって増えた時間があった。
そのあと、間が空いた。
いまは、また少しずつ増えている。
通知だけで戦況を読もうとすると、勝手な想像ばかり膨らんだ。
止まったのは、敵を倒し終えたからか。
それとも、兵が押されているからか。
どちらも、あり得る。
「陛下」
弥一が振り返った。
「お加減が」
「いや。考え事だ」
俺は歩き出した。
向かっていたのは、負傷兵を受け入れている部屋だった。
玄庵は、奥で布を替えていた。
俺に気づくと、一礼したが、手は止めない。
俺も、それでよかった。
「昨夜は、どうだった」
「容体の変わった者はおりますが、いまのところ、持ちこたえております」
その言い方だけで、簡単な夜ではなかったと分かった。
湯の入った桶が運ばれてくる。
汚れた布を持つ者と、廊下で譲り合う。
部屋の隅では、兵が薄い粥を口へ運んでいた。
その向こうに、市助がいた。
溝から助け出された弓兵だ。
俺に気づくと、寝台の上で体を起こそうとした。
「そのままでいい」
俺は先に言った。
市助が、動きを止める。
足首は布で固定され、左腕にも腫れが残っていた。
俺は、彼へ意識を向けた。
【名前】市助
【年齢】32歳
【役職】月白大橋詰所・弓兵
HP:102/156
MP:17/17
筋力:16
耐久:17
敏捷:15
魔力:6
器用:21
【スキル】
弓術
見張り
綱結び
【状態】
右足首の捻挫
左前腕の打撲
疲労
命を脅かすような状態は、表示されていなかった。
それに安堵してから、すぐに自分を戒めた。
表示が軽そうだからといって、痛くないわけではない。
「足は、どうだ」
「腫れは、少し引いたように思います」
市助は、布で巻かれた足を見た。
「ですが、立とうとしますと、まだ……」
「では、立つな」
少し強く言いすぎたかもしれない。
俺は声を落とした。
「玄庵の言うことを聞け。急いで戻るために、治るものを悪くするな」
「……はい」
市助が頷いた。
その顔に、まだ言いたそうなものがあった。
「何かあるか」
「橋の者たちは」
俺は、すぐには答えられなかった。
まだ、詳しい報告が来ていない。
安心させるために、大丈夫だと言うことはできた。
だが、それは事実ではない。
「景綱の本隊が着き、交代して休めるようになったと聞いている。橋は、守られている」
俺は、分かっていることだけを言った。
「次の報せが来たら、こちらにも伝えよう」
市助は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
俺は頷き、寝台の脇を離れた。
玄庵のもとへ戻る途中で、また通知が浮かんだ。
俺は、その数字を見ないようにした。
いま目の前にいる者の話を、先に聞きたかった。
*
石切場では、魔物の動きが少しずつ変わっていた。
左前脚を、深く出さなくなった。
体を回すときにも、わずかに遅れる。
傷は効いている。
だが、兵にも疲れが出ていた。
盾を見せる者。
横から狙う者。
尾を警戒する者。
それぞれが、自分の役目だけを見てしまえば、魔物の別の動きへ気づけなくなる。
「交代しろ」
景綱が告げた。
前へ出ていた兵が下がる。
その背を追うように、魔物が頭を動かした。
鼻先が上がる。
口が開いた。
「下がれ!」
景綱の声と、朔の声が重なった。
魔物は噛みつこうとしたのではなかった。
足元へ転がっていた小鬼の死骸を、口へくわえた。
顎が閉じる。
嫌な音がした。
兵の一人が顔を歪めた。
魔物は、死骸を振り回した。
手放す。
重いものが、横へ飛んだ。
盾へぶつかり、兵が倒れた。
その隣の者まで、足を崩す。
「右へ引け!」
景綱が命じた。
魔物が踏み込んだ。
負傷者を運ぶ役の兵が、倒れた者へ走る。
槍兵が、その前へ入った。
魔物の口へ、穂先を向ける。
だが、分厚い顎が槍を押した。
兵の足が滑った。
そのとき、低丘から矢が飛んだ。
目の近くへ当たる。
刺さらなかった。
それでも、魔物は顔を振った。
その一瞬で、倒れた二人が引きずり出された。
景綱は、息を吐いた。
右膝が痛んだ。
助けに出ようとして、無意識に前へ体重をかけていた。
彼は、その足を戻した。
自分が走っていっても、倒れた二人を一度に運ぶことはできない。
運ぶ者を決めていたから、いま間に合った。
「盾を替えろ。壊れたものは下げる」
声を出す。
「左の槍、前へ出すぎている。尾が届くぞ」
兵が下がった。
次の瞬間、尾が地面を擦った。
景綱は、魔物の位置を見た。
入口からは、離れている。
南の狭窄部も、まだ空いている。
この場で倒せば、どちらも塞がない。
だが、これ以上、自由に動かしておけば、兵の方が先に疲れる。
景綱は、東の石材へ目を向けた。
高さの違う、二つの塊がある。
魔物が体を回すには、その間は狭い。
「こちらへ寄せる」
彼は副官へ告げた。
副官が地面と石を見て、頷いた。
「突進を止めるのではない。通り抜けようとして、体を伸ばすところを狙う」
「承知いたしました」
「右から脇を突く。左は盾で向きを誘う。尾の側へは入れるな」
命令が、短く伝わっていく。
朔のもとへも、知らせが届いた。
彼は、石の間と魔物を見比べた。
次に脚が開く場所を、探した。
*
盾が動いた。
魔物が、それを追った。
左前脚を引きずるようにして、東へ向き直る。
兵が石材の陰へ下がる。
魔物は、鼻先をその間へ押し込んだ。
頭が通る。
肩が続く。
体を斜めにするため、右の前脚が大きく前へ出た。
「右です!」
朔は叫んだ。
「右が、開きます!」
槍が伸びた。
一本目が、板の端へ当たった。
滑る。
兵がすぐに引く。
二本目が、その下へ入った。
深かった。
魔物が吠えた。
右前脚が曲がる。
体を戻そうとしたところで、傷ついた左脚へ重さがかかった。
巨体が傾いた。
「引け!」
景綱が命じる。
槍兵が離れた。
魔物は、倒れきらなかった。
石へ肩を押しつけ、踏ん張った。
そのせいで、脇がさらに開いた。
弓兵が狙う。
矢が一本、柔らかい皮へ入った。
もう一本が、首の下へ刺さる。
魔物は頭を振った。
爪で地面を掻く。
だが、前へ出られない。
足を動かすたび、傷口から血が流れた。
兵の一人が、前へ出ようとした。
「待て!」
景綱の声が止めた。
魔物の口が、その兵のいたはずの場所へ伸びた。
顎が、空を噛んだ。
誰かが、短く息を吐く。
「正面へ立つな。横からだ」
景綱が告げた。
槍兵が、二人ずつ近づいた。
突く。
引く。
次の者が入る。
一度に殺そうと、深く踏み込まない。
魔物が動けば、また離れる。
その繰り返しだった。
朔は弓を構えていた。
だが、味方が近い。
射てる場所がなかった。
彼は矢を放たず、尾を見た。
まだ、動く。
ゆっくり持ち上がる。
「尾が動きます!」
声を上げた。
近かった兵が離れた。
尾が石へぶつかる。
以前ほどの勢いはなかった。
それでも、当たれば脚を折られるだろう。
景綱の槍兵は、急がなかった。
魔物の呼吸が荒くなる。
口から、血の混じったものが流れた。
前脚が、もう一度、地面を掻いた。
その爪が止まった。
朔は、弓を下げなかった。
目の前のものが動かなくなったことを、すぐには信じられなかった。
景綱も、同じだった。
しばらく、誰も近づかせない。
槍の届く距離から、反応を確かめる。
ようやく、副官が顔を上げた。
景綱は頷いた。
「……討ち取った」
その言葉が伝わると、兵の間から息が漏れた。
歓声にはならなかった。
皆、疲れていた。
盾を持つ腕を下げる者。
膝へ手を置く者。
その場へ座り込みそうになって、隣に支えられる者。
景綱は、入口を見た。
まだ、黒い穴が開いていた。
「見張りを替えろ。入口から目を離すな」
喜ぶより先に、そう命じた。
*
執務室へ戻り、俺は水瀬からの書状を読んでいた。
避難民を受け入れる場所。
港の荷を動かす順序。
倉庫の空き。
宗玄が、分かりにくい部分を補ってくれる。
俺は頷き、返答へ筆を入れた。
その途中で、視界が光った。
これまでより、はっきりと。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+三〇〇】
筆が止まった。
三百。
大きな魔物を倒したのだろうか。
それがどこなのかは、分からない。
誰が戦ったのかも。
俺は、浮かんだ文字を見つめた。
喜んでよいのかも、分からなかった。
強いものを倒した。
そのために、誰かが傷ついたかもしれない。
「陛下」
宗玄が呼んだ。
俺は顔を上げた。
「……すまない。続きを頼む」
宗玄は、俺の手元を見た。
筆先から、墨が一滴、紙へ落ちていた。
「少し、お休みになっては」
「いや」
答えてから、俺は息を入れ直した。
「水をもらえるか」
「はい」
運ばれてきた水を飲んだ。
喉を通る冷たさで、自分がどれほど力を入れていたかに気づく。
俺は筆を置き直した。
まず、この返答を書く。
それから、灯りと縄の手配を確かめる。
前線の報告が来たとき、追加で送るものをすぐに決められるようにしておく。
ここでできることを、一つずつ。
そう考えなければ、窓の外を見ているだけで日が暮れてしまいそうだった。
*
石切場では、負傷者の確認が始まっていた。
大きな魔物との戦いで、さらに兵が傷ついた。
盾ごと倒された者は、肩を動かせなかった。
石の欠片を顔へ受けた兵は、目に傷がないか確かめられている。
槍を放すのが遅れ、手首を痛めた者もいた。
景綱は、衛生兵の報告を聞いた。
「いまのところ、亡くなった者はおりません。ただ、こちらの一名は、胸を強く打っております。早く医師へ診せとうございます」
「橋へ運べるか」
「揺らさぬようにすれば。歩かせることはできません」
「担架を出せ。途中で替われるよう、運ぶ者をつける」
「承知いたしました」
景綱は頷いた。
生きている。
いまのところは。
その言葉を、忘れないようにした。
戦いの終わった場所で息をしていても、医師へ届くまでに容体が変わる者はいる。
橋へ着けば、それで終わりでもない。
王都へ運ぶ者もいる。
届けられた止血薬を、衛生兵が慎重に取り出した。
必要な傷へ使う。
すべての負傷に効くわけではなかった。
胸を打った者へ塗っても、内側まで治るわけではない。
景綱は、その手元から目を離した。
入口の前では、兵が交代していた。
大きな魔物を倒す間に、小鬼が何匹か出てきている。
そちらは、残していた兵が受け止めた。
いまも、穴の奥から声がする。
大きなものを一体倒しても、源は残っていた。
「副官」
「はっ」
「報告を出す。大型一体を討伐。入口周辺を維持。内部は未確認。負傷者を搬送中だ」
「承知いたしました」
「灯りと、縄。それから、狭い場所で使える盾と武器を集める。長い槍だけでは、中で取り回せぬかもしれん」
副官が書き留めた。
景綱は、暗い入口を見た。
「今日、奥へは進まん。まず入口付近だけを調べる」
*
朔は、呼ばれて景綱の前へ立った。
彼のほかに、兵が数人集まっている。
小ぶりの盾を持つ者。
短い槍を持つ者。
松明と縄を抱えた者。
全員が、景綱の顔を見ていた。
「奥へ進むための調査ではない」
景綱が告げた。
「入口のすぐ内側を確かめる。床がどうなっているか。曲がり角があるか。外から声が届くか。それを見る」
彼は、入口と、その前の地面を示した。
「外の者が姿を見失う場所へ、全員で入るな。角を曲がる必要もない。見えなければ、見えないと報告して戻れ」
「はっ」
「魔物が出てきたら、外へ引く。中で追い回すな」
朔は頷いた。
遠見が使えなくとも、見たことを記録する役目はある。
案内の詰所兵も、隣にいた。
昔の石切場を知る男だった。
その顔が、入口へ向けられている。
「元から、あそこに穴はあったのか」
景綱が尋ねた。
「いえ。私が最後に見たときには、ございませんでした。ただ、もう何年も前のことです」
「分かった」
景綱は、それ以上、断定を求めなかった。
縄の長さを確かめる。
外へ残る者を決める。
合図を決める。
松明へ火がつけられた。
油を含んだ布が、音を立てて燃え始める。
朔は、その明かりを見た。
昼の石切場では、頼りなく見えた。
暗い場所へ持っていけば、これがすべてになる。
騎兵が隣へ来た。
「足元は、俺も見る」
「ああ」
「遠くを見るなよ。見えないなら、近くでいい」
朔は、少しだけ笑った。
「分かっている」
だが、その言葉がありがたかった。
*
入口へ近づくと、空気の冷たさが変わった。
日陰へ入っただけとは、少し違う。
岩の奥から、湿った風が流れてくる。
朔は、松明を持つ兵の後ろにいた。
先頭には盾。
その脇へ、短い槍。
穴の縁を越える。
足元の感触が変わった。
外は、崩れた石と土だった。
中は硬い。
平らなところと、浅くへこんだところがある。
「止まれ」
前の兵が小声で言った。
全員が止まる。
松明が持ち上げられた。
炎が揺れた。
煙は、すぐに外へ戻ってはいかなかった。
少し奥へ流れ、それから上へ漂っている。
朔は息を吸った。
苦しくはない。
だが、ずっとここにいてよいかどうかは、分からなかった。
壁が見えた。
左右とも、石だった。
外の岩肌とは違う。
光が揺れるせいか、輪郭が妙にはっきりしている。
朔は手を伸ばしかけ、やめた。
触って確かめる必要はない。
まず、見る。
「少し、左へ灯りを」
松明が動いた。
壁に、線があった。
まっすぐな線。
その下にも、横へ走る線。
自然に割れたものだろうか。
朔は、目を凝らした。
石の継ぎ目に見えた。
「……ここは」
詰所兵が、小さく声を出した。
朔は顔を向けた。
男は床を見ていた。
「石を切り出した跡では、ございませんな」
誰へともなく言ったようだった。
先頭の盾兵が、さらに一歩進んだ。
床は、緩く下っている。
すぐ先で、通路が右へ曲がっていた。
松明の光は、そこまで届いた。
角の向こうは見えない。
朔は、暗がりへ意識を向けかけた。
遠見。
それを使えば、光の当たっている壁の傷までは、はっきり見えた。
だが、角の向こうは変わらなかった。
当然だった。
見えるはずのないものは、見えない。
「ここまでだ」
盾兵が言った。
朔も頷いた。
そのとき、奥で音がした。
小さな足音。
一つではない。
松明を持つ兵の手が、わずかに揺れた。
「戻る」
先頭が告げた。
全員が、ゆっくり下がった。
背を向けない。
押さない。
外へつないだ縄が、足元で擦れた。
角の向こうから、小鬼の顔が出た。
火を見た。
兵を見た。
叫び声が、狭い通路へ響いた。
外で聞くより、大きかった。
耳の奥へ刺さる。
「来るぞ!」
盾が下がる。
朔たちは入口へ引いた。
小鬼が追ってくる。
一匹目が、盾へぶつかった。
短い槍が、その脇から伸びる。
血が、石の床へ落ちた。
後ろにもいる。
朔は弓へ手をかけたが、前の兵が近すぎた。
使えない。
彼は手を離し、足元の縄を避けながら下がった。
外の光が見えた。
声が届く。
「出てくるぞ!」
入口の外にいた兵が、構えた。
調査の組が左右へ抜ける。
追ってきた小鬼は、明るい石切場へ飛び出したところで、槍に受け止められた。
短い戦いだった。
だが、朔の背中は汗で濡れていた。
穴の中では、数匹でも近かった。
逃げる道が、一つしかなかった。
*
景綱は、戻った者の数を確かめた。
全員いる。
負傷も、浅い擦り傷だけだった。
それを聞いてから、報告を求めた。
「床は、緩く下っております」
朔が答えた。
「少し先で、右へ曲がっています。角の向こうは見ておりません」
「幅は」
「盾を二枚、並べられるほどはあります。ただ、互いに動く余裕は少ないかと存じます」
先頭へ立った兵が補った。
「長い槍を振る場所はございません。後ろへ引く際も、隣と柄が当たりかけました」
「声は聞こえた」
外へ残っていた兵が言った。
「ただ、奥の叫び声と重なりますと、何を言われたか分からぬところもございました」
景綱は頷いた。
灯り。
武器。
合図。
人数。
外で組んだ隊列を、そのまま入れればよいわけではなかった。
「空気は」
「息苦しさは感じませんでした。ですが、松明の煙が溜まる場所は、あるかもしれません」
「分かった」
景綱は、紙へ目を落とした。
朔が、まだ何か言いたそうにしている。
「ほかにあるか」
「壁でございます」
朔は、入口を振り返った。
「岩を掘った穴というより、石を積んだ壁に見えました」
景綱の指が止まった。
「継ぎ目があったのか」
「はい。まっすぐに、並んでおりました」
案内の詰所兵も頷いた。
「古い石切場に、あのような通路を作ったとは聞いておりません。少なくとも、作業用の穴には見えませんでした」
景綱は、しばらく黙っていた。
ダンジョンの中には、外と異なる場所がある。
そういう話は、彼も知っている。
自然の洞穴に似たもの。
迷路のような通路。
誰が造ったかも分からない部屋。
だが、知識として知ることと、目の前の岩壁の向こうにあることは、違った。
「図にしてくれ」
景綱が言った。
「見えたところまででいい。奥は空けておけ」
「承知いたしました」
朔が紙へ向かった。
景綱は入口を見た。
中へ進む者を、選ばなければならない。
ただ勇敢なだけでは足りない。
狭い場所で、隣の者を待てること。
退けと言われたときに退けること。
見えないものを、見えないと伝えられること。
自分の手にある兵の中から、そういう者を集める必要があった。
*
日が傾くころ、石切場からの伝令が王都へ着いた。
俺は、宗玄が入ってくる前から、その足音を聞いていた。
いつもより早い。
戸が開いたときには、もう立ち上がっていた。
「報告か」
「はい。景綱殿より」
書状を受け取る。
入口周辺を確保。
大型の魔物一体を討伐。
複数の負傷者を搬送。
内部は入口付近のみ調査。
俺は、大型を討伐という文へ目を止めた。
あの三百ポイントだろうか。
そうかもしれない。
だが、決めつけることはできなかった。
続きを読む。
負傷者。
必要な物資。
入口の幅。
内部の通路。
景綱の右膝についても、短く記されていた。
痛みが出たため、前へ出ず、配置を変えて指揮を継続。
俺は、その一文を二度読んだ。
隠していない。
それに、少し安心した。
「玄庵へ、負傷者の情報を」
「すでに使いを出しております」
「灯りと縄は」
「集めております。現地からも数が示されましたので、合わせて積ませます」
俺は頷いた。
書状の最後には、簡単な図があった。
入口。
緩い下り。
右への曲がり角。
そこから先は、白い。
何も描かれていなかった。
未確認。
その二文字だけがある。
「壁が、石積みに見えたと……」
俺は呟いた。
宗玄も図へ目を向けた。
「自然の穴とは、様子が異なるようでございます」
誰が造った。
何のためにある。
考えかけて、いまは違うと思った。
まず、そこから魔物が出てくる。
その先へ、俺の兵が入ろうとしている。
謎を知りたい気持ちより、先に考えるべきことがあった。
「返書を頼む。負傷者は、こちらで受け入れる。灯りと縄も送る。内部へ進む支度は、急いで整えてほしい。ただし、確認できていない場所へ、無理に兵を押し込まぬように」
「承知いたしました」
宗玄が書き留める。
俺は、図の白い部分を見た。
そこに何がいるのか、誰も知らない。
景綱も。
朔も。
俺も。
その分からなさが、紙の余白になっていた。
*
宗玄が出ていったあと、俺はしばらく座ったままだった。
廊下では、また人が動き始めている。
玄庵のところへ向かう者。
物資の数を確かめる者。
返書を運ぶ支度をする者。
俺が読んだ紙から、次の仕事が生まれていた。
机の上へ、石切場の図を広げ直す。
曲がり角の向こうは、白いままだった。
そのとき、通知が浮かんだ。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+五】
少しして、また五。
橋の前かもしれない。
石切場の入口かもしれない。
いま届いた報告の時刻より、前線は先へ進んでいる。
そのことを、俺は改めて思った。
紙が届いたころには、状況は変わっている。
だからこそ、現地で判断する者が要る。
俺の命令だけで、すべてを動かそうとしてはいけなかった。
俺は、心の中で宝庫を呼んだ。
淡い文字が浮かぶ。
【王の宝庫】
【所持ポイント:一二〇〇】
千二百。
俺は、その数字を見た。
四百を使い切ってから、ここまで貯まっていた。
十回、まとめて引ける。
その事実へ、胸が小さく動く。
何が出るだろう。
灯りが出れば。
薬が出れば。
あの白い余白へ進むための、何かが出れば。
願いが、次々と浮かんだ。
だが、俺はまだ、召喚を選ばなかった。
机の上にある紙を、先に揃えた。
前線から求められたもの。
城から送れるもの。
玄庵が必要としているもの。
直澄が支払いを待たせているもの。
手に入れたものを、どこへ回すか。
それを考える場所を、空けておきたかった。
窓の外では、夕日の色が薄れ始めていた。
旧石切場でも、もうすぐ暗くなる。
穴の外へ立つ兵は、夜の間も見張りを続けるのだろう。
俺は、曲がり角まで描かれた図へ指を添えた。
ここから先を、歩く者がいる。
松明の光を頼りに。
前の兵の背を見ながら。
見えない奥へ、足を出す者がいる。
俺は図を脇へ寄せ、机の上へ広い場所を作った。
その向こうで、宝庫の文字が静かに光っていた。




