第五話 石切場への道
地図の上に置かれた石は、四つあった。
一つは月白大橋。
一つは、その北を通る街道。
一つは東側の低丘。
最後の一つは、旧石切場の奥へ置かれていた。
ダンジョンの入口だった。
景綱は、その四つを見比べた。
重蔵と副官、それから先遣隊長が、机代わりの板を囲んでいる。傍らには、偵察を終えた朔も立っていた。
「南の道は、ここで狭まるのだな」
景綱の指が、石切場の手前へ止まる。
「はい」
朔は答えた。
「崩れた石が寄っております。人は通れますが、槍を並べたまま進むには狭すぎます」
「東の細道は」
「石切場の中へ続いております。ただ、途中の木々が多く、全体は見通せませんでした」
景綱が、案内に出た詰所兵へ目を向けた。
「以前は、何に使っていた」
「石を切り出す者たちの通り道でございます。小さな荷を背負って出入りすることはできましたが、荷車は南の道を使っておりました」
「道の先は分かるか」
「古い分かれ道までは。そこから先は、もう長く使われておりません」
景綱は頷いた。
通れることと、兵を進められることは違う。
まして、帰るときには負傷者を抱えるかもしれなかった。
「西は使わん」
川側の斜面へ、指を置く。
「崩れた石の上を歩かせて、足場を失えば終わりだ。川へ押し落とされる場所で戦うつもりもない」
「承知しました」
副官が答えた。
外から、木を打つ音が聞こえた。
橋の東詰めでは、障害物の補強が続いている。
王都から運ばれた矢の木箱は、すでに開けられた。止血薬も衛生兵へ渡されている。
物資が着いたことで、動けるようになった。
だが、着いたばかりの荷を全部、北へ持っていくわけにはいかなかった。
「本隊六百のうち、四百を連れて進む」
景綱が告げた。
「二百は、橋と街道へ残す。重蔵」
「はい」
「そなたには、橋の守りを頼む。詰所の兵を一度に持ち場へ戻すな。休める者は休ませ、動ける者で案内と見張りを支えてくれ」
「承知いたしました」
「輸送と護衛の二百は、糧食と負傷者の搬送を続ける。こちらから勝手に引き抜くな」
副官が書き留める。
朔は、その言葉を聞いていた。
六百名が着いたとき、ずいぶん多いと思った。
だが、橋へ残す者がいる。荷を守る者がいる。
北へ向かうのは、その一部だった。
「先遣隊からも、偵察と連絡の者を出してもらう」
景綱は隊長を見た。
「朔を含め、休息を取った者から選べ。橋との連絡は切らすな」
「承知いたしました」
景綱の指が、旧石切場の手前へ戻った。
「明日、ここまで進む。目標は、入口の周囲を押さえることだ。奥へ入るかどうかは、その場を見てから決める」
誰も、声を上げなかった。
ただ、板を囲む顔が、少しずつ地図へ近づいた。
*
夕方、橋からの新しい報告が届いた。
俺は、宗玄が持つ書状を見た途端、椅子から立ち上がっていた。
「景綱からか」
「はい。旧石切場への偵察を終えたとのことです」
受け取った紙は、折り目のところが少し湿っていた。
伝令が、懐へ入れて運んできたのだろう。
俺は机へ広げた。
ダンジョンの入口を確認。
場所は旧石切場の北奥。
入口から、小鬼と四つ足の魔物が新たに出現する様子を確認。
内部は未確認。
その下に、簡単な図があった。
西を流れる月白川。
崩れた斜面。
南から入る道。
東の低丘。
穴の位置には、墨で丸がつけられていた。
「……ここか」
俺は、その丸へ指を置いた。
そこに、ある。
地図の上では、それだけだった。
だが、景綱たちは、そこへ兵を進めようとしている。
続く書状には、本隊六百名のうち四百名を北へ進め、二百名を橋と街道へ残すとあった。
重蔵の詰所兵は、休息を取りながら守備を支える。
輸送と護衛の二百名は、補給と搬送を担当。
数字を追いながら、俺は頭の中で人を分けた。
全部を一か所へ集めれば、強いのかもしれない。
けれど、橋が空けば、運んだ物資も負傷者も守れない。
「景綱殿は、明日、石切場へ進むおつもりです」
宗玄が言った。
「入口の周囲を確保し、内部へ入る準備を整えると」
「……ああ」
俺は頷いた。
進んでほしい。
もう、橋で傷つく者を増やしてほしくない。
そう思った直後に、進めば別の場所で傷つくのだという考えが浮かんだ。
どうすればいい。
どちらを選んでも、危険がある。
何も決めずに待てば、安全になるわけでもない。
俺は、図へ目を落とした。
兵を動かす判断は、景綱に任せると決めた。
俺には見えていないものを、あの男は見ている。
「返書を出そう」
宗玄が筆を取った。
「攻略の進め方は、景綱の判断を尊重する。ただし、入口の確保と、内部への突入は分けて考えてくれ」
「はい」
「内部の広さも、道も分からぬまま、大勢を入れることは避けてほしい。退く道と、負傷者を運ぶ手を残すように」
宗玄の筆が動く。
「灯りは、足りているだろうか」
口にしてから、俺は顔を上げた。
日が届かない場所なら、朔の遠見も役に立ちにくい。
城の窓から見せてもらったとき、暗さは変わらないと、あいつは言っていた。
「手持ちの数を、確認させましょう」
宗玄が答えた。
「城内の備蓄からも、松明と油を選ばせます」
「縄もだ。道を見失わぬために使えるものを」
「承知いたしました」
俺は少し口を閉じた。
ほかに何が要る。
思いつくものを並べれば、荷車はすぐにいっぱいになるだろう。
だが、持っていったところで使い道がなければ、ただ重くなる。
「必要な道具は、現地からも挙げてもらおう。こちらの思いつきだけで積むのは避けたい」
「その旨も記します」
宗玄が頷いた。
俺は、もう一度、入口を示す丸を見た。
遠い場所にある、黒い穴。
そこへ行く者の足元を、少しでも明るくしたかった。
*
返書を待つ間に、景綱は兵を選んだ。
北へ連れていく四百名。
槍を扱う者を中心に、盾持ちと弓兵を組み合わせる。
負傷者を運ぶ役も、先に決めた。
戦いが始まってから、空いた者を探すのでは遅い。
「狭い場所で、後ろから押すな」
景綱は、各隊を預かる者へ告げた。
「前が止まれば、後ろも止まれ。槍の穂先だけを見て進むな。足元を見ろ」
「はっ」
「南の道を使う。東の細道へは、確認の者を出すが、本隊を分けて突っ込ませるつもりはない」
地図へ目を落とす。
東の低丘からなら、石切場の中を見られる。
そこへ弓兵を置ければ、南の道を進む兵を助けられる。
ただし、その場所へ至る道も、安全とは限らなかった。
朔が見たのは、偵察で通れた範囲だ。
百人を並べられるかどうかまでは、分からない。
「低丘は、先に足場を確かめる。弓を置く場所は、それから決める」
副官が頷いた。
景綱は、武具を見て回った。
折れかけた柄は替える。
盾の紐を締め直す。
矢は、王都から届いたものも混ぜ、使う弓へ合う束を分けていた。
百本の新しい矢は、軍全体から見れば多くない。
それでも、空になりかけた矢筒へ、何本かずつ戻せる。
兵たちの手つきが、少し落ち着いた。
景綱は、それを黙って見ていた。
*
朔が目を覚ましたとき、空はまだ暗かった。
すぐに体を起こす。
昨夜は、眠る前に装備を揃えておいた。
弓。
矢筒。
短い刃物。
水。
携える糧食。
一つずつ触って確かめる。
「顔が硬いぞ」
隣から声がした。
いつも近くを見張ってくれる騎兵だった。
今日は馬を置き、歩いて同行する。
「分かるか」
「暗くてもな」
朔は、口元だけで笑った。
笑えることに、少し安心した。
腹へ食べ物を入れる。
温かい汁が配られた。
椀を両手で持つと、指の冷たさに気づいた。
昨日、入口を見た。
その場所へ、今日は兵を連れていく。
自分が見落としたものがあったら。
知らずに危険な道を示していたら。
考え始めると、次々に出てきた。
「お前一人で、四百人を動かすんじゃない」
騎兵が言った。
朔は顔を上げた。
「見えたものを言えばいい。進むかどうかは、景綱様がお決めになる」
「……ああ」
朔は頷いた。
それでも、見落としてよいわけではない。
だが、見えていないことを、見えたように言ってはいけなかった。
椀を返し、立ち上がる。
空の東が、薄く白くなっていた。
*
王都からの返書は、出立前に届いた。
夜のうちに、馬を継いで運ばれてきたものだった。
景綱は、橋の西詰めで封を開いた。
入口の確保と、内部への突入を分けること。
撤退と搬送の道を残すこと。
必要な道具を報告すること。
灯りと縄は、城でも追加を用意する。
最後まで読み、景綱は紙を畳んだ。
無理に今日中の決着を求める文はなかった。
それが、助かった。
若い王へ、よい報せを届けたい気持ちはある。
だが、そのためにできぬことをできると言えば、遠征と同じことになる。
景綱は、胸の奥に浮かびかけたものを押し込めた。
いま、思い返すべきではない。
目の前には、これから連れていく兵がいる。
「重蔵」
「はい」
「橋を頼む」
「お任せください」
重蔵は、昨日までと違い、足元を確かにして立っていた。
景綱は頷いた。
残す二百名の配置は済んでいる。
詰所兵の休息も、交代も決めた。
後方から物資を運ぶ者たちには、北の部隊へ無理に追いつこうとせず、橋を経由するよう命じてある。
「出るぞ」
四百の兵が動き始めた。
その前へ、朔たちが出る。
月白川を左に見ながら、隊列は北へ進んだ。
*
歩き始めて間もなく、土壁が見えた。
橋の北に立つ、あの壁だった。
近くで見ると、表面はずいぶん荒れていた。
掻かれた跡。
叩かれた跡。
剥がれ落ちた土。
それでも、まだ道の一部を塞いでいる。
兵たちは、その東の端を回った。
朔は、壁の向こうへ先に目を向けた。
小鬼の死骸があった。
折れた枝も、石も転がっている。
生きて動くものは、いまはいない。
彼は手を動かし、後ろへ知らせた。
道が続く。
木々が近くなる。
橋の音が、遠ざかっていった。
朔は遠見を長く使い続けなかった。
見通せる場所で、短く使う。
近くは自分の目でも確かめる。
隣の騎兵は、横と背後へ視線を配っていた。
やがて、街道の先に影が見えた。
朔は膝をついた。
小鬼。
数える。
一、二、三。
その後ろに、またいる。
昨日見た群れより多い。
「止まれ」
小声が、後ろへ伝わる。
朔は目を凝らした。
小鬼の間に、背の低い獣がいた。
地面へ鼻を寄せ、何かを探すように歩いている。
「小鬼が二十以上。獣が数匹。こちらへ向かっています」
連絡の兵が、景綱のもとへ走った。
朔は、群れの先頭を見た。
まだ、こちらに気づいていない。
ただ南へ歩いている。
いつもなら、その先に橋がある。
今日は、その途中に四百の兵がいた。
*
景綱は、知らせを聞くと、その場で隊列を止めた。
前へ出て、道と周囲を見る。
右手に、木の少ない緩い斜面がある。
左は川へ下る土地だったが、まだ崖になるほど近くはない。
道の曲がり角を背にすれば、後ろの兵が詰まる。
ここなら、少し列を広げられた。
「前の槍兵、右へ寄せろ。弓は斜面へ」
副官が合図を送る。
兵が動く。
走らせはしなかった。
先に見つけた時間を、隊列を作るために使う。
「後ろは止めたままだ。道を空けろ。負傷者を運ぶ者は、左へ抜けられるようにしておけ」
「はっ」
朔が戻ってきた。
「群れの先頭が、間もなく曲がり角へ出ます」
「後続は見えるか」
「木々の奥までは見えません。いま確認できたものの後ろに、間があります」
「分かった。北を見ていろ。新たに来れば知らせろ」
「承知しました」
景綱は槍の列を見た。
盾を構える兵。
後ろから穂先を出す兵。
弓兵が、斜面へ足を置いている。
全員が同じように落ち着いているわけではない。
呼吸の早い者もいる。
柄を握り直す者もいる。
それでも、命じた場所へ入っていた。
「構えろ」
景綱が告げた。
曲がり角から、小鬼が出た。
一匹目が足を止める。
目の前の兵を見た。
叫び声が上がった。
*
最初の石が、盾へ当たった。
軽い音だった。
そのあとから、別の石が飛ぶ。
枝を振り上げた小鬼が走り始めた。
「待て」
景綱は短く言った。
弓兵は、まだ放たない。
前の小鬼が、もう少し近づく。
その後ろから、獣が飛び出した。
小鬼を押しのけ、低く地面を蹴ってくる。
「獣だ。正面を崩すな」
槍の穂先が下がった。
獣は避けようとした。
だが、横にも槍がある。
一度だけ脚を止めた、その隙に矢が入った。
肩へ刺さる。
飛びかかってきた体を、二本の槍が受けた。
兵の足が、土を擦った。
後ろの者が、前の兵の背を支える。
獣が地面へ落ちた。
「射て!」
弓弦が鳴った。
小鬼が倒れる。
後ろのものが、倒れた体へ足を取られた。
それでも、残ったものは止まらない。
欠けた刃物が盾へ振り下ろされた。
枝が、槍の柄へぶつかった。
兵が歯を食いしばった。
景綱は、その列を見ていた。
一か所へ押し込まれていないか。
後ろへ退きすぎていないか。
盾の間から、小鬼が一匹、体をねじ込んだ。
「右から三人目!」
声を飛ばす。
後ろの兵が槍を引き、短く突いた。
小鬼が崩れる。
別の一匹が、列の端を回ろうとした。
そこへ予備の兵が出た。
盾で受け、隣の槍が腹へ入る。
景綱は、自分の槍を握っていた。
前へ出れば、一匹は倒せる。
だが、いま見るべき場所は、一匹の喉ではなかった。
「左、交代」
腕を傷めた兵が下がる。
後ろの者が入る。
その交代が終わる前に、小鬼が飛び込んできた。
景綱は一歩進んだ。
伸ばした槍が、その胸へ届いた。
引く。
兵の列へ戻った新しい盾が、隙間を塞いだ。
「そのままだ。押しすぎるな」
土の上へ、血が落ちていた。
兵のものも混じっている。
槍の柄を握る腕へ、刃物がかすった者がいた。
石を額へ受け、片目を閉じた者がいた。
それでも、列は崩れなかった。
朔の声が、後ろから届いた。
「北に、三匹。間が空いています!」
「弓、北を見ろ」
景綱が命じた。
目の前の戦いへ、すべての矢を使わせない。
遅れて来た小鬼は、槍の列へ着く前に倒れた。
最後の獣が動かなくなってからも、景綱はすぐには進ませなかった。
「周囲を確かめろ。矢の回収は、そのあとだ」
兵の呼吸が聞こえた。
誰かが、大きく息を吐いた。
道は、ひとまず開いていた。
*
王城の庭で、俺は荷車を待っていた。
前線へ出す車ではない。
橋から、負傷兵が戻ってきたのだ。
玄庵が先に歩いている。
俺の姿を見つけると、少しだけ眉を寄せた。
「陛下。どうか、運ぶ道は空けておいてくだされ」
「分かっている」
俺は壁際へ寄った。
担架が降ろされる。
一人。
また一人。
薬で出血を抑えたという三人も、その中にいた。
顔色は悪かった。
思っていたより、ずっと。
報告書には、搬送の見込みと書かれていた。
その言葉から、俺は勝手に、もっと落ち着いた姿を思い描いていた。
男の一人が、唇を動かした。
水を求めたのだろうか。
衛生兵が顔を寄せ、短く何かを答える。
玄庵が手を上げた。
「その者から、こちらへ」
担架が運ばれていく。
俺は、邪魔にならない場所で立っていた。
何か言いたかった。
よく戻った。
いまは休め。
だが、俺を見るために目を開けさせることも、返事をさせることも、したくなかった。
担架が戸口を越えた。
その後ろを、泥のついた兵が歩いてくる。
肩から布を吊り、腕を支えていた。
俺に気づくと、慌てて姿勢を正そうとした。
「そのままでいい」
先に告げた。
兵の動きが止まる。
「橋からか」
「は、はい。月白大橋の詰所におります、市助と申します」
あの名だった。
溝へ取り残され、朔が見つけた弓兵。
「報告は聞いた。戻れてよかった」
市助の口が、わずかに開いた。
俺は続けた。
「いまは治療を受けろ。話は、それからでいい」
「……ありがたく、存じます」
頭を下げようとしたので、俺はもう一度、手で制した。
市助は衛生兵へ付き添われ、奥へ歩いていった。
俺は、その背を見送った。
報告書の中にいた者が、ここへ来た。
生きている。
そのことを喜んだ。
同時に、紙の上では分からなかった重さが、胸へ残った。
*
景綱の部隊は、最初の戦いのあと、短い休止を取った。
死者はいなかった。
負傷者は出た。
歩ける者と、橋へ戻す者を分ける。
進む前に、矢の残りを確かめた。
朔は水を飲んだ。
自分は槍の列へ入っていない。
それでも、喉はひどく乾いていた。
見張りの間、息を浅くしていたのだと気づく。
隣の騎兵が、矢筒を確かめている。
「大丈夫か」
朔が尋ねた。
「ああ。お前は」
「見える」
「そうじゃなくて、体だ」
朔は少し黙り、それから頷いた。
「まだ大丈夫だ」
「疲れたら言えよ」
「ああ」
先の方で、景綱が副官と話していた。
負傷者を送り返す者が決まる。
橋へ知らせを持つ者も、同時に出る。
進んだ場所と、戦った相手と、残る兵の状態。
自分たちがどこにいるかを、後ろへ残す。
朔は、その手順を見た。
遠くを見ることだけが、情報ではない。
見たものが誰かへ届いて、初めて次の仕事へつながる。
「出るぞ」
声がかかった。
兵が立ち上がる。
朔は弓を背負い直し、また隊列の前へ出た。
*
旧石切場へ近づくほど、地面に石が増えた。
木々の間から、白い石肌が見える。
昨日、朔が身を潜めた低丘が、右手へ現れた。
彼は案内の兵とともに、先に斜面へ入った。
護衛も続く。
前より人数は多いが、全員を一度に上へ出さない。
木々の陰で止め、足場を確かめる。
同じ場所から、石切場の中を見た。
いる。
昨日より多く見えた。
小鬼が、旧作業場へ散っている。
切り出した石の陰に、獣が伏せていた。
入口の前には、背の高い小鬼のようなものもいた。
他の小鬼より頭一つ大きい。
腕が太い。
手には、長い木材を持っていた。
「大きいのが一匹」
朔が告げた。
「入口の前です。小鬼より背が高い。武器は木材のように見えます」
景綱のもとへ知らせが走る。
朔は、その大きな影を見続けなかった。
東の細道。
南の入口。
石の陰。
上の段丘。
高い場所から、こちらへ石を落とせるものがいないか。
見えた範囲を順に確かめる。
「上の段には、いまのところ見えません。ただ、岩壁の際は隠れます」
副官が上ってきた。
斜面の途中から、石切場を覗く。
「弓を置けるか」
「こちらの木の間なら、少人数ずつであれば。ただ、南の道へ射ると、進む味方と重なるおそれがございます」
「分かった。向きを分ける」
副官は、弓兵を置く場所を示した。
全部を丘へ上げない。
足場のよいところへ分け、北側を狙わせる。
南の狭窄部を進む兵へ、矢を向けない。
朔は、後ろを見た。
兵が静かに斜面を上ってくる。
木の枝を避け、互いへ手を貸している。
自分が昨日伏せていた場所が、今日は弓兵の持ち場になっていた。
*
景綱は、南の道の手前で兵を止めた。
旧作業場は、目の前にある。
だが、そこへ入る口は狭かった。
崩れた石が、道の左右へ寄っている。
その中に、転がれば足を挟みそうな大きさのものもある。
「先に、こちらへ出させる」
景綱が言った。
副官が頷いた。
狭い場所へ隊列を押し込めたところで、北から魔物が来れば、後ろは何もできなくなる。
まず、南の道の手前に陣を置く。
弓兵が矢をつがえる。
盾持ちが前へ出る。
景綱は東の低丘へ目を向けた。
合図が返った。
配置できた。
そういう知らせだった。
「始めろ」
弓兵が一矢を放った。
作業場の端にいた小鬼へ刺さる。
叫び声が上がった。
別の一匹が顔を上げる。
獣が立ち上がった。
二矢目。
今度は石へ当たった。
乾いた音が、石切場へ響いた。
小鬼がこちらを見た。
声が重なる。
ばらばらにいたものが、南へ向かって走り始めた。
先頭の獣が、崩れた石を跳び越える。
その後ろで、小鬼が足を取られた。
狭い場所が、今度は敵の動きを鈍らせた。
「槍、構えろ!」
獣が、穂先へ飛び込んだ。
盾が鳴る。
槍の列が、一歩だけ下がった。
後ろの兵が支える。
低丘から矢が飛んだ。
南の道へ入ろうとしていた小鬼が、横へ倒れる。
後ろのものが、そちらを向いた。
東の丘からも攻撃されている。
気づいた小鬼たちの動きが割れた。
南へ走るもの。
東へ向くもの。
石の陰へ隠れるもの。
景綱は、その様子を見た。
「丘へ向かうものを止めろ。追って下りるな」
合図が伝わる。
丘の下へ、槍を持つ兵が移る。
弓兵だけを置いておいたわけではない。
東へ回ろうとした小鬼は、木々の手前で槍に出会った。
旧作業場の奥で、大きな影が動いた。
木材を持つ魔物だった。
小鬼を押しのけ、南へ歩いてくる。
走らない。
太い腕に、長い木材をぶら下げている。
「大きいのが来ます!」
低丘から声が飛んだ。
景綱は槍を構え直した。
「正面を固めるな。振る幅を見ろ」
木材が、持ち上がった。
*
朔には、その動きがよく見えた。
魔物の肩が回る。
両手で握った木材が、横へ引かれる。
叩きつけるのではない。
横へ薙ぐつもりだった。
「横です!」
朔は叫んだ。
声が南へ届く。
前の兵が身を引いた。
木材が盾の端を叩いた。
男が倒れる。
隣の兵が、腕をつかんで引きずる。
大きな魔物は、振り切った木材を戻そうとした。
その脇腹へ、槍が入った。
吠え声が響く。
だが、倒れなかった。
柄をつかもうと、太い手が伸びる。
槍を持つ兵が、先に手を離した。
別の方向から、矢が飛んだ。
肩へ刺さる。
魔物が東を向く。
朔は、その顔を見た。
怒っている。
そんなふうに見えた。
だが、何を考えているかは分からない。
朔は弓を引いた。
狙うのは顔ではなく、動きが止まった胴だった。
放つ。
矢が、上腕へ入った。
魔物は木材を引きずり、東へ一歩動いた。
南の槍兵が、そこへ踏み込む。
景綱がいた。
他の兵と同じように土の上へ足を置き、低く槍を出している。
穂先が、魔物の脚へ入った。
膝が曲がる。
別の槍が、その腹を突いた。
魔物は、それでも木材を持ち上げた。
景綱が下がる。
木材が、地面を叩いた。
石が跳ねた。
兵の一人が顔を覆った。
その間に、三本目の槍が首へ伸びた。
魔物が、前へ崩れた。
持っていた木材が、道を塞ぐように転がる。
朔は弓を下げかけて、入口へ目を戻した。
そこから、また一匹、小鬼が出てきた。
「入口から、新たに一匹!」
声を上げた。
倒したものの向こうから、まだ出てくる。
景綱が、その知らせへ短く手を上げた。
*
景綱は、すぐには前進を命じなかった。
目の前の大きな魔物は倒れた。
だが、狭窄部には死骸と木材がある。
そのまま兵を進ませれば、足元がさらに悪くなる。
「盾を前へ。弓は奥を見ろ」
矢が飛ぶ。
入口から出てきた小鬼が、石の陰へ逃げた。
その間に、兵が木材へ縄をかけた。
道の外へ引く。
死骸も、通る場所から寄せる。
誰かが急げと叫びかけた。
景綱は止めた。
「足元を確かめろ。そこで脚を折るな」
兵が息を入れ直す。
道が、一人ずつ通れる幅になった。
次に、盾持ちを先へ出す。
槍兵が続く。
横へ広がれる場所まで進んだら、そこで列を作る。
後ろを押さない。
前が止まれば、止まる。
朝から繰り返してきた命令が、そこで使われた。
兵たちは、狭窄部を越えた。
旧作業場へ入る。
景綱も、そのあとに続いた。
足元には、切り出した石が転がっていた。
古い木枠が、半分崩れている。
錆びた道具があった。
人が働いていた場所だった。
その間を、小鬼が走る。
景綱は、入口へ向かって一直線には進ませなかった。
「右の石積みを確かめろ。左は壁際へ寄りすぎるな」
隠れたものを、後ろへ残さない。
石の陰から飛び出した小鬼を、盾で受ける。
槍で倒す。
低丘の弓兵は、味方が近づくにつれて射つ場所を狭めていった。
見えた敵すべてへ射るのではない。
味方と重ならぬものを選ぶ。
合図が、何度も往復した。
旧作業場の南側が、兵の立てる場所になった。
それから中央。
奥へ進むにつれ、空気が冷たく感じられた。
北の岩壁に、穴が開いていた。
黒い。
昼の光が、その縁で途切れている。
景綱は、そこから距離を取って兵を止めた。
*
王城の執務室で、俺は筆を持っていた。
うまく書けない。
字そのものではなく、返事の内容だった。
水瀬から来た書状には、港で受け入れられる人数と、倉庫の状況が記されていた。
避難民をどこへ置くか。
荷の積み下ろしをどう続けるか。
運河の通航に支障が出た場合、どの品から回すか。
宗玄に教わりながら、一つずつ決める。
その途中で、視界の端が光った。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+五】
指が止まった。
また、文字が浮かぶ。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+一〇】
景綱は、進んだのだろうか。
橋の周りで、また群れが来たのだろうか。
分からない。
報告は、まだない。
「陛下」
宗玄が呼んだ。
俺は顔を上げた。
「こちらの倉の使用についてですが」
「……ああ。すまない。もう一度、頼む」
宗玄は、何も問わずに説明を繰り返した。
俺は聞いた。
ここで止まっていても、前線の様子が見えるわけではない。
兵が帰ってきたとき、寝かせる場所が要る。
避難した者が、明日食べるものも要る。
その仕事を、俺が止めてはいけなかった。
書状へ返答を書きつける。
その横で、通知がまた浮かんだ。
今度は、少し大きな数字だった。
俺は唇を結んだ。
どうか、持ちこたえてくれ。
胸の中で言ってから、筆を動かした。
*
旧石切場の入口は、人が二人並べるほどの幅だった。
景綱は、近づきすぎない位置から見ていた。
中へ光を入れても、すべては見えないだろう。
通路が曲がっているかもしれない。
下っているかもしれない。
すぐ先で広がっている可能性もあった。
「前へ出す盾は、二枚までだ」
景綱が告げた。
「入口を塞ぎきるな。出てきたものを受ける場所を空けろ」
兵が頷く。
その後ろへ槍。
左右には弓兵を置いた。
ただし、穴へ向かって絶えず矢を放つことはしない。
見えないものへ使えば、なくなるだけだった。
副官が戻ってきた。
「南の進入路、確保いたしました。負傷者は、いったん狭窄部の外へ集めております」
「橋へ運ぶ者をつけろ。途中の道へも見張りを残す」
「はっ」
「東の細道は」
「入口付近まで確認いたしました。さらに先は、まだです」
「奥へ追うな。外から近づくものを知らせられる位置へ置け」
「承知いたしました」
景綱は、右膝へ意識を向けた。
動かしたあとだからか、じわじわと熱を持っている。
立てる。
歩ける。
だが、長く踏み込む戦いを続ければ、明日へ響く。
彼は副官を呼び止めた。
「膝が痛み始めた。しばらく、こちらで指揮を執る。外周の確認は任せる」
「承知しております」
副官は、景綱の足元を見てから頷いた。
景綱は、手近な石へ腰を下ろした。
その姿を見た兵が、一瞬、目を向ける。
景綱は、その兵へ次の指示を出した。
「入口の前へ、転がる石を残すな。盾を引くときにつまずく」
「はっ」
兵が動いた。
座っていても、指揮は続けられた。
*
朔が低丘から下りてきたとき、旧作業場には王国兵が立っていた。
昨日は、小鬼と獣を数えた場所だった。
いまは、兵が石を動かし、矢を集め、傷ついた者へ布を巻いている。
血の匂いがした。
土と、古い木の匂いもする。
朔は景綱の前へ出た。
「北の段丘には、見えた範囲で敵影はございません。東の細道も、いまのところ接近するものは確認しておりません」
「分かった」
景綱が答える。
「少し、入口を見てくれ。ただし、前へは出るな」
「はい」
朔は、指定された位置へ立った。
隣には、いつもの騎兵がいる。
遠見を使う。
穴の縁が、はっきりする。
石が新しく割れたところ。
不自然に滑らかなところ。
奥は暗い。
やはり、見えない。
「……奥は分かりません」
朔は答えた。
役に立ちたい。
もう少し見えると言いたくなる。
だが、見えなかった。
「入口のすぐ内側は、少し下っているように見えます。ただ、床全体を確認できておりません」
「それでよい」
景綱は頷いた。
「ここから先は、別の支度が要る」
朔は、黒い穴を見た。
遠見を得てから、見つけられたものは多かった。
街道の人影。
川沿いの小鬼。
溝へ落ちた兵。
だが、いま目の前にある暗さは、変わらない。
自分の力が届かない場所がある。
そのことを、朔は初めて、はっきりと感じた。
*
入口の奥から、小鬼が出てきた。
最初に気づいたのは、前の盾兵だった。
「来るぞ!」
声が上がる。
景綱が顔を上げた。
小鬼は、穴の外へ足をついたところで止まった。
昨日までとは違う景色を見たのかもしれない。
目の前には、槍の列があった。
甲高い声を上げ、刃物を振り上げる。
盾が受けた。
横から伸びた槍が、その体へ入った。
小鬼が倒れる。
兵は、奥へ追わなかった。
槍を引き、元の位置へ戻る。
景綱は、その動きを見届けた。
「よし。そのままだ」
入口へ入る兵は、まだ選んでいない。
灯り。
縄。
盾。
狭い場所で扱える武器。
帰ってくる者を迎える、外の部隊。
いまここにいる四百人を、そのまま暗い穴へ流し込むつもりはなかった。
副官が、書きかけの報告を持ってきた。
「陛下へ、まず入口周辺を確保した旨をお伝えいたします」
「ああ。こちらの損害も、確認できたものから記せ。負傷者の搬送を始めたこともだ」
「承知いたしました」
「内部へは、まだ入っていない。それを、はっきり書いておけ」
「はい」
景綱は入口へ目を戻した。
暗い穴が、岩壁の奥へ続いている。
そのときだった。
低い音がした。
石切場のどこかで、石を落としたのかと思った。
だが、違った。
音は穴の奥から来た。
一度。
間を置いて、もう一度。
足元の小石が、かすかに震えた。
前にいた盾兵が、姿勢を低くした。
朔が息を止める。
景綱は立ち上がった。
「全員、入口から離れろ」
声は大きくなかった。
それでも、近くの兵がすぐ動いた。
「盾は引きながら構えろ。槍を詰めるな。弓、左右へ分かれろ」
暗い穴の奥で、何かが擦れた。
石を引きずるような音だった。
そのあとに、重い息が聞こえた。
景綱は槍を受け取り、北の岩壁を見た。
入口の周囲は、確保した。
だが、終わったわけではなかった。
暗がりの向こうで、もう一度、地面が鳴った。




